Z.
・・・・・・・

「さて売人の証拠をつかもう」いっちゃんがそっけなく言って手首の関節をぽきんと鳴らす。「トビオ、お前エミョンの作ったカメラと盗聴器を仕込んで取引とやらに行きなさい。後方から見守っていてあげるから。危ない役割だけど、身から出たサビだ」

「無理!」
 思わずオレは叫ぶ。「オレは行けねぇよ。……えーと、えーと立場がヤバい。なんて言うか、その、水増し売りしてたのがバレたんで、思いきりディーラーににらまれてるっていうか……」

 今はいっちゃんににらまれてる。「たぶん、売ってもらえないし、アクセスした時点で向こうは警戒するだろ」声がしゅるしゅると萎んで小さくなってしまう。

 爪をぎらんと出した両手を天に向けて、ぎりぎり憤りフェイスのいっちゃんの心の声がオレには聴こえる。とことん使えない! と、おそらく内心で絶叫中。

「俺が行きます」

 ぽこんと救いの声。おそらくは誰も予期しない方向から。

 ピーフケだった。

「俺、ライムとか買ったことないけど、遺棄児童の貧乏なバイトだし、相手も、なんか普通の客だって思うんじゃないすか。楽勝っすよ」

 ぜんぜん楽勝な顔じゃない。真剣にリスクを受けとめて気合いの入った表情。またしても男前っぽくなっているピーフケ。
「トビオのことは言わねぇで、偶然に売人の番号わかって電話したふりしますよ。ライムすげぇ欲しそうにして。だから、俺にその役やらしてください」

 あのさぁ、ピーフケ。

 オレは何か言いたいが、言葉がぐねぐね渦巻いて胸が苦しくなるばかり。何もわかってない困ったいっちゃんが、気を呑まれてうんうん、などとうなずいている。

「そうか。ピーフケがやってくれるの」

 バカッ! と叫んでいっちゃんの面を張り倒したいが、それはできない。ピーフケの格好いい場面、潰しちゃいけないよな。

「やります。俺、馬鹿だし、他に何にも役に立つことできねぇみたいだから」

 もう切ない。

 いっちゃんにはピーフケのとんでもない気合いの意味がまるでわかっていない。危なさ極まりない役を買って出るってことが、ヤツの精いっぱいの、いっちゃんに向けてのアピールだってことがわかってない。

「ありがとう、ピーフケ。危険なことで、できれば任せたくはないけど、トビオが使えないのならやむを得ない。ガードを固めて、危ない目に遭わないように援護するよ。……ピーフケは馬鹿なんかじゃない、すごく勇気ある男だよ。自分をおとしめるような言い方はしないでほしい」

 そうだ。本物の馬鹿はいっちゃんだからな。

 ピーフケが顔の真ん中あたりからゆっくりと、泣くかのように、面映いかのように不思議な笑みを作る。けば立った紫のシャツの胸あたりが大きく動いている。きっと鼓動がものすごいんだ。



 この時点で会議の開始から三時間近く。
 テルミはどうしているのか。オハナ姐さんが現れる気配もない。
 がたがたトラックに揺られてきたオレたちの疲労はまるまる態度に出て、全員が生あくびや薄目にちらちら現れる眠気の気配。会議室全体が微妙に重くなる。

「今日はここまでが彼らには限界かな」
 見回すテシュノがため息をつく。はいはい、オレらもうダメです。根性ないし。

 俺は大丈夫っす、と元気出したがるピーフケを毒の視線で封じ込めて、オレたちは眠い眠いと首を振る。

「じゃあ、プラクティカのバイト組は部屋に戻って眠りなさい。フキ……じゃなくてミランにはもう少し残って欲しいから、トビオもそこに待機」いっちゃんが容赦ないことを言う。あの、殴っていいですか?

「いいえ、彼らの全員に睡眠が必要よ。成長期には夜ふかしが禁物。ミランもダメージの大きい脳の活性には休息が重要でしょう。私たちだけが残って他の討議を続けましょう」

 チフユちゃんの発言ばんざい。

 テシュノもそれに賛同し、オレたちはぼやけた目つきのままぞろぞろと会議室をあとにして、割り当てられた宿泊室に戻り、
 とにかくベッドに頭から倒れこんで眠った。



 目の前にでかい水の流れ。

 足もとを押し上げるようにぐんと波が立ち、ぼふぼふと深くはやく流れていく大河。
 向こう岸の見えない、とんでもない規模の濁流だった。オレは川辺にぽかんと立ち、圧倒的な水流をなすすべもなく見つめている。

 ぷ、うふぅ、と泥混じりの水を吐き出して、禿げ上がりかけた額を流れから持ち上げる男の顔。親父。ギャロップだ。
 腱と血管の浮き出た青黒い手をぎりぎり強ばらせて、岸辺のしょぼい草を全力でつかんでいる。汚い土にめりこむ爪。ざあああと腕の上を洗う乱暴な水のうねり。
 親父は水没しかけて、ぼこぼこと頭を流れに揺らしながら、水を呑んだり吐いたり忙しく浮き沈みしながら、みっともなく大慌てして雑草に指を食いつかせている。溺れかけている。
 はやく助けろよコラ、と浮きかけた瞬間に叫ぶがごぼ、と濁った水を口に受け、瞬時に力をなくしたように水面下に姿を消す。突っ張る両腕の筋肉。白々と震えて冴える甲の腱。
 恨みがましい顔が水の合間からふっと浮き上がり、オレを焼き尽くしそうににらみつける。助けろって言ってんだろ。

 オレは動けない。動かない。

 地面に埋め込まれたようにそこにいて親父が溺れるさまをひたすら見ている。指一本でも動かせばオレも親父ごと流されてしまうように思えて怖い。すうすうするような歓喜を含んだ異常な恐怖。

 ギャロップの右手がぐんと滑り、いちど泥に深く潜ってからずるんと流される。もう左手の先だけを雑草に絡みつかせている段階。
 本物の怯えに見開かれた親父の目が流れの合間からオレを見て、トビオ、と口が動く。親父がつけた名前。オレの名前。
 動けないオレの目がレンズみたいになって、親父の姿が二つになってぼわんとにじむ。

 濁流は容赦なくオレの足もとを洗い、親父の体をどぼどぼと突き動かしながら流れている。



 口と喉の筋肉がいやな痛さに突っ張っていた。目尻から耳にへんな冷たい流れ。

 しんと静かな灰色の光に身を起こすと、低く鳴るエアコンの通低音が耳もとをすべる。ぱりぱりと優しいブランケットの感触。おねしょみたいに尻あたりを熱くする汗と体温。

 隣のベッドではフキがずうずうと寝息を立てていた。苦しげな深い眠り。オレは起こさないようにそっと立ってひんやりした床に素足をつける。

 厚ぼったい遮光カーテンを細く開ける。
 ぎらぎら、じわじわと線になってこぼれ落ちる初夏の光。まともに額に浴びてくしゃみが出そうな朝の光。

 ふり返ると、それぞれのベッドでエミョンとケンズとピーフケとリンタロが、様々なかたちで眠りの底に落ち込んでいた。
 薄闇に浮かび上がる起床アラームの時刻を見る。午前五時四十九分。

 もうちょい、寝ようかな、と思う端から奇妙な衝動がオレを突き上げる。寝てたら何だっていうんだ。きつい夢にまた浸ったらどうなるっていうんだ。

 オレにはもう惰眠も夢もいらない。
 オレには生きて起きて動くエネルギーがむちゃくちゃにある。
 ただ、これまでその使いかたをまったく知らなかっただけだ。

 オレは悪夢で汗染みのできた作業服をゆっくりと脱いだ。ベッドの足もとにたたんで置いてあった、クリーニングのすんだ軍隊ズボンをきっちり身につける。左の腰あたりにすっぱり破れ目。

 よし、と呟く。何がよしだかわからないが。

 オレはみっちり充足して朝の始まりに一歩を踏み出す。



 あひるがくわくわどぷん、と池に飛びこんだ。派手なしぶき。でかい尻に文句をたれながら歩いていたのが嘘だったかのように、水面では軽いボートみたいに揺れてすいすい漂う。

 池と水路と水浴び広場。やたら光を含んだ水流がよじれながら流れる。日差しをきっちり透過する木立がざくざくと立ち並んでいて、宿泊所の裏手はなかなか本気な自然公園だ。

 オレはベンチに腰掛けていちご牛乳を飲んでいた。なんだか知らないが通りすがりの工員がくれたのだ。よ、坊主おまえはアレか、とにかくこれ飲んでがんばれや、とか言いながら。あったかい空気と涼しい風、足もとにはぶどうパンのくず。蟻がわさわさ寄って来る。

 誰も起きてこなくてつまらないから、うろうろと宿舎を巡回し、ほかりと湯気がこぼれる食堂を覗いてみた。配膳のオバチャンたちがテレビを眺めながら朝食をとっていて、オレを見るなりあんれまあ早起きでいい子だったごと、そしたらこれ食べたらいいわあ……と大騒ぎしてパンを分けてくれたのだ。なんなんだ、いったい。

 昨日の夜はがら空きに見えた宿舎は、今朝は別の意味ですでに無人だった。すでに標準の朝食を終えて皆が働きに出たあと。外に出るとういーんがんがん、ぴぴぴぴどんどん、と深くくぐもる音がそちこちから響いてきて、工場は元気いっぱいに稼動中。トラックが出たり入ったりしている。朝の六時だってのに目まぐるしい。

 たまたま行き交う職員や工員はみんな当たり前みたいに声をかけてくる。いちご牛乳だっておごってくれる。どうやらこの工場では同情と容認をされているらしき、オレたち焼け出され青少年。

 黄色っぽくぼさぼさして小さいあひるが一羽、大きいのの後を追ってつぷんと水に飛びこんだ。きゅわきゅわとやたら鳴く。翻訳しなくたって何を言っているのかわかる、ボクを置いてかないでママン。

 フキを思い浮かべてくっ、と笑ったあと、変に白っぽく頼りない気持ちが胸にわき起こる。

 オレにもどこかに母親っているのかな。

 そのことについては、と言いかけて下を向いた昔のいっちゃんを思い出す。あたしには聞きだせなかったことだ、嫌でも、お前自身が父親に尋ねてみるしかないよ。

 ギャロップは矯正地区で今どうしているんだろう。延々と押しピンでも作ってるかもしれないな。科された禁錮は実に七十五年。それじゃ終身刑も同然だ。

 面会に行くことなんて、今の今まで考えてみたこともなかった。いちご牛乳のビンをくりくり回してみる。甘ったるくモヤモヤした匂い。すでに手の中でうすら暖かい。

 ギャロップに、会って話す。母親のことを訊く。面会室で正面からばすんと質問を投げて。どこにいるんだ? 生きてるのか? どんな人なんだ?
 オヤジ本人のことだってオレの記憶から消したいのに、関わってたヤクザ屋さんの連中。まるで、どうも、つながり持ちたくない。昔だってチビのオレには話が重すぎた。忘れたい。なかったことにしたい。

 牛乳瓶がとつぜん持ち重りした。つるりと滑って落しそうになる。あわてて膝で受ける。

 きつい問題だ。手に余る。
 別にいいや、今はどうだって。

 ざくんと勢いよく立ち上がったら、あひるの親子が首を並べてこっちを向いた。ぎゅわかかかか、と羽を膨らませて騒ぐ。なんだよ。

 オレは牛乳瓶をぼうぼう吹きながら宿舎の方にゆっくり戻っていく。



 朝食をとりながら同時に本日はじめの会議、なんていう非人情な決定。オレたちに伝えるのはいっちゃんでも嫌だったに違いない。
 力ないノックをしてドアを開き、重力に耐えかねるような顔で覗きこんだが、一瞬後にはびっくり箱を開けた子供の表情になって立ち尽くした。

 オレたちは全員フルでハイテンション、起床時刻前からベッドに飛び乗ってぼんぼん跳ね、あひるーのパンツはいいパンツー、ふくよかー、ふくよかー、と歌いながら踊っていたのだ。

「あっ、壱子センセイおっはよーうでーす」
「遅い遅い、俺らもう腹へっちゃってさあ」

 ぎゃたぎゃた笑う。先導して騒ぎにしたのはオレだ。

 牛乳瓶を吹き鳴らしながら帰ってきて、そのまま寝ている連中の上に飛び乗ってどしゃめしゃに踏み荒らしてやったのだ。うわ、なんだ何だ、と呟きながらおたついている友だちをていねいに一人ずつくすぐり、耳もとで濡れたいやらしいキッスの音を聞かせるなどして、とても冷静に寝ていられないパニックに追い込んでやった。
 最初は怒りながら起き上がり始めた連中も、オレが各ベッドをダイブしながら騒ぎ散らしているお祭りモードに感染し、枕を投げたりシーツをかぶって走り回ったりと暴れ始めた。
 うまい朝飯が待ってるぞー! とシュプレヒコールすると、ヤー! とやけくそ気味のレスポンス。
 なんたって普段のボロい自宅ライフじゃない。ここは旅先、恥はかき捨てのすてきなゴージャス宿舎だ。一気に修学旅行のノリ。

「なんかトビオがやたら元気でさ、寝かしておいてくれないんすよ」
 いちおう解説するピーフケに、いっちゃんは嘆かわしそうに頭を振る。
「食堂に全員集合。朝ごはんしながらの会議。……まったく、若いってのは羨ましいよ。あたしなんか、睡眠不足で老けこみそうだっていうのに」

 わー本当だ、と言ってまじまじ眺めるオレの首を、むっつり近寄ってきたいっちゃんは容赦なく締めた。ぎゅうぎゅうと。「つい先週まで何でもダルそうにしていたくせに、トビオはなんでそんなにテンションが高いんだ? 躁病か? 何かヤってるのか?」

 違うちがう、とオレは圧死の寸前でむぐむぐ喚く。「何にもヤってねぇよ。ただどんどん早起きになるんで変に調子が上がってんだよ。オレはエンジン掛かりにくいたちだけど、いっぺん掛かると止まんなくなるんだから仕方ねぇじゃないか」

 いっちゃんが手を離した。はー、とため息をつく。「まったくピーキーな奴だ」くる、と後ろを向いてつかつか部屋を出ながら言い放つ。「とにかく十分後に食堂に集結」ちょっとだけ見えた横顔が、嵐の晴れ間みたいに光った、のは錯覚かな。



「テルミ君が喋った」
 挨拶ぬきでいきなりのテシュノ。こっちも少々お肌に年齢が出ている。本気で徹夜したのか、オトナの皆さんは。

「まじ! すげぇじゃん何て言ったんだエピスコの機密とか出てきたのか」オレは止まらない勢いに乗って訊きつつ目の前のぶどうパンをわしっ、とつかむ。さっき一つ食べたけどすでに腹ぺこ。

 優雅にポタージュをすするチフユちゃんがスプーンを止めて、「あのね、逆回転だったのよ」とよくわからないことを言う。隣の席にはそのスプーンの動きに興味津々のテルミ。隙あらばひったくりかねない注目度で猫のようにお尻を揺すっている。そのテルミの口もとにメロンのボールを運ぶオハナ姐さん。ブルーのサマードレスがなかなか小粋だ。

「テルミ坊が元気になったのは丑三つ時だわな」箸でハムエッグを食っているマツさんが言う。「俺たちゃもう話も済んで寝所に帰ろうかっていう時だ。オハナさんが連れてきて、せっかくだからっつうんでコードを実行してみた寸法だ。……参ったね、まるでわからないことを小半時も喋り倒してくれたもんだ」

「ああ、テルミ君はしっかりよく喋ってくれたよ。……録音しておいてよかった。最初はどこの言葉かと首をひねったが……センテンスを聞き取って逆回転じゃないか、と提案してくれたのは壱子君だ。後ろから再生したら確かにそうだった。テルミ君は、ミランにインプットされた情報を、話し言葉の逆にして言語化していたんだな」

 フォークに刺したトマトのファルシを、外宇宙からの物体であるかのようによれよれ眺めるテシュノが言う。

「あたしたちはその後すこし仮眠を取れたけれど、オハラはずっと録音を聴き取っていたんでしょう。どんな内容だったの。今日はまずそれを聞かないと始まらないわね」
 一人だけなぜか納豆をかき回しているいっちゃんは、だてメガネから視線をテシュノに飛ばして言った。皿の上にはバタートースト。もしかして、そこに納豆をかけるのか。

「説明するより、聴いてもらったほうが早い。少々、朝食時にどうかと思う内容も含まれているが、なるべく辛抱して聞き取ってくれ」
 言うなり、手もとのリモコンをぴっと鳴らす。隣のテーブルに置いてあったデッキが作動し、ノイズを散らして不思議な音声を放ち始める。

 オトナたちの疲れっぷりに感染して静かになっていたオレたちも耳をそばだて、それでも朝ごはんにどんどん手を伸ばしながら聞いた。聴いた。可愛いエイリアンみたいな声。

「ミラン・ディク、2025、きろく……わたしがつたえたいふたつのこと。じじつであることをせいしょにちかう……」

 せいしょ、って聖書? バイブルか? オレは厚切りのハムをかりかりしたパンに乗せながら思う。宣誓してるってことか。

「……いち。私は事故に遭ったのではない。エピスコ医療課の・秘密を・知ったので・口封じをされた。ラボに監禁されて・高濃度の・ライムを・口の粘膜から・注入・された。内臓への・ダメージを残さず・脳を直接おかす・危険な・摂取」

 うえ、と寒気が突き上げてオレはパンを皿に戻す。このフキを監禁して薬物を注入? どれほどの腕力があったらそんなことができるんだ。何人がかりの暴力だったんだ。

「……エピスコの・開発した・ライムという・薬物。B6神経を・刺激し・脳の・機能を・変化させる。人を・ハイパーレキスィアにする」

 納豆トーストを食べ残して録音に集中するいっちゃんが、深くうなずく。テルミの逆回転音声はつらつらと、昨日いっちゃんが解説した脳の病変をたどるように説明している。

「わたしは・ライムという・薬物の・効果と・リスクを・調べていた。知りすぎた。脳の・昂進した・機能を・治療する・方法・私は・知っている・それは」

 待て待て待て、と叫びながらいっちゃんがポケットからペンを出し、録音をメモし始める。神経系がどうの、蛋白がどうのという難しい解説。
 フキの記録は、医療課のどのセクションがどんな役割を担っているか、また研究の証拠がどこに隠されているかも説明した。

「トピックその二。なぜ・エピスコの医療課が・そんなことを・行なうのか。アデプタスの・目的のためだ」

 ふっ、濃い息を吐く奴が横にいるので見ると、フキだった。お前、ミランだろ。これを入力した本人なんだろ。そんな基本的な疑問もぶっ飛ばしてフキは背筋を伸ばし、きんきんに際立った目つきで、デッキからの音声を顎の動きで辿っている。

「……アデプタス。は・この国が・前の世界大戦・からずっと・盟約を・結んで・保護して貰っている国の・政府機関だ」

 マジで。本気で力が落ちる。この国がどこかの国のくだらない子分に過ぎないなんてこと、恥ずかしいからオトナの誰もが口に出さないだけだ。客観的にはまるわかりの、プチ占領状態。

「……アデプタスは・あの国の・出張機関だ。狙いがある。この国を・ファームとして、ある種の・戦闘要員を・育成したいと・考えている」

 ふっざけんな、何が戦闘要員だ。どうしたいっていうんだよ。

「情報戦の・コマンドを・量産したい・というのが・アデプタス・あるいはあの国の・狙いだ」

 コマンドを量産? この国を農場みたいに使って、戦闘要員を育成、ってどんな話だよ。

「情報戦って言ったのかしら」
 テルミの録音ボイスの途切れ目に、チフユちゃんがゼリーみたいに震える声をすべり込ませる。スプーンの動きが止まっている。

「……あの国は・考えた。これからの・戦争は・高度な・情報戦争に・なると。兵士の・すべてが・ハイパーレキスィアの・能力を・持てば・非常に・有利だ。最前線でも・敵の情報を・ロボットのように・サーチできる」

 誰がロボットなんだよ? と、マジでむかついた口調のケンズが呟いた。

「……この国は・あの国の・戦闘要員の・工場だ。ライムの効果を・試し・再生産し・効き目をフィードバックして・コマンドをつくりだす・あの国の・戦争の・利益のために」

 本気の怒りが背骨のあたりからぶるぶる燃え上がってきた。えらい偉いと思いこんでいたエピスコが、どこかの国の子分にすぎないアデプタスの言いなりで、しかもそいつらがライムを街じゅうに流し、人を死ぬ目に追いこんで実験材料にしている。死体から脳を回収して、またライムを作ったり、その効き目を調べて戦争に使う兵隊を量産するために、気味の悪い研究を重ねている。そこに疑問を持った研究者はあっさり潰すんだ。フキみたいに本人をライムの毒に浸して。
 オレもフキも、それだけじゃない、この国で生きる人間はぜんぶ大国の実験動物なのかよ。

 ものすごくむかついてテーブルをだん、と殴った。腹の筋肉がふるふる震える。

「落ちつけ、トビオ」
 いっちゃんが言うが、その目つきが怖ろしい。オレなんかよりずっと怒り狂っている。

 テルミの録音ボイスが止まった、と思ったら、やんわり柔らかいテイストの声音になってまた響き始める。遠くの星から地球を案じる女神みたいな宇宙人の声で。

「……二〇二五年・六月・一日。マナビ・ディクが・記録します……」

 これはマナビちゃんがテルミに託した声なのか。オレはちょっと背筋を正してその録音に耳を傾ける。

「ミラン。あなた・消えたあと・どうしてもたまらなくて・わたし・テルミの・メモリー・聞きました。……あなたの・ことばが・ぜんぶ・わかる。うれしくて……」

 食堂に集った全員が食事を止めて音声に聴き入っている。

「……とても・あぶないの。わたし・妹も・エピスコから・何度も・呼び出し・受けています。ミランについて・その居所・質問・あると・医療課・アデプタスから・脅迫・受けています。……わたしたち・断じて・テルミの・こと・明かしていない。……エピスコも・テルミは・発達・遅れた・価値のない・子供としか・思っていない……」

 思わずテルミを見てしまう。チフユちゃんが放り出したスプーンを奪い取って、そのきらきらする曲面に魅せられたようにかんかん、かつかつとテーブルを叩いて遊んでいる。途方もなく可愛いチビ。謎をぎゅっと凝縮したふしぎな子供。

「……わたしが・テルミ・預けたまま・姿を消す・の・おそろしいことだと・思われるでしょう。障害のある・子供を・捨てて・逃げる・ひどい・やりかた。そうではないの……」

 じゃあ、どういうことだよ、と、へんな怒りが湧きかけて、オレは鼻の脇をぎゅっと縮める。子供を捨てて逃げるという言葉に過剰反応。どうも感情移入しすぎだ。落ちつけオレ。

「……ミラン・どうか・聞いて。わたしと・アソビ・あなたのご両親を連れて・あの・場所・あなたにしか・わからない・所に・隠れます。……それでも・危険。テルミは・わたしたち・姉妹が・初めて・一緒に・勤めた・職場の・オーナーに・預けています。……とても・暖かいひと。テルミを・わかってくれる。……捨てたわけでは・ない。オーナー・危険に・巻きこんで・悪いことだけれど・今は・これしか・できることがないの……」

 オハナ姐さんが苦しく息を吸って、口もとを大きな手で押さえた。右手が伸びてテルミの肩を覆う。大事な子供。愛された子供。むかつくほど羨ましい。
 テルミは触られるのが嫌なのか、うねうね上半身を振ってスプーンを皿にぶつける。

「信じて。わたし・テルミと・ミランの・秘密に・最善の・こと・したいのです。……ミラン。あなた・絶対に・戻ってくる。……そういう・ひと。逃げたり・しない。いずれ・テルミ・見つけて・この・メッセージ・聞くひとだわ。……わたし・大丈夫。ご両親と・アソビ・護っている。……コード・解いて・エピスコ・アデプタスを・あの国の・企みを・潰してください。……あなたには・できる。あなたにしか・できない。信じています。待っています。……マナビ・ディク・ここに・記録します」

 きゅりきゅりと再生ディスクの回る音が食堂に響く。

 フキとテルミ以外の全員がフォークや箸を投げ出して、宙をにらみながらも顎を上げ、きっちり考えこんでいる。疲れてナーバスなテシュノだけが、目を真っ赤にしている。なかなかウェットな奴だ。
 オレたちはもっとドライ。怒りと決意でぎんぎんに切り立って、やるべきことをそれぞれが考え巡らしている。
 やってやれ。アデプタスだかどこかの国だかの企みなんか潰してやれ。どんな利益だか国益だか知らないが、そのためにどこかの家族をばらばらにするなんて、絶対にオレは許さない。
 ハイテンションなオレはぎっちり思う。これまでのくだらねぇ人生に理屈を立てて通す絶対的な決意で。

 血染めのラッパ吹き鳴らせ。



 リンタロの馬鹿笑いがあはははは。ぼうと吹きつける暑い風に乗って飛んでくる。

 オレはあひるの池のほとりに再び座って、砂っぽい小グラウンドで展開されるのん気な騒ぎを遠くに眺めていた。またしても、オレは、やっぱり用無しか?

 朝の会議のあと、忙しいのはエミョンだけだった。暗視カメラや傍聴携帯を作るためにオハラたちと討議を重ね、果てはカピバラ・トラックに乗って電機街にご出張。お疲れさまです。

 残りのオレたちはみごとにヒマ。また会議があったら呼び出されるんだろうが、今のところ昼飯までののん気な猶予を与えられ、宿舎の外でぷらぷらと遊んでいる。
 ピーフケたちは転がっていたビニールボールで砂サッカーを始めたが、オレは村山槐多とかいう人の詩集を持って木陰に入った。暑すぎる。暇すぎる。のどかにベンチで字をつらつら読む、ってのも、悪くないなと思いながら。

 金の小僧、走る走る走る。

 と、音読してみてオレはちょっと笑った。この人の書く言葉って面白い。血染めのラッパ吹き鳴らせ、もそうだけれど、色がはっきりしてる。激しい。狂って狂って生き抜いた、前々世紀の少年画家。二十二歳で死んだ。

 槐多が友だちに宛てた手紙の文章を読んでみる。

「未来へ行け未来へ行け、
 未来には恥がある、悲哀がある、失敗もある、苦痛もある。しかし生命がある。
 未来の生命へ行け。生命の薔薇畑へ突入せよ。花と棘との中を。」

 オレは何歳まで生きるんだろう。
 先のことなんか考えたことはない。
 今日も飯を拾って、明日も飯にありついて、とりあえずその日をやむなく生きる人生。格別生きたくもないオレの人生。生まれてきたのだってただのアクシデントだろう。間違った発生物。無価値な人間。

 なんだか違うのかもな、と、はじめて思う。

 まず、フキがやってきた。謎が知りたくなって、動いてみた。どういうわけだか、いろんな人間がこれまでとは違うレベルでオレに関わり始めた。

 今のオレには、友だちとか仲間とかやけに親身なオトナたちがいる。生々しく生きて存在している。みんな変に人間くさい。

 野良猫から急に人間になって、慣れない環境をくんくん嗅いでるみたいな気分だった。
 人生って酒と薬と惰眠で食い潰すだけのものじゃなくて、少しは自分でどうにかできるものなのかもしれないな。

 遠くで騒いでいる友だちを見る。

 工場の若い衆、らしきヤツがバイクを押してきて、皆で乗れ乗れと盛り上がっている。敷地内だからあいつらみたいな無免許でも乗り回せるんだな。ピーフケがぼぼぼぼぼと進んであっけなくゆっくり倒れる。大笑いが湧く。ケンズが結構さまになる姿でグラウンドを巡る。リンタロも悪戦苦闘しながらかっこいいマシンを先に進めている。いいな。オレも乗ってみたいかも。

 本を閉じて立ち上がる。

 そういう、ダチとの普通の遊びって、オレ、やったことない。
 冷酷だった、からだろうか。
 少し悲しくなる。熱い砂に歩を進める。

 見ると、フキがなかなかすごい。交代して乗ったバイクをがっちりでかい体にとらえ、どうううどううと粋な音を響かせている。ちょっと上半身を沈めてマシンの下部を覗き込んだと思ったら、ぎゃ、と車輪をひねって凄い勢いで走り出した。砂煙があがる。

 ゆっくり近付いていくオレの耳に、友だち連中の大歓声。フキはすごいテクでグラウンドをばしりと走り抜け、ウィリーになって方向をがんがん変えては超速で走行。プロだ。何のプロだか知らないが。
 バイクを貸してくれた工員も、手をばしばし叩いて囃している。またしても発現したフキのとんでもない底力。
 裸足の足裏で乾いた砂を味わいながら、オレは友だちのいるところにゆっくり進んでいく。

 オレもその遊びに混ぜてくれよ。



 あんたたちは、まあ、とかすれた声を出していっちゃんは脱力した。

 オレたちはほぼ全員、半身をずりずりに擦ってかすり傷だらけ。昼間ずっと、工員のタンさんの貸してくれたバイクに乗って遊んでいたのだ。やたら運転のうまいフキ以外は全員砂地に転倒した。オレも。みっともないところ平気でみんなにさらした。笑われて、オレも笑った。気分いいけど、バイクはざりざり。ごめんタンさん。

「二、三時間放っておいただけで、なんでそんなに怪我するんだ」ぶつぶつ言いながら滅菌チンキを塗ってくれるいっちゃん。打撲のひどいリンタロには医療パッチを貼って包帯でぐるぐる巻きにする。

 会議室の片隅では、エミョンが五段階に突き出る奇妙なゴーグルをかけたまま、携帯電話を分解して細かい細工をしている。ちりちり匂う熱された金属。
「こっちの細工は、あと一時間足らずでできそうです」細い先端のハンダ・ヒーターを持ったエミョンが声をかける。立ちのぼる白煙とデスクに広げられた精密機械。「もしも今晩、作戦を実行するつもりなら、トビオさんからディーラーの連絡先を聞いて、ピーフケさんが早くアクセス取ったほうがいいんじゃないでしょうか」

 そうだね、とエミョンに諌められた格好のいっちゃんが呟く。「トビオ、携帯を出しなさい。どの番号なの」

 やりとりを横で見ているピーフケがぐんぐん緊張を高めている。マジで厳しい役割を買って出たピーフケ。

 オレの携帯を渡されて、ピーフケは危険な電話番号をプッシュした。かなり指先が汗で湿り、震えている。

「すんません、オレ……連れの、ダチから聞いて、電話したんすけど……。あ、そうっす。ライム、買えるって聞いて。あ、マジで買えますか?……そうっす、なんか、今この辺、買えなくって。すげぇ欲しいんすけど」

 うまいぜ、ピーフケ。がっちがちに震えてるけど、今お前ものすごい男前だ。

「あ、マジですか。あ、はい行けます。わかるっす。……今日とか、ダメっすか? すぐ欲しいんすけど。……あ、わかりました。金……あ、あります。それ、一パケっすね? わかりました。……わかったっす、どうも、ありがとうっていうか」

 電話を切る。深く息を吐いて床に膝をつく。

 いっちゃんが駆け寄ってピーフケの肩をぐっと支えた。よくやったピーフケ。ありがとうとおめでとうの瞬間だ。



 エミョンが偉いリーダーみたいにぱきぱきと、オレたちのみならずオトナの連中にまで指示を放出する夕暮れの会議室。

 ちょっと昼寝してたオレはぼやける目をぱしぱし瞬いて、その雄姿を見守る。すごいなエミョン、お前オレと同じ十四歳にすぎないんだろ、それでも責任みたいなものをがっちり細い肩で受け止めて、やるべきことをきっちりやっている。格好いいにも程があるアジアン・ハーフのチビ。

「ピーフケさんとトビオさんと、それからモニターのチェックに僕が車に乗る必要がありますが、責任者のかたは誰が来てくれるんでしょうか?」オトナ連中をぐるりと見渡す小さなエミョン。「全員に同乗して頂くわけにはいかないですよね。しかし運転と、何かトラブルが起きた場合の判断と助力が必要です」

 もちろんボクが行こう、と乗り出すテシュノを遮って、チフユちゃんがきりっと涼風な声。

「あなたは、ここですべての状況判断をする役目があるでしょう。私か壱子さん、またはマツダさんね」

「いっちゃんに決まってるだろう」
 オレは言うが、本当はあの運転は心底うんざり。それでも、いっちゃんがいた方がピーフケも気合いが入るんじゃないか。

「いや、あたしはここの医療チームとの話し合いがまだ残っている」本人が残念そうに可能性を断ち切る。「マツダさんは配送責任者のくせにとんでもない方向音痴だし、デリバリーの放火の件でまだ大変だ。……で、チフユはこう見えて、A級ライセンス持ちのすごいドライバーだし、母方の家系から受け継いだ古武術の会得者。腕が立つ。もちろん頭も切れるし。こういう危ない場面では、あたしなんかよりずっと頼れる女なんだよね」
 情けなさを前面に押し出した珍しいいっちゃんが、チフユちゃんを眩しげに、ちょっとつらそうに見た。

 ま、と小さい口を開けて見返したチフユちゃんが、聞き取れないほどの声でこっそり。「あら……ついに壱子さんから、ほめ言葉を頂戴したわ」
 すっと椅子から立っていっちゃんの前に進み出る。いっちゃんも立って、並ぶと二十センチは身長の低いチフユちゃんに一礼する。

「頼む。あたしと、チフユは、いろんな確執があったけど……全部エピスコ時代の意地のはり合いってことで、水に流して欲しいんだ。今は、この子たちのためによろしく頼みたい」

 ふふ、と勝者っぽい笑みのチフユちゃん。何があったんだ。いっちゃんとの間で女の戦いとかなのか。

「壱子さん、私の教育課チームとあなたの福祉課チーム、そして医療課のスドウさんの、あの時の争いを忘れたわけじゃないわ。でも、あれってセオリカス全体がトータルに変わるきっかけとなった事件だったもの。……戦ってよかった。あなたは、変わらずに私のライバルだけれど、今は協力しましょう。このヤマを片付けてから、また火花を散らしましょうね。その気概は、あるでしょう? 楽しみだわ」

 ぼっさり口を開けているオレたちに向き直って、チフユちゃんはキュートな声音をきりきりに削いで号令をかける。

「行くわよ、あなたたち。気合を入れてね」



 チフユちゃんの運転はうまいし、確かに方向感覚も確かなんだろう。それにしてもこのスピードは、大丈夫なのか。

 またしてもカピバラ・トラックの俘囚となったオレはびりびり振動する床に爪を立ててしがみつきながら思う。きんこんきんこん、スピードオーバーの警報が脳裏で鳴る。こんな速度で移動したのはたぶん生まれてはじめてだ。にゃあにゃあ騒いで抗議したい。

 モニター類をしっかり膝に抱いたエミョンと、びっきびきに口もとを固くしているピーフケを乗せて、陽気な模様のトラックは夜の高速を突っ走る。荷台の中は闇。闇な運転席からチフユちゃんがふにゃんと甘い声を放つ。

「もうすぐ、都内に入るわよ。キミたち、気持ちの準備は大丈夫かしら」

 だいじょうぶでーす、ヤケクソ気味の大声でオレたちは合唱。

「それは素敵ね。……あ、ああ、私がもしかしたら問題あるかもしれないわ」

 何を、何で、と言葉にならない焦りを聞き取って、くふんと笑うキュートな校長。

「あのね、私、実は昔、事故で目の角膜を傷つけているの。右目、ちょっと見えないブラインド・スポットがあるのよね。……疲れていると、少々それが大きくなってしまって」
 童話を語るのに似合いそうな声を曇らせて、怖ろしい現実的問題を告げる。
「ああ、今どうしても右側がかなり曇るわ。もし、突然の対向車なんかあったら、反応が遅くなるかもしれないわね」

 ええと、それはどういうことなんで、とオレはおそるおそる訊く。

「ええ、もしも私がね、危ないっ、って叫んだら」

 はいはい、叫んだら?

「あのね、両手を胸の前でそっと合わせて」

 くううう、と体を傾けてハンドルを切る気配のチフユちゃん。オレたちは的確な指示を待ってぐんと黙る。

「……うーん、念仏を、唱えちゃってね」

 だああああ! とオレたちはキレた絶唱。

 怖ろしい高速トラックに積み込まれたまま、オレたちは黄泉路のうねうねみたいな道路を突っ走っていく。



 阿弥陀仏の名を唱える緊急事態にも遭うことなく、青息吐息のオレたちはなんとか目的地にたどり着いた。

 もう一度取引の手はずを説明し、ピーフケのヘッドバンドの位置を直してやる。汗からけっこう不安の匂うピーフケ。ディーラーがオレみたいに嗅覚の発達した人間だったら、かなり怪しまれるかもしれない。

「オーケー、受信状態は正常です。ピーフケさん、この声、右から聴こえますか」
 インナー・イヤホンに手をやって、ピーフケがうんうんとうなずく。

 ハートの北ゲート近くにとめたトラックの荷台で、オレたちは機器と作戦の最終チェック。チフユちゃんも運転席からこっちに乗りこんでいるので、動くたびに花みたいな香りが薄闇にしゃらりと踊る。ドキドキするじゃないか。

「もしも、イヤホンからの指示が聴こえなくなったり、予定外のことが起きたらすぐに、とにかく全力でこっちに戻るのよ。とんでもない方向に逃げたりしないで。いいわね?」
 緊張でぱっつり膨らんだみたいなピーフケが、わかったっす、とうなずく。

「なあ、やっぱり何か武器とか持ってたほうがいいんじゃないかなあ? オレだったら絶対持参するけど。本気でヤバイことだって結構あるんだし」

 だめよ、そんなものを持っていたら逆に疑われるでしょう、とチフユちゃん。それはそうだけど、何だか考えが甘い気がする。
 あんた腕が立って頭もよくて顔も可愛い恵まれたオトナかもしれないけどさ、理屈の通らねぇふざけた局面なんて骨にしみたことがないんじゃないの。
 オレはその皮肉を胸におさめた。

 言っときゃよかった、と、後になってさんざん後悔するんだけど。



 夜闇にまぎれてトラックの後部ドアが細く開き、にゅるりとピーフケが降りて立つ。ざわざわする都市のノイズをマイクロフォンがさっそく拾い、オレたちの見つめるモニターにつないだ解析スピーカーから放ち始める。

 画像は、ピーフケのヘッドバンドに仕込んだカメラの視線。ゆらゆら辛気くさく揺れる木立を抜けて、パイプにつながる遊歩道。

「録音を開始します」
 どうにもクールなエミョンが呟いて、キーボードに指を走らせた。むーん、と録音NDが起動。

 ざすざす歩く音と、時々吐かれる重い息がオレの耳をくすぐる。勝負を乗せたピーフケがパイプのD4ゲートに入っていく。

 パイプの中はもちろん真っ暗。カメラはうずうず安定しない頭の動きをサーチして、画像をかくかくと切り替えながら送ってくる。左の方にやたら白いのは、ピーフケが足もとを照らすシルバー・ダイオードのミニ懐中電灯。
 ごと、ごす、と足音ばかりが低く響いて、オレたちも思わず息を詰める。

 ナビで居所をサーチしながら途切れなくガイドを送るエミョンの声が不気味に頼もしい。
「……そうです、その通路の最初の分岐点を左に……大丈夫ですよ、ピーフケさん、僕たちがついてますから。安心して進んでください。もう少し行くと、イーストの大パイプに入りますね。……そっちです、はい、あ、ああ大丈夫ですか」

 ひゃっと息を吸うピーフケの音声を聴き取って、オレはエミョンに向かって早口に言う。そりゃ鳩だ、ハトのねぐらがそこにあるんだよ、気にしないで進め。

「……鳩だそうです、トビオさんによると。鳩の寝床にかまわず進んで、そう、そっちです。Eの47っていうプレート、見えましたね。……モニターではキャッチしてます、鳩に負けないで見てください、それです、右の上方、天井に近いあたり。そう、そっちです」

 オレはつばを呑んでモニターを凝視する。がんばれピーフケ。ハトに負けるな。

「その道、ハイ、正しいですよ……行ってください。分岐点がひとつ、ふたつ、みっつ……よっつめのそこです、曲がれば、待ち合わせの場所のはずです」
 こおおお、とピーフケが息を吐くのが聴こえる。感度良好なマイクロフォン。
 エミョンは大丈夫、大丈夫、と意味ない声をかけながら、オレとチフユちゃんは固唾を呑んで押し黙って、状況を見つめるカピバラ・トラックの内部。

 ひょうう、と達者な口笛がメロディを奏でて、受信スピーカーを小さく揺らした。
 ピーフケががちんと固まって、通路の奥を覗きこむ気配。

「あの、なんか、俺、落とし物したみたいなんすけど」
 ぴちゃりと湿る舌を無理に動かして、合い言葉を発声するピーフケ。

「落とし物ってのは、これかい」
 符丁をあわせて発言するディーラーの、台詞に似合わない野暮ったい声。おいおい、もうちょっと格好いい声音を決めるべき場面じゃないのか。

 白いライトがふらふらと画像を舞う。
 灰色粒子の嵐みたいな視界の奥、やせた背の高い男の影がちらつく。

「明かりは消してくれ」

 言われて懐中電灯をぷっつり消す。ざらざらの暗闇。
 ピーフケの装着したラスタなヘッドバンドが暗視モードに切り替わる。
 オレたちの眺めるモニターがオレンジ色に光り、かなり明晰に闇の中を映し出した。

 ゆらゆら近づいてくる男の姿。
 クリアに人相を映し出す。風船に目鼻を描いてぎゅっと口もとを縛ったような、顎はないけど油断ならない顔。細身で鋭い。

 こんなヤツだったのか、とオレは違和感。何度か取引したディーラーと、声の調子が違っている。オレが闇で嗅いだ情報から推測していたのは、ゆるんだ印象の太り気味の男だ。びびりを沈黙で隠し、もっと動作が遅い。
 ディーラーが代替わりしたってことなんだろうか。

「電話してきたのは、あんたか」

 ピーフケが声を詰まらせて、そうっす、と低く呟く。

 いやな沈黙。

 オレはひそめた声でエミョンに、どうやらディーラーが違うと伝える。息を呑んでチフユちゃんと目を交わすエミョン。なにか言おうとしたその時、

「金は」

 ぼっそりした問いが響いた。ごそごそと尻ポケットを探り、プラクティカで用意した紙幣を引っ張り出すピーフケ。
 受けとった男は、むっつりとそれを手の中で数えた。わざわざセッティングした汚い小額紙幣が二十枚。ごく小さな光源。ブラックライトで浮き上がる刻印を確かめている。顔は影になる。

「確かに、あるな」

 夏だというのに無理やり着込んだ感のある、ごわついたスーツの内ポケットに紙幣をおさめ、代わりにぴらぴら揺れるビニールのパケットを取り出す。鳴らす。つぶつぶの錠剤が四つ、頼りなく躍っている。
「あんた、これ欲しいのかい」
 意地の悪いじらし方でパケを揺らす。

「欲しいっす、で、金も持ってきたし、なんか……」
 声を掻きだすピーフケを遮り、男ははん、と薄く笑う。

「これからももっと欲しいんだったら、いい方法があるよ」

 話がおかしい、ここでピーフケを戻したほうがいいんじゃないのか。
 オレはいやな汗に背中を湿らせる。

「あんた、わかってて買いに来たんだろ。これはカノンだよ。純度99・9%。スリーナインってやつだ」

 よくない、ピーフケはたぶんこういうアドリブには弱い。困ってじりじりしてる様子が目に浮かぶ。

「あんた、どうせ薄めてばらまくつもりで来たんだろ。……いい金儲けの方法だ。なかなか目端がきくね」

 いや、オレはなんかダチから聞いただけで、自分でライムやってみたかったんで……。言い募るピーフケの腕に手を伸ばし、ぼんぼん馴れ馴れしく叩くディーラー。

「無理すんな、自分で売ったほうが日銭稼げてあんたも生きやすいよ、こっちもあんたのことバレないように守ってやるしな。……協定といこう、どんな買い手を持ってるんだ? それを教えてくれたらちょっとおまけして、これからもっと安く流してやるよ」

 やばい、ディーラーはルート拡大を狙って営業トークを持ちかけてきてる。オレのしでかした悪行を再利用。馬鹿なガキは水増しでユーザーの底辺を広げてくれる、とアデプタスも学習したのか。本気でオレは自分を呪った。
 オレやリンタロだったらへらへら言い抜けられる場面かもしれないが、クソ真面目なピーフケにこの展開は危ないかもしれない。
 予想外の展開にエミョンが混乱してオレを見る。チフユちゃんもたじろぎ、どうしましょ、と息で呟いた瞬間、

 ディーラーが言ってはならないことを言った。

「なあ、あんたのオトモダチの連絡先をどっさり教えてくれたら、この取引はお安くしてもいいって言ってんだよ。……あんただって、人生楽しくしたいからクスリやりたいんだろう? オトモダチにもそういうの、直接教えてやったほうがいいだろうが。安くライムやって、つまんねえ人生楽しくさせてやったほうがいいだろう?」

 ふ、ふ、ふ、と笑い出したのかと思ったピーフケがキレた。真面目にキレた。

「ふ、ふっざけんな馬鹿、俺のダチはつまらなくなんかねえよ、てめえこそこんな薬売ってくだらねえだろっ」

 やばすぎっ、叫んでオレは横っ飛び、エミョンの位置をもぎ取った。

「おい、ピーフケ、そんなディーラーの言うことに乗せられんな、しっかりしろ、怪しまれるだろ、しっかり薬ゲットして戻って来いっ」

 どうにも遅かった。

「なんだ、このガキ、親切に言ってやってんのにブチ切れやがって……」
 背後からのそり、のそりとダブルの人影。手もとにもったり太い影、特殊警棒だ。一人はずらんと長い鉄パイプ。言わんこっちゃない、ディーラーはこすっからくも味方と武器を背後に控えていた。
「おい、兄ちゃん、もう一度聞くよ。このおいしいクスリ、きっちり街でさばく気があるかどうかって言ってるんだ。自分がどんな立場にあるか、わかってるんだろうな」
「うるせぇ馬鹿、そんなもの誰が売るかよっ」キレちゃったピーフケは脊椎反応みたいに簡単。売り言葉に買い言葉。

 ああああ、と両手を振り回してオレはモニターに突っこみかける。やばいって。

「こういう、もののわからないボケガキには、ちょっと厳しく指導をしてやったほうがよさそうだな」
 いやな響きが一発。

 だっ、とオレは叫んで荷台をまろび走り、扉を足で開けながらエミョンにぎちぎちの指令。
「おい、マジヤバイからオレはピーフケ助け行く、お前ら適当コイてんじゃねぇぞ、本部にきっちり言ってすぐ対策取れっ」
 台詞も半分に転げ出る、走り立つ。
 砂と草とコンクリの道の感触を一瞬ずつ足裏に感じながら、あり得ないスピードで突っ走る転倒寸前のオレ。
 ピーフケ、気張れ、ぜったいヤバいって、ムチャクチャに逆らうな、死ぬな、殺されるなラチられるな持ってかれるな、オレが行くまで切り抜けてろ。



 迷路めいた暗い通路を記憶のままに走る。気のせいか通路そのものが血なまぐさい。
 うわ、とオレは気づいて飛び上がる。オレ何も得物もってない、公園から木の枝でも折り取って持ってくるべきだった。そんなもんでもあるとないとじゃ全然違うんだ。
 さすまた、と閃くがここは自宅じゃない、くそ、手の中にあの平和的に凶暴な道具があったら……。
 待てよ、と思う瞬間にオレは方向を変えて駆け出す。とっさの記憶と判断力が遅れてオレの意識にのぼって来る。どっかで見た、見た見た、この通路の、廃線路のどこか……。
 ホームだ、思う端から脚はそっちに駆けている。もとの三丁目駅の、崩れかけたプラットフォームの隅。腐食してがこんと開いた収納庫の奥、落とし物拾いハンドやら消火器やら担架が収納されていたあのボックス。深夜にうろうろ探検したこの通路、発見してしばらく遊んだあの緊急グッズ、確かそこで見たんだ。あるんだ。ありますように。
 すごいピッチで走って心臓が頭にめりこみそうだけれど、オレはショートカットで通路を駆けてたどり着く。死ぬなよピーフケ、ディーラーのオジサマたちを怒らせると本気でまずい。
 ぼん、と目の前に開けた空気のでかい暗闇の、左手のホームにオレはツーステップで飛び乗った。柱に立て掛けたような縦長の箱に突進する。何が何だろうと構わずに腕を突っこむ。がしゃ、といろいろ倒れる音がして、太い捧がぐっと手に収まった。これだ。
 かなり闇に慣れた、マンホール生活のたまもののような眼が反応して、その頼もしい得物を確認。
 するなり、また走り出している。すげぇなオレ、最近いっぱい栄養とっておいて良かった。がっちがちに元気。
 記憶の地図画像が脳裏にばんばん広がっている。ダンジョンぶっ飛ばす爆走モードのオレ。
 手の中には、保安課も御用達の本格さすまた。うちにあるような華奢なしろものじゃない、地獄の門番が持ってるような、太くてごついプロフェッショナルな物体だ。



 吹っ飛ばして走り抜けた道順はまったく覚えていない。とにかく問題の匂う場所。ヤバイことになってる場所。
 黒い人影の群れがさんざんにいきり立っているのが見えた。キックの嵐。キックの鬼。倒れて濃くまとまるおそらくはピーフケの影。
 ごらああぁ何やってんだ、警察及び保安課来たぞ、無茶苦茶言いながらオレはさすまた構えて突進する。
 だっ、と蹴りまくる姿が凝固して、ばらばら一目散に逃げ去る気配。うまい。全員が別のルートを選んで走り去っていく。
 感心してる場合じゃない、オレは一応さすまたを構えたまま、倒れてべたりと広がる血染みのような姿に近づいた。汗と敗北の匂い。洗濯のおぼつかない古い洋服の体臭。ピーフケだ。
 オレはさすまたを床に投げて駆け寄った。
「おい、ピーフケ、オレだトビだわかるか、生きてるか、おいっ」
 言語化されないへんな呻きがぐうげうと立ちのぼる。えらい目に遭ったな、ピーフケ。
 気がつくとオレはげろに膝を突っ込んでいる。胃をどつかれて吐いたんだったらまだいいけど、頭をやられてるんなら深刻にまずい。オレは抱えていた上半身をなるべくそっと地面に戻した。
「い……でぇ、トビ、……まじ、終わり……か、俺……死ぬのか……」
 死なねぇよっ、叫んで、
 携帯をつかむ。
 チフユちゃんに電話。出ない。出やしない。なにやってんだ。オレはじれてフラップをもぎ取りそうになる。焦っちゃいけない。
 放り出されたさすまた。細い息してるピーフケ、血とへんなものの匂いがぬるぬる闇を染める夜の底、オレはぐっ、と自分の腿を殴って気合いを入れる。
 思いつく。わかる、瞬時に目玉がきつく光って携帯を睨み、いっちゃんの番号をセレクトした。
 つ・つ・つ・ぷるる、繋がった瞬間にすぐに出た。「トビオ、どう……」
 ゆるゆる話す暇など無用、オレは端的に言葉をぶっ飛ばす。「ピーフケがやべぇ、売人に鉄パイや何かでごすごすやられて大怪我だ、ハートのパイプのD47通路のR5ポイント、動かせねぇ状態。わかるよな……本気あぶねぇ。とっとと、助けてくれ」
 いっちゃんは復唱すらしない。速い。「わかった」言うなり電話を切る。
 頼むよ。はやく。
 オレはディーラー軍団の逃げたパイプの闇で、足指の先にさすまたをぎっちり握り、血まみれの友だちの体を両腕で囲って、少しでも光がさすのを待つ所存。

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