X.
・・・・・

 いったんボロ家に帰ったオレたちは、てんでに頭を洗ったり、トイレにこもったり、シャワーを浴びたり服を選んだりした。バイトがあるというケンズは帰宅。サヨナラと手を振ってオレは韓国海苔を勝手にプレゼントする。

 ぴかぴかに決めたリンタロが気取って腕時計を見て、「急ごうぜ。壱子センセイ二時だって言ってただろ」

「あのなあ」オレは濡れた頭をペーパータオルでごしごし拭きながら言う。「なにも、リンタロたちが一緒に来ることないだろ。オレがフキを連れて行けばそれでいいんだから」

「いや、なんか気になるし。オハラって人がデリバリーのトップなら、俺らも関係ないことないし」もごもごとピーフケが呟く。

「危ねえ話かもしれないんだぞ。フキが何なんだか全然わかんないけど、ろくでもない事件にお前らまで巻きこまれたらどうするんだ」

「だからこそ、だろ」
 いけてる群青のシャツをぴしっと着こんだリンタロがオレの肩を叩いた。

「トビオはダチの使いかた知らねえから困るんだ。トビだって、フキだって、結局もう仲間じゃん。知らないふりなんか、できるかよ」

 オレはフキみたいに呻いてしまう。うう。



 事務所で出迎えたいっちゃんは呆れた。

「ピーフケ、リンタロ、あんたたちまで……」

「壱子センセイ、トビオだけひいきしないでくれ」リンタロは言って、さっさとフロアにある浅黄色のソファに座る。自慢のシャツが確かに映える。リンタロはファッションを見せびらかす場所を見逃さない。

「あの、なんか、やばい話だったらそれこそ、俺ら放っとけないんす。フキはもう同じ家にいるやつだし、トビオ、俺らの中で一番小せえのに何でも一人で抱えちまって、そういうのよくないんだと思うんす」

 真っ赤になって言うピーフケをいっちゃんは少し口を開けて見つめて、それからうなずく。「そうだよな……」

 おいおいおい、オレが小せえとか誰か言いましたか?

 むっとするオレに構わずにいっちゃんはピーフケの頭をぐいぐい撫でて、浅黄のソファに座らせる。それから壁の時計を見て、あ、いけないメガネメガネ、と叫んでデスクの引き出しを開けた。紺色のつるのついた縁なしメガネを出してかける。

 なんでメガネ、と言おうとしたらチャイムが鳴った。いっちゃんはよそ行きの声ではあいと言って入り口を開ける。

 ふわ、という空気とともに、話に聞いたまんまのフォルムの男がさくさく入ってきた。小洒落た淡いピンクのスーツ。長めに整えられた髪。天然で笑っている細い視線。

「やあ、久しぶりだね、加州見君。今日もメガネがよく似合って素敵だよ」

 きざな台詞をゆるゆる吐いてから、オレたちをさっと眺め渡した。視線がフキのところで凝固する。

 だから、メガネって?

 思ったオレは水星人間らしくピンと鋭くひらめいた。小原テシュノの短編、最悪のストーリーでも最後には希望をのせて終わる、洒脱な小説には必ずメガネの似合うヒロインが登場する。

 この男、メガネフェチだ。

 上気した頬でお世辞を受けているいっちゃんを見る。こらこら姉ちゃん、ずいぶんわかりやすいのぼせっぷりだな。

「ミラン……」
 テシュノは呟いて、デスクの横に突っ立っているフキに歩み寄った。

「ミラン、外に出て大丈夫なのか。ボクがわかるか」

 フキは目を合わせない。

「それが彼の名前ですか」
 いっちゃんがまともな大人の女性みたいに訊き、その元上司は息を吐き出すようにしてうなずいた。やや不安そうにオレたちを見渡す。

「彼らのことなら心配いりません。私の世話している子たちで、フキ……と呼ばれていた彼は、この子たちと一緒に住んで、仲間のように行動していますから」

 いっちゃんのはきはきした説明に、テシュノは細い目の奥を驚きに光らせた。

「俺、と、ピーフケはデリバリーのバイトで働いてます。つまり、オハラさんの部下ってわけでしょ」リンタロが格好よく立ち上がって言った。その視線はテシュノのスーツや靴をつるつる辿っている。欲しそう。「で、そこのトビオはフキのこと面倒みてます。俺ら、もう全然友だちなんです」

「そうっす。ダチなんす」ピーフケまで援護発言。

 オレも何か言わなきゃいけない気分になったが、何も思いつかないのでとりあえずフキのでかい肩を伸び上がってつかみ、ごいごいと揺すぶってみた。「フキも何とか言え」

 さっきミランと呼ばれた大男は、う、と唸って首をかたむけ、ぱきりと口を開いてはっきり発声した。

「ブルーベリー・クランチ」

 なんでだっ! と突っこみボイスがきれいに重なる。オレとピーフケとリンタロとケンズ。思わずいっちゃんまで。フキよ、ここはボケるところじゃない。

 一瞬あっけにとられたテシュノは小さくのけぞったが、次第にふるふると頬をゆるませ、やがて天を仰いで笑い出した。

「これはすごい。ミランはもしかして冗談を言ったのかな? 会話をしたね。信じられないことだ」笑いの発作をどうにか押さえつけようと、苦しげな努力をしながらテシュノは言った。

「確かに、君たちは友だちのようだ。それは認めよう。……ただ、彼の正体や事件の経緯を知ることとは別問題だ。関わったばかりに危ない目に遭うことも考えられる。危険を避けたければこれ以上首を突っこまないことだ」オトナの声。つめたい響き。

 ふざけないでほしい。リスクのない状況、優雅にのんびり安心してられる生活なんて、生まれつき一度も与えられたことはないんだ。

 オレ達は鼻先にありったけの生意気を集めて、お洒落なスーツ野郎をにらみつけてやった。

「わかった」手を軽く上げる。「覚悟はあるようだ。加州見君はそれでいいのか」

 いっちゃんは仕事用の椅子に座ったまま、腕組みしてオレたちを眺めた。冷静極まりない。

「仕方ないですね」ぽつりと言う。

 小原テシュノはうなずいた。

「では、前置きなしで始めよう。……彼の名は、ミラン・ディク。エピスコパシーの医療課がEUから招聘した、非常に優秀な脳神経科学者だ」


 テシュノのことばは投下地点で炸裂し、その破片がオレの判断能力を貫通していった。いっちゃんは思考能力をやられたらしい。さっきのポーズで固まっているが、だてメガネが斜めになってずり落ちている。

 じわじわ火の手が上がるのを待つかのように、テシュノは口を閉じてゆっくり周囲を見回している。

 エピスコの科学者って言ったのか?

「……州見、加州見くん? 壱子くん?」
 何度も呼ばれて、ようやく気づいたいっちゃんが飛び上がった。

「あっ、はい、ええと、なんでしょう?」
「ミランにも話に参加してもらおう。パソコンと、キーボードはあるかな? フィンガー・ジョイント型のではなくて、旧式の平たいキーボード」
「ああ、ええ、ラップトップならここに」

 開いたパソコンを稼動テーブルに載せて、テシュノはからからとそれを押してくる。パイプチェアを置いて座席をつくり、フキを座らせ、机のキャスターをロックした。
 フキの腕を取って手をキーボードの上に置こうとするが、ずるずる滑って体の横にだらんとぶら下がってしまう。

「腕を、この位置でずっと支えてやってくれないか」

 ピーフケとリンタロが飛んできて、それぞれ左右から腕を取った。

「彼はパソコンが使えるの?」

 驚いて訊くいっちゃんに、テシュノは当然、といった表情を向ける。

「でも、なんにもしてないんだけど」
 かたかたと起動して明るくなる画面と、その手前にでろんと置かれたフキの手を見比べながら、ピーフケが言った。

「ミランも起動中だ。おそらくね。……もっとも、彼がいつどんなきっかけで起動して、いつ、何の理由でスイッチを切ってしまうのか、それはまったくわからないことだが」

「彼は最初から……つまり、EUからやってきた時からという意味だけれど、ずっとこういう状態なのかしら?」

 普段と全然ちがう口調で問いかけるいっちゃんを、リンタロが気味悪そうに見る。同感。

「少なくとも、ボクが最初に出会ったときはこのような、反応のない状態だった。彼の奥さんがプラクティカのつてを辿ってきてね。相談を持ちかけられたんだ。半年ほど前のことだが」

 マナビちゃん、か。

「ミランが来日したのは八年ほど前。その少し後には本国から両親も呼び寄せている。
 医療課のラボで、脳の神経系についての専門的な研究を行なっていたらしい。らしい、というのはエピスコ側からの情報公開がまったくないからだ。
 四年前のある不幸な日、ラボで実験中に事故が起こった。気化した劇物を吸入してしまったミランは、意識不明の重態に陥り、回復しても脳にダメージが残ったままとなった。脳の研究者が、皮肉なことだ。この事故の詳しい事情についても、エピスコは研究上の機密ということで公開を拒んでいる。
 補償もお粗末なもので、ミランは自分が勤務していた医療課のケアをろくに受けていない。使えなくなった部品を捨てるように放り出されたんだ。
 EU側と悶着になりかけたが、ここがエピスコの怖ろしいところで、ミランの一家は書類上この国に帰化した扱いになっているんだ。就労不可のために解雇され無職となったただの民間人、というわけだ」

 テシュノはフキの背後に立ってその手元を覗いたが、やがてため息をついてきびすを返した。広くもないフロアを静かに歩き回りながら話を続ける。

「我々、プラクティカが運営している、失業者や外国人労働者のための医療施設で、ミランは看護士をしていた斑鳩マナビに出会った。ドクターとしてではなく、患者として、だ。どうやら二人は恋に落ちたらしい」振り返ってフキの大きな背中を見つめる。

「彼女……マナビさんが、ボクにこう言ったことをよく覚えているよ。“何の言葉も感情も表さない人に、自分がこんなに惹きつけられるなんて信じられない。でも、オハラさんも彼に会えばわかるわ。ミランは、すごく愛らしいの”」声を立てて笑う。いやみな感じじゃなかった。「確かに、そうなんだな。ほんの数日でこんなに友人を作ってしまうとは、ミランには言うに言われぬ愛嬌や美点があるんだろうね」オレに向かってまっすぐ言う。

 まあね。と、とぼけてオレはソファに深ぁく尻を埋める。

「ミランとマナビさんは結婚しようとした。彼のご両親も、次第に住みにくくなるこの国で彼のケアに困り果てていたから、願ってもない話だと思ったらしい。ところが、どういうわけか、二人の婚姻はいちいちエピスコに難癖をつけられた」

 かつん、と劇的に立ち止まる。いっちゃんがはっとしたように、胸元を両手で押さえてその姿に見入る。おいおい、乙女のつもりかい。

「書類が足りないとか、その資格がないとか、……単なる難癖だ。その理由はよくわからない。しかし執拗なものだった。マナビさんはあきらめて、入籍をせずに事実婚をした。翌年、長男が生まれた」

 テルミ。

「子どもには、生後二年目あたりから自閉症の兆候が見え始めた。後天的なミランの障害が、息子に遺伝したように思えてマナビさんにはショックだったそうだ。しかし、愛らしいところも父親似で、彼女は我が子に夢中になったらしい。……息子のテルミ君は、言葉は出ないもののごく早期から文字に極端な反応を見せ、二歳までにすべてのアルファベットと数字、平仮名、カタカナをマスターし、その発音もできるようになった。科学者だったミランの才能を受け継いだのだ、とマナビさんは考えた」

「ハイパーレクシア、ですね」
 いっちゃんが呟く。オレもうなずく。

「そうだ」テシュノはオレといっちゃんを交互に見た。「自閉症の児童に発現しやすい症状だ。この話のポイントは」
 わかりやすい講義をする先生のように、そこで言葉を切って息を吸い、ゆっくりと印象深く続ける。

「ミランと、その息子のテルミ君は、アルファベットと数字の組み合わせによって、他の人間には理解できない言語体系を創り上げ、それによって複雑な会話をするようになっていった、ということなんだよ」


「あー、手が疲れた。すいません、離していいですか」
 緊張感をばっさり打ち破ってリンタロが言う。ずっとフキの大きな手をキーボードの上で支えていたのだ。

「ああ、そうか。……すまないね、本当はもうしばらく支えてほしいところなんだが」困ったようなテシュノを遮って、オレはさっさと同居人たちのところに向かう。

「オレがかわるよ。リンタロ座ってな。ピーフケも、いいぜ。オレやるから」
 さっさと手を離してソファに向かうリンタロと対照的に、ピーフケは意地みたいに頬をこわばらせてかぶりを振った。

「いや、俺はいいっす。大丈夫だから」
 同じ姿勢を続けた腕と足がぷるぷる震えている。だめじゃん。

「無理すんなって。いいよオレが両方持つからさ」
 力を込めてオレを見返すピーフケの目が独特だった。うわ、あんた誰。いつもより瞳孔開き気味で瞳がきんきら光り、鼻の脇のつやりとした汗からフェロモン系の何かが強く香る。

 なんだか男前に見えた。

 わかったよ、と曖昧に言ってオレは左手を担当する。

「ハイパーレクシアどうしが、同じ言語を創造して意思疎通をしていたというんですか?」
 オレたちのことなんか構っちゃいないいっちゃんが、テシュノに疑問符をぶつける。

「そうだ。マナビさんが相談に来た本当の理由はそこだった。……夫と息子の、謎めいたコミュニケーションに気づいた彼女は注意深くその言葉を聴き取り、書き取って理解しようと努めた。ノート一ダース分の記録と推理……。見せてもらったが、すごいものだよ。家計と医療費を支えるため、看護士や、民間のヒーリング・パフォーマーとして働きづめに働きながら、だ。あれは、愛だね」

 愛かあ。
 ぼんやり思いながら天井でくるくる回る、スプートニクの模型を眺めていたらずん、と腕が引っぱられた。

「マナビさんは彼らの言葉が理解できたんですか。どんな内容だったんでしょうか」

 仕事人の表情になってぱきぱき質問するいっちゃんの声が、オレの耳のふちを滑って弾けた。おい、おいおい、なんだかフキが大変だぜ!

 オレとピーフケの両手にぎりぎり支えられたフキの両手が、白いタランチュラのようにもすもすとすばやく動いている。重みがオレたちにかかる。完全に手首を預けて指を動かしているのだ。

 かちゃたちゃか、たちゃかつかちゃつ、と素早い響き。スクリーンセーバーになっていた液晶がワープロ画面に復帰し、そこにすごいスピードで日本語のセンテンスがつづられていく。


“私はテルミに伝えた/エピスコパシー医療課で何が行なわれているのか/私の身に本当は何が起きたのかを/そのすべてをテルミの記憶にプリントした”


 うわー、とオレとピーフケが同時に叫んだので、いっちゃんがデスクを飛び越えるみたいにして駆け寄ってきた。オレの背後にテシュノの体温が走ってくる。

 息を詰めてモニターを見守る中、フキの手は熟練ピアニストみたいにぴゃらぴゃらと言葉を紡ぎ出していく。頭は斜め右の方に向けられたまま、目はたぶん本棚からはみ出した書類の束を凝視。すごいブラインド・タッチ。


“テルミはプリントされた情報を理解しないが正確な形で保持する/コードを実行すれば言語化して発声する/記録された事実はエピスコパシーを告発するだろう”


「コード、そのコードとは何なんだ、ミラン?」
 焦りにかすれた声でテシュノが訊く。汗から興奮がぴりりと匂い立つ。


“左耳を塞いで右耳のもとで一文字ずつ発音する/三度繰り返す/TELLMENOW//急がねば/私はまたいつオフの状態に襲われるかわからない/伝える/テルミの身の安全を確保してほしい/マナビを頼む/トビオ信頼する/イチコ箱庭の写真/オハラ医療課長スドウの身辺を洗え/ピーフケリンタロカレンダーにミスプリント”


 画面にいきなりオレの名前が出てきた時には、心臓が変な拍を打った。今やフキの指は何十本もあるように見えるほどの速さでキーボードを駆け巡っている。


“オフの時私の知能は動いているがそれ以外は深海にいるのとまるで同じ 聞く話すがとても遠い 時間流れなくなるので眼球の血流をカウントして時を割り出す 特定の人の近くにいないと自己を見失う トビオ或いはテルミがその時はこの不定形な時空の定点になる 側にいないと自分をコントロールできない トビオ どうかw”


 左手の小指がびしっと跳ねた後、手の全体から力が抜けた。一瞬前とまるで違う重みがオレの腕にかかる。
 フキの目は相変わらず乱雑な本棚を見ているが、その目玉の奥で小さいランプが瞬いて消えたような感じがした。

 オレとピーフケは顔を見合わせ、目顔でうなずき合うと、支えていた重い腕をゆっくりと膝の上に下ろしてやった。



 道に並んでピーフケの古靴アディダスと、オレの汚れた裸足。首筋にじりじり来る濃い紫外線。汗。

 ピーフケと二人でしんねり歩くのなんか初めてだ。間合いがよくわからない。もっとも正確には二人きりじゃない。後ろからのしかかる大きな影は、オレという世界の定点を追跡巡航する謎の科学者ミランこと、オフ状態のフキ。

 いっちゃんのオフィスは、盆と戦争が一緒にやってきたような騒ぎになった。フキがパソコンを通じてメッセージを発信するのを止めた後、のことだ。

 画面、保存、コピー、転送、などと単語しか叫べなくなったテシュノ、箱庭箱庭箱庭の写真はどこだあ、と、おすましを忘れて走り回るいっちゃん。

 パニックが去ると、もっと忙しくなった。

 テシュノはネットも電話もあちこちつなぎっ放しにして各方面と連絡を取り、どしどし計画を立ち上げ始めた。いっちゃんと早口言葉みたいな討論と情報交換。流星群みたいに指令が飛ぶ。オレにまで飛んでくる。あんたの部下じゃないっての。

 オレはテルミの居所と状況を確かめるために、現在の保護者にアクセスする役目。ってことは、オハナ姐さんに電話すりゃいいんだな。
 ピーフケはケンズに連絡して、フキをデリバリーしたメンバーの確認およびその後の所在を調べることを伝える任務、と、あとはオレが面倒くさがってフキを置いて逃げ出さないように監視する役割。たぶん。

 いっちゃんは、フキの尻ポケットに突っ込んだままだった箱庭の写真を見つけ、パソコンにぶちこんで速攻解析開始。

 リンタロは、プラクティカの本部でいろいろ内偵するぜ未払いのギャラも貰っとかなきゃいけないし、などと言って、ちゃっかりテシュノの車に同乗して行ってしまった。うきうきと。きっとテシュノのいけてる洋服から離れたくなかったに違いない。

 フキはぼんやり。
 自分の目と同じ色に冴えた空や、日陰を飛ぶ白い蝶の軌跡をきょときょとと眺めながら、歩幅の広いでかい足でついてくる。とりあえずボロ家に戻るオレの後を。

「トビオは、いいよな」
 しんみりした口調にため息をプラスしての発言。オレは驚いてピーフケを見る。

 さっきまで男前が上がっていたのが嘘のように、日向の雑草みたいにくしゃりと萎れている。なんなんだ。何がだ。

「トビってなんか特別に、壱子センセイと仲がいいじゃないか。そういうとこだよ」うるんだ嘆息。

 オレは驚愕した。

 一瞬のうちに今日のこもごもがハリケーンみたいに脳裏を通過する。うわっ。オレとしたことが鈍かった。あり得ねぇと思ってたからか。想像もしなかった。

「……仲良くねぇよ。チビの頃から担当でケアに来てたから、お前らよりちょっと長く関わってるだけだろ。……ピーフケ、すきなのか」

 照れることすらせずに暗めに何度もうなずく横顔。なんてこった。

「あのな、ピーフケ。……いっちゃん若作りしてるけど、けっこういいトシだぜ? おっかねえし。そりゃ面倒見いいかもしんないけど、でもさ……」
 テシュノに惚れてるんじゃないの、と言うのはやめた。ピーフケは気づいていないかもしれない。

 速度を落としてじりじり歩きながら、不器用な同居人はぽそんと道に言葉を落とす。「俺、あの人の言ってること半分もわかんねぇんだ。馬鹿だからさ、トビオみたいにぽんぽん喋ったり、なんか、できねぇよ。全然ちがう人間だってわかってる。そんでも、すきなんだ」

 これじゃもう何も言えない。
 とりあえず、頭の中でふたりを並べてみる。ピーフケといっちゃん。瞬時に背景がジャマイカになった。

「俺は要らねぇ赤ん坊だったから、親は焼却炉に突っ込んで殺そうとしたんだよな。……ぎゃあぎゃあ喚いたから見つかって、命が助かったけど、でも体の前半分はずっとすごいヤケドの痕だろ。普通はみんな気持ちわりぃって顔するのに。……最初に会った時、ただ傷跡をちゃんと見て、苦しかっただろうって、暖かい手で撫でてくれたのは、壱子センセイだけなんだ」

 オレは何気ないふりをしながら、目をばしばし瞬いた。喉がぐっと詰まる。

「そうかぁ」
 と、だけ言った。頑張れよとか、応援するぜとか、ありきたりなことが何も言えない。ただ、やたら下手くそにうなずくぐらいしかできなかった。



 煙に最初に反応したのはフキだ。

 う、と背後で重い叫びがあり、どす、と一歩オレたちを踏み越した地点でスタートを切って走り出す。
 オレたちの住処のある細い通りの、三叉路に近いコンビニの前。だだだだ、と厚い背中がただ事じゃない気配で走っていく。

 ピーフケと目を交わし、遅れたスタートダッシュ。

 白い日差しの中を超現実的に、透明なオーラが縦に空気を揺らめかし、その回りに禍々しく黒い煙がぐねぐね膨らみながら立ち昇っていく。周囲は無人。

 オレたちの家の玄関先が燃えているのだ。

 頭の中でうまく処理できない初めての光景に、オレはむしろ恍惚として立ち止まってしまった。あはは、火事? これで何もかもおしまいかなー。
 ピーフケもどうかしているらしく、感動でもしたように大きく手を叩いて言った。

「お、お、お前んちが燃えてるぜ」
「オレんちが燃えてるけどそりゃお前んちだろ」
「いや、俺んちだけどでもお前んち……」
「いや、お前んちだって」「そうか、だから俺らんち……」ようやく正気に戻る。

「俺らの家が燃えてるー!」

 突っ走る。フキが火の粉を払いながら引き戸をがらりと開けて内部に突入するのが見える。おいおい、死ぬなよ、頼むよ。

 がたがた跳ね上がる手足をなだめながら崩れた垣根を二周し、ようやくうろ覚えに所在を覚えていた消火器を見つけ、さびたピンを抜いてピーフケに手渡す。「レバーを押せ!」言われてようやくその辺りを泡だらけにしながら、火元に向かってぶんぶん噴射し始めるピーフケと、家の中から濡らしたシーツを持ってきてぼんぼん延焼地に叩きつけ始めるフキを目の端にとらえ、オレは三叉路の先にある天水さまに走る。雨水を貯蓄するエコシステム。混乱しながらもホースを引っ張り出し、おそろしく重いのたくるそれをリードして横走り。横走り。じょろじょろとしか出ない水に苛立ちながらもフキの振り回すシーツに放水する。

 行動に頭が遅れてついていくような、手の舞い足の踏むところを知らぬ数分間があって、

 消し止めた、消し止めた。終わった。

 道にしりもちをつく。

 手がばきばきに痛い。たぶん爪とか欠いてどこかに落としてる。

 玄関回りをぐるぐる見て回っていたフキとピーフケが震えながらやってきて、

 ほおおお、と変な息をついて地べたに崩れ落ちてしまう。
 神経をかき回す焦げ臭い匂い、と、何ごともなかったかのように静まり返る周囲の住宅のたたずまい、をいぶかしみながら、オレたちはひたすら虚脱して座り込む。ほー。

「なんだよ、何で誰も来ねぇし消防車だって……」言いかけて気づく。そもそも通報していない。

「ボヤだろ、ただのボヤだったんだ、トビ」ピーフケも震えながら言う。

 うう、とフキは唸ってすくりと立ち上がり、すたすたと家の方に戻っていく。
 オレたちものろのろと直立し、煤にまみれたブロック塀をじっとり見つめ、脱力しきった姿勢で玄関に向かった。



 喉と目がしみしみと痛む煙が充満した家の中は、とりあえず炎の被害に遭うことはなく無事だった。窓を開けてしつこい焦げ臭さを追い払う。

 壁の塗料でも溶け出したような臭気に、げふげふと咳き込んでいたらフキが入ってきた。さすまたの先に突き刺した、黒く焦げた物体を掲げてみせる。
 鼻を近づけるとぷん、と揮発性の匂いが漂った。ガソリンとかベンジンとかそういう燃えやすいものをあからさまに染ませた、布の塊だ。

 これが火元。だとしたら、明らかに放火じゃないか。



 いっちゃんに電話したが出ない。どうやら、自分で考えるしかなさそうだ。

 放火魔は誰か。その目的は。全焼させるつもりだったんだろうか。それにしちゃ火のつけ具合が手ぬるい気がする。まっ昼間、玄関の一ヶ所だけに着火? 何となく、オレたちが帰ってくる頃合を見計らって、わざとボヤを出したような感じもする。警告か。脅しか。誰の。何のための。
 敵が見えない。具体的じゃない。フキがテルミにプリントした秘密、をばらされると困る人間か。エピスコの医療課? そんなエリートっぽい奴らがせこい放火なんてするだろうか。
 もしかして。もしかしてオレが関わってたライムの売人とか。クソ親父が関わってたヤクザ屋さんとか。それはないか。いや、どうよ。

 わかんねぇ。ぐしゃぐしゃ頭を掻く。

 とりあえず、オハナ姐さんに連絡するのはストップだ。もしもオレが敵意や脅迫のターゲットなら、テルミにつながりを持つのはまずい。

 うわ、と、携帯電話をかけていたピーフケが一声高く叫ぶ。まじで? マジ? やべぇなヤバすぎる、うん、ああわかった、じゃ。
 通話を切ってふり返る。

「どうも本気でまずいよ、トビ……。ケンズさんち、アパート、全焼したって。放火らしいぜ」



 オレのゴミ部屋ってこんなに広かったのか。

 時ならぬ大掃除に床のがらくたは取り払われ、青ベッドがひと仕事終えた漁船みたいに窓際に漕ぎ着いている。がらんと空いたスペース、に、ちんまり座って所在なく微笑んでいる小柄なエミョン。腕に包帯を巻いている。壁際には抱えた膝のあいだに頭を突っこんで、何も見えない聞こえないポーズのケンズ。

 リンタロが見慣れない顔を連れて帰ってきたのは日暮れの頃だった。

「うっわー、焦げくせぇ。やっぱり俺んちもやられたのか、信じられないよ、どうなってんだ」
 どうなってるのか訊きたいのはこっちだった。じりじりしてリンタロに詰め寄る。

「プラクティカの本部行ったら大騒ぎで。デリバリーのバイト連中の家がどこもかしこも変な火事になって、仕事回せない状態だっての。死人も出てるっていうから、もうムチャクチャだよ。へんな噂も流れて、デリバリーは壊滅寸前だぜ」

 へんな噂なら見当がつく。
 この近所の町会長をしている苫米地家の、通称トマ爺さんがやってきたのは、ボヤを消した一時間ほど後だった。

「天水さんのホースが出しっ放しになってるが」上半身裸のオレをじろじろと白い目つきで見る。「どういうわけかね」
「すいません。すぐ片付けます」オレは良い子みたいな顔をして言ってみた。「誰かいたずらして、うちの玄関先に火をつけたみたいなんですよね。ボヤで済んだんで、通報はしなかったんですけど。不審な人物とか、何か気づきませんでしたか」

「ふん」いつもは白っぽい能面笑顔ですれ違うだけの、鷹揚なトマ爺さんが害虫を見る目線を叩きつけてくる。「この近所にゃ、あんたら以外に不審な人物なんかいないね」ついに言ってやったぞ、という鼻息がごおと吹き出される。

 遺棄児童の社会復帰プログラムで自助生活をさせるのは、エピスコパシーの政策ですから。と言い切って、いっちゃんが挨拶まわりをしたのが二年前。そんな理屈を盾にされたって、近所がオレたちを快く思ってないのはめちゃめちゃ明白だった。

「なんでも、あんたら、法律違反の仕事をしてるらしいじゃないか。……学校も行かんと、ロクデナシの暮らしをしてるからおかしなことが起きるんじゃないのか。悪い連中に関わってる、ってもっぱらの噂だがね。あの女先生も、これじゃあんたらをここに住まわせておくわけにはいかなくなるだろう。私らには願ったり叶ったりだけどね」

 こんな家は勝手に焼け落ちなさい、まわりに延焼したらただじゃおかないがね、という気配を濃密に漂わせてトマ爺さんは帰っていった。天水さんのホースをずるずる引っぱって。


「エミョンは家にいる時に放火に遭った。暑いから窓を開けて、復帰プログラムの勉強をしていたら燃える火種を投げ込まれたんだ。火傷しながらも消し止めたけど、同じアパートのヤツに責められてさ、お前なんかがいるからこの建物が狙われるんだって。追い出されたんだ。デリバリーの担当者を頼ってきたところだったんで、話聞いて連れてきた。オハラさんも、そうしろってさ。ただ、俺んちもその被害に遭うかもしれないから、見張りに立って警戒しとけって言ってる」リズムでも取るようにぱきぱき指を鳴らして言うリンタロ。

 虚脱したままふらりと訪ねて来たケンズも、その話を聞いてうつろにうなずく。同じ目にあったとは言え、ケンズの場合はもっと深刻だ。なにしろ全焼。隣人の白い目。何年もかけて収集したシナリオのコレクションが灰燼。

 オレたちはとりあえず、二階のオレの燦然たるゴミ広場を片付けて、にわかに増えた同居人の滞在スペースを作ることから始めるしかなかった。


 どどどど、と階段を駆け上がる音がして、家の前を見張っていたはずのフキが無表情にせわしなく走り寄ってきた。オレの軍隊ズボンを黙って指さす。

 またか。

 ポケットを探ると、ひょらひょらと光って着信を示す携帯電話がごろんと出てきた。手に取るとちょうどぷつんと切れるところ。
 外にいてもオレの携帯の着信がわかるフキの不思議。いちいち驚いちゃいけないんだろうな。何しろ眼球の血流で時間をカウントする男だ。

「トビさあ、なんで着信音を切ってんの。いちいちフキが教えに来るなんて不便だろ。ちゃんと鳴らしたらいいじゃん」

 リンタロに言われてオレは顔をしかめる。音を出すのってどうやるんだっけ。機械は面倒、非文明的なオレは携帯の使い方もよくわかっていない。
 えーと、これか? と適当にキーを操作してみたら、ぷわーん! ぱあーん! びゃあーん! と、だしぬけに派手な音響が鳴り響いた。

「うわ、なんだこれ。うるせぇ、どうやって止めるんだ?」

 慌てて携帯を遠ざけてわたわた慌てるオレに構わず、音は仰々しい交響曲となって、がらんとした部屋の隅々までを震わせる。でんでんでんでんでん。

「おおー、二〇〇一年宇宙の旅じゃん」
 ケンズがゆっくり頭を上げて、ちょっと張りの出てきた声で言う。

「なんだよそれ、わかんねぇよ、どうにかしてくれよ」
「映画だよ、これ、“ツァラトゥストラかく語りき”だろ」
「それはニーチェだろ、ああ、うるせぇ、この音を何とかしてくれ」
「着信、着信ですよ。どれでも、数字のキーを押してみてください」見かねたようなエミョンが小声で忠告してくれる。

 言われたとおりにすると、電話がつながった。オハナ姐さんだった。
「トビちゃん、大丈夫? あなたのところは火事になってない?」

 なんで知ってるんだ。

「だって、大変な騒ぎですもの。若い子だけで住んでる家や、バイトの若者のアパートを狙って、連続放火事件が起きてるんでしょ? 施設出身の労働者層がターゲットになってるっていう話もあるけれど……心配になったのよ」

 ちょっと燃された、と言うと姐さんは軽く悲鳴をあげた。フキ含めてみんな無事だと説明する。二人ほど、焼け出され組が来てるけどな。

「これから行くわぁ」濃く重い声で姐さんは言う。「そこには何人のコがいるの?」

 六人、と答えてオレは気づく。テルミに危険をつなげちゃいけない。「あのな、子供は、連れてこないでほしいんだ。放火されたばかりだし、まだ危ないからさ」
 オハナさんだって危ないぜ、来るんなら本気でボディガードつけるとか、安全なルートで来てくれよ、ちょっとヤバイ状況かもしれないから。そう言って電話を切った。大丈夫かな、この通話。

 切った携帯を見つめていると、エミョンが女の子みたいに優しい顔で微笑んで、電話の調整しましょうか? と手を伸ばす。オレと同じ十四歳。繊細ななで肩に白い包帯が痛々しい。

 ばかばかしい大音量を下げてもらった。着信メロディは色んなジャンルからいくつか聞かせてもらって、てきとうな曲に設定してもらう。ダークサイド・オブ・ザ・スター。オレには音楽のことはよくわからない。

「エミョンは工学課程めざして勉強してるから、機械のことはちょっとすごいぜ」自分の手柄みたいにリンタロが言う。

 照れて謙遜しながら携帯を返すエミョンに、オレは気になっていたことを訊いてみる。

「あのさ、こういう携帯だけれど、盗聴されるってことは、あるのかな」

 冴えざえと賢い目を広げてオレを見たエミョンは、きっぱり首を振る。「いいえ。携帯の音声信号はすべてデジタルで、傍受してもノイズにしか聞こえませんから、基本的に盗聴はできないはずですよ」
 すらすら言って微笑む、なかなか頼もしいシャイなエミョン。

 やがて訪れたうすら寒い沈黙を埋めるように、ケンズがぽつぽつと語る映画の話を聞く。何か喋っていないと崩壊してしまうのかもしれない、青黒い顔色をした気の毒なケンズ。古いビデオが好きなピーフケがところどころ口をはさみ、原作の小説を知っているオレも適当に茶々を入れる。リンタロが衣装や美術についてあれこれ言い、エミョンがさりげなく話をまとめる。

 おかしなシンポジウム。

 しばらくの後、階下で引き戸がぎゃら、と鳴る。ハイヒールの足裏がボロ階段をかつかつと踏み、一瞬の香水の匂いを吹っ飛ばすうまそうな空気が押し寄せて、大きな鍋を両手にささげ持った大きなオハナ姐さんが到着した。



「トン汁と、おにぎりよー。から揚げと玉子焼きもあるのよー。みんな、遠慮しないでお食べなさいな」

 アンタはまかないのオバチャンか、と突っこむ隙もあらばこそ、場違いにゴージャスな金茶色のドレスを着こんだ姐さんが床にどん、と鍋を置く。大きなバッグから皿や茶碗や箸や握り飯やおかずを出して並べ、急遽オレの元・ゴミ部屋はピクニックの場と化す。全員の腹が元気よく鳴った。

 とりあえず、こういう訪問は大歓迎。


 交代で見張り番に立ちながら炊き出しディナーをやっつけて、オレたちはこんな状況下でも満足の吐息。うまい飯こそ人生だ。

 からになった鍋をにこにこと眺めていたオハナ姐さんが、不意に真面目な顔になって言う。

「ここにいるのは、みんなトビオちゃんとミランちゃんの仲間なのよね?」

 なんでその名前を、と言いかけて合点。マナビちゃんのいた病院に再訪するって言ってたっけ。
「フキの正体、わかったんだ」

 ええ、病院でいろいろ調べてきたわぁ、と、マスカラの濃いまぶたをばさばさ上げ下げしてみせた。
「元はエピスコにいた科学者だっていうじゃない。びっくりよ。同僚に妬まれて薬を盛られて脳障害になっちゃったんですって?」

 オレの聞いた話とだいぶ違う。
 いい機会だと思って、オレはテシュノやいっちゃんの語った背後事情をざっと話した。どうせテルミを貸してもらうのに了解を得なきゃならない。ケンズやエミョンにも聞こえてしまうが、二人とももう同じ被害に遭った仲間だ。秘密を知らばもろとも、運命共同体ってことでよろしくお願いします。

「んまあ、とーんでもないわあ」
 オレの説明に、姐さんは天を仰いで慨嘆してみせた。焼け出され組の二人も見開いた目を四つ並べて驚嘆している。

「エピスコの医療課ってとこがそんな場所ならば、あたしが聞いた薄気味悪い噂もあながち嘘じゃないかもね」

 リンタロは外を巡回しに行っている。フキと一緒に。どういうわけかリンタロにとって、フキが無言で無反応であることはほとんど会話の妨げにならないらしい。セルッティだかモレッティだかがどうのこうの、と、オレたちに話すのと同じノリで喋っている。普段から人の返事をろくに聞いてないことが明白だ。

「気味悪い噂って、なんですか」問いかけるケンズに、姐さんは苦い笑みをひとつ向ける。

「ライム中毒で死んだ人の脳を回収してるんですってさ」


 オハナ姐さんが語る、恐怖の都市伝説。

 あたしにいろいろとミランちゃんのことを話してくれた内科医さん、その人ももとエピスコに勤めていた人なんですって。そういう人、あの病院には多いらしいの。エピスコのやり方に反対する人たちが、本当の民間で医療や福祉に携わっているのね。もちろん非合法だわ。
 最近、ライムっていう新しいアシッドがすごく流行ってるでしょ。トビオちゃんも、あんなものやってたらダメよ。最後はひどいことになっちゃうんだから。
 依存性はないらしいわ。だけれど、脂溶性の成分が脳の一部にどんどんたまっていって、神経のカバーみたいなもの……ミエリンっていったかしら、それを溶かしてしまうんですって。
 そうなると、言葉という言葉が理解できなくなるらしいの。何か言おうとしても別の言葉が出てくるし、言われたこともちゃんと聞き取れなくなって、最後には意味というものが頭の中で壊れてしまうんですって。そうなると、混乱してばたばたと暴れるしかできない。
 症状は、ライムの摂取を止めてもどんどん進行して、最後は脳幹というところが麻痺して、呼吸できなくなって死んでしまうというわ。怖ろしいでしょう。
 その病院には、主に外国人失業者や遺棄児童の人……つまり貧乏に暮らすしかないような人が、たくさんライム中毒で運ばれてきてね、って言うのは、そういう人をエピスコの医療課は患者として診ないからなのよ。止めようもない症状で、ばたばた亡くなっているんですって。治療法がないんだもの。
 ところが、差別をして診療をしないそのエピスコが、亡くなった人の遺体だけは引き渡しを要求するの! 研究中の病気なので、解剖材料として遺体はすべて回収するっていうの! ひどい話だと思わない?
 もちろん、ライム中毒で亡くなった人にだって家族や愛する人はいるわよ。遺体は還してほしい。ちゃんとお弔いをしたい。それでそうしてくれるように要求すると、
 エピスコは遺体から脳を抜いて返すのよ!
 研究のために尊いご検体をお願いします、ですって。図々しい言い草よね? なに考えてんのかしら。


 確かに不気味な話だった。ディナーが逆流しそうなイメージ。これまでライムを何錠やってきたか数えてみる。オレの脳も溶けてたらどうしよう。

 そろそろお店を開けなくちゃ、と鍋を持って立ち上がるオハナ姐さんに、オレは慌てて声をかける。テルミを貸してもらわなきゃならない。それを交渉するのがオレの役割だった。

「だめよ」姐さんはあっさり言って空の皿やタッパーをぽいぽいバッグに放り込む。
「だめ?」オレはちょっと呆然。だってさっきプラクティカのこと説明したじゃないか。

「あのね、テルミはあたしが、マナビちゃんから預かった子なの」よいしょとバッグを肩に背負う。「エピスコが何だろうと、プラクティカがどうだろうと、マナビちゃんの許可がない限り、誰にもあの子を触らせないわよ。女の約束ですもの、絶対にだめ」
 全身丸ごと柔らかそうな姐さんの中から湧き出す、がちがちに固い意志。

 二の句が告げずにいるうちに、さっさと帰られてしまった。ネゴシェート大失敗。

 オハナ姐さんと入れ違いにフキとリンタロが帰ってくる。交代だ。

 今夜は順番で見張りに立ちながら、がらんとしたこの部屋で合宿ムードの仮眠だ。

→Y・・・・・・

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