W.
・・・・

 大皿に乗って運ばれてきたチキンとマトンに、お行儀わるく喰らいつく。手や口のまわりがぎたぎたに汚れても気にしない。深くみっしりと強い肉の味だ。

 もぐもぐしながらもオレは話を続ける。

 フキがどういうわけかトイレをがまんしていたらしいこと。息子、らしき子どもがやってきて、その子のほうも奇妙きわまりない言動だったこと。マサイ族のようにはね、アルファベットと数字をなんだか瞬時にコピー。フキまでそれをトレース。
 そして今朝、目ざまし時計みたいにオレを起こしたこと。

「フキは、いったい何者なんだろ? ちょっとばかりへんなヤツかと思ってたら、ついていけないようなところがあるし。オレ、お手上げっぽい。こんなヤツ、会ったことないから。いっちゃんは仕事でいろんな人間を見てるんだろ、なにかわかるんじゃないかと思って、訊きに来た」
 そう言って瓶のビールをひと息にのどにあける。

「あたしは医者じゃないし、診断はできないよ。すでに臨床心理士でもないから、ただのしろうとの考えにすぎないけど」きゅ、とギアを入れるように息を吸って、言う。「その、文字や数字をやたら正確に記憶するのが気になるね。ハイパーレクシア、ってやつかもしれないな」

「なんだ、ハイパーレクシアって」

 オレは訊くが、そこにナディが踊るようなステップで大盛りのパスタを運んできた。魅惑的な湯気。オレは話をさておいて武器のようにフォークを握りしめる。

 フキと奪いあいながら食った。いっちゃんはもう腹がいっぱいなのか、今日の話題で胸がいっぱいなのか、パスタには目もくれずに左ななめ下を見て考えこんでいる。手には細巻きの煙草。オレには吸うなと禁止するくせにずるいオトナだ。

 ざくざく食って満ちたりたオレたちが、はあと息をついて椅子にのけぞると、いっちゃんは親猫みたいに目を細めてふふんと笑った。オレの食べっぷり、ご満足いただけましたでしょうか。

「で、なんだっけ、ハイパー、さっきの、いっちゃんの言ってた……」

 オレが言いかけると、横から
「ハイパーレキスィア」

 明朗な発音。オレといっちゃんは思わず目を見ひらく。フキがそう言ったのだ。

 言ったきり澄ましてきょとんと座り、空中を眺めているフキをかっきりと見つめながら、いっちゃんはウェストバッグから銀色のひらべったい缶を取りだした。ここんと開けて中身を、白い錠剤をフキの目の前にあける。ざらざら。積もったピルの山を指さし、フキの目の中を見る。

 長すぎるフキの腕が、蛇のようにさっと動いた。
 ひどく器用に錠剤をつまみ、かちかちと裏がえしたりすべらせたりして、手品のように手早く六つの山をつくる。白い薬の集合が六つ。ほぼ一瞬のうちに完成。

 いっちゃんは身を乗りだして、注意深くそれを見た。うなずく。

「トビオには、この六種類の薬の違いがわかるかな」

 オレは薬の山を覗きこむ。どれも同じ白い錠剤で、大きさもほとんど同じ。わかるもんか。

「よく見ると、片ほうの表面に刻印があるだろう」

 いくつか手に乗せて、目を近づけてまじまじと見てみる。確かに。それぞれの表面に似たようなアルファベットや数字がささやかに彫りこまれている。

「フキは、そこに書かれた字だけを、一瞬のうちに読み取ってしまうような能力の持ち主なんだろうな」

 そんなヤツがいるもんか、とオレは半信半疑でいっちゃんを見た。ずいぶん真剣な顔をしていた。

「この薬は、あたしの常備薬だよ。こう見えて傷持ちのやっかいな体だから……。腕の神経の薬や、抗炎症薬とかビタミン剤。体調に合わせて呑み分けないといけないんだが、似た薬ばっかりで毎度こまる。目を近づけて刻印をよく読んで、ようやくどの薬かわかるんだ。フキには一瞬で読めたようだけれど」

 たしかにおそろしく素早く分類していた。こつこつ引っくり返したのは、字が彫ってある表面を見ていたのか。

「そんなふうに、文字、だけを極端に正確に、人並みはずれて早く認識できる能力のことを、ハイパーレクシア、フキの発音に従うとハイパーレキスィアと言う」

「超能力なの?」
 オレはまじめに訊いたんだが、いっちゃんは一瞬うろが来て言葉に詰まり、驚いたようにオレを見つめた。

「そうか……。超能力だよね、たしかに。そう思うのが当たりまえなんだけれど、今のところ、その能力は一種の病気の症状だと見なされているんだ」

 豪快に大皿で運ばれてきたデザートを取り分けながらいっちゃんは言う。
「自閉症というのはわかるかな……。よく、引きこもりがちな性格のことだと誤解されたりするけれど、そうじゃない。脳の機能の障害だ。情報のイン、アウトに問題があって、人とつうつうで交流ができないの。胎児の時、あるいは生後すぐに、脳の一部にダメージを受けて発症すると考えられている」

 菓子をしこたまに盛った皿をオレとフキの前に差しだす。いただきます。

「独特のやり方でこの世界をとらえようとするから、苦労も多い。フラストレーションを表現できず、限界まで自分を追いこんでしまったり、ばんばん跳んだり暴れたりすることで解消したり……。逆に、ありえないぐらい極端な能力を発揮する人もいる。数字にめちゃめちゃ強くて、何桁もの計算を一瞬で処理したり、いちど聴いた音楽をすぐに、習ってもいないピアノで再現して弾くことができたり、ね。ハイパーレクシアも、そうした特殊な力のひとつだと考えられているんだよ」

 そう言われてもよくわからない。オレは薄緑色のケーキにかぶりつく。さわやかに甘い。美味美味。

「野生の人間みたいなものかな」
 いっちゃんは、ぽつりと言う。

 オレもそうですけど? と口に菓子を詰めこんだまま言うと、いっちゃんが鼻にしわを寄せて苦笑した。
「それはそうだった。だから、フキはトビオに妙になついてるのかもしれないなあ。だけど、このフキが、この社会で、問題もなく日々を過ごしているところが想像できる?」

 オレはフキを見た。さっきまでオレとおなじようにフォークでデザートを突き刺そうと試みていたフキだが、今はすでに天然モードに入って、手づかみで口に菓子を放りこんでいる。夢中。ふつう見つめられたらにらみ返したり、なんですか、とか訊くだろう。フキは気にしない。たぶん気づいてもいない。

「きつそうだな。たぶん面倒な目に遭うだろ……。フキって、その、自閉症ってやつなのかな」

 いっちゃんは首をかしげながら、ゆっくり視線をめぐらせる。

「最初は、そうじゃないかと思った。……まるで視線が合わないし、すごい箱庭をたちまち作るような能力を発揮していたから。だが、そのことばでフキをくくるのは難しそうだ。自閉症的な傾向を持っているのはたしかだろうけど、ここで自然に雰囲気に溶けこんでいる様子を見ると、どうもそれだけじゃない。ひどく高レベルの認識能力を持った人間だという印象を受ける。トビオを助けた戦闘能力、薬に知識がありそうなところ、なんらかのプロフェッショナルなキャリアを持った人間が、わけあって高機能自閉……知能に遅れのない自閉症の人をそう呼ぶんだけど、その状態に陥っているような感じもする。あたしも、フキの正体がひじょうに気になるね」

 長々と弁じ、口の端でふわりと笑って話を閉じる。

 わかったような、わからないような気持ちでオレは濃いコーヒーをずるずると飲み、やたら苦かったのでえほえほとむせる。
 フキも負けじとトルココーヒーを口にふくみ、でほでほと咳をしてみせた。



 まるで日の翳らない公園を横ぎって、オレたちはもと来たルートを引き返す。やや伸びた影だけが時間をほのめかす、永遠みたいな昼間。金銀にちろちろ揺れる木の葉の裏、風はスチーム。

 犬みたいに舌を出しててろてろ歩く。豪勢な食物を消化したぶんだけカロリーが体からほてり燃えあがる。自分自身があつくるしくて体をぬぎたい気持ち。

 目の前をさっさか歩むいっちゃんの背中は、つるりと太陽をはね返して奇妙なほど涼しげだ。いつでもどこでも余裕の姉ちゃん。頼もしいけど腹が立つ。弱点とかないのか、この人は。

 横に並ぶフキの体躯は対照的。でかい背中をグロッキー気味に丸めて、薄汚れたシャツをじっとり濡らして暑さ負け。もやん、と周囲にかげろうが立っている。汗が体温でそくそく蒸発して大気を揺らめかしているのだ。

 それにしても目の前をどんどんと行くこのオトナの女と男、オレは少しまぶしくなって目を細めてみる。

 二人とも、自分の流儀はきっちりつらぬきながらオレに関わるくせに、パワーもコントロールも押しつけない奇妙なオトナ。無防備にも背中を見せて、真っ昼間の明るい公園を歩いていく。

 へんな光景だ。オレの脳内ファイルの中にこんな風景はない。

 ふーん、とうなると、いっちゃんがなぜか照れたようにも見える横顔を振り向かせて、へたばるなよ、と言いながら左手を差し出してきた。

 フキもそれにならったつもりか、振りかえって右手を差し出す。

 なんだよ、三人でお手てつないで炎天下のお散歩か。

 オレは猫目になって両手を後ろに隠し、わざとふてくされた顔で二人の真ん中に歩み入る。

 なかよしファミリーじゃないっつーの。



 さすまたって便利だ。一家に一本。ぜひ、常備をおすすめする。

 得体のしれない手合いが出入りする、あやしいバイト生が雁首そろえて住んでいる家ならなおのこと。

 国際色ゆたかなランチのあと、公園をぬけて一度いっちゃんのオフィスに戻り、オレの腰の傷はそこで容赦なく消毒処分を受けた。
 縫っとくか? とお裁縫セットを見せられて、オレはげんなりしつつお断り。

 読むものないから本ちょうだい、とねだったら、いっちゃんはハイパーレクシア関係の本をどさどさと寄こした。学習せよとて渡しけり。
 詩集も寄こす。詩、ってなんだかめそめそした短い文だろ、そんなもん読まねえ。と突っぱねると、ごちゃごちゃ言わずに持っていけ、と一方的。村山槐多って人の詩集。知らねえ。

 やや西日の道を汗たりたりでぺとぺと歩く。詩集とやらを歩き読みしながら。残りの本を抱えたフキがゆらゆらしながらついてくる。アスファルトに濃くのびる影。頭上に蝉のラブコール。ここまで全力で日差しがきついと、ズボンはいてる下半身の方がむしろ涼しいぐらいだ。

 ぼろい我が家に到着し、オレは玄関の前で人生最大級のあくびをする。

 のびのびと疲れていた。
 ものすごく自然に眠い。

 寝汗もかかずに、潜水艦みたいに深くいさましく眠れそうな気分だ。酒や薬がなくても。

 軋む引き戸を開けると、中から笑い声と煙草のけむりがぼん、と吹き出してきた。玄関に靴が三足ごろごろ。

 首をのばして右奥の部屋を覗きこむと、めずらしくピーフケとリンタロが帰宅していて、どういうわけかふたり並んで頭上に手をひらひら振りまわし、嬉しげに踊っていた。

 うさぎーのパンツはいいパンツー、しなーやかー、しなーやかー、だみ声で歌いながら舞っている。なにやってんだ、ハッパでも吸ってご陽気なのか。

 そういうモノがあるなら分かち合おうじゃないか、それが友だちってもんだ、と思いながら廊下に上がると、気づいたリンタロが跳ねるような声で言った。

「おお、おかえりー、トビさん。今、客が来てるんだ。バイトの仲間がさー」

 壊れリクライニングに座っていた男がふり向いて、黄色のサングラスをかけたままの目線でこっちをすかし見る。ちょっと年上、十八ぐらいの、妙に肩の線がしわしわした黒シャツの、髪の多い男。

 が、オレの背後に反応して、ばさ、とひざの上の雑誌を落として立ち上がった。焦ったようすで左右を見、手をふるふるさせたかと思ったら、ダッシュでオレのほうに向かってくる。蹴り飛ばす床の上のもろもろ。

 ぶわ、と風圧でオレの目の前に立ちはだかった時、汗の中の電解質が強力に匂った。恐怖と狼狽。
 オレの幸福な眠気が吹っ飛ぶ。警戒! 背すじのうぶ毛がいっせいに逆立つ。

 男はオレではなくフキを見て、どんどん蒼白に冷える。まぢかで確認してパニックのだめ押し、という感じだ。

 なんでだっ、ちくしょ、とひっくり返った声で言うなり、フキのでかい胴体を当て身で突き飛ばして外に脱兎。いっちゃんにもらった本がべらべらと玄関口に落ちる。よろけたフキはう? としかめ面。

 オレは立てかけたさすまたを反射的につかみ、男の後を追いかける。フキをど突きやがって、&おまえ怪しすぎ。チェイス。

 家のすぐ前の三叉路で、左右を見ておたおた足をからげている男を捕捉、さすまたを突き出してブロック塀にその首を固定。じたじた暴れても気道と頚動脈を自分で絞めるだけ、男はさすまたのまたを両手でつかんだまま為すすべをなくす。

 ぽよーん、というラフな感じでフキとピーフケとリンタロが家から出てくる。オレのさすまたぶりにおそれいって呆然、なのか、あまりに意味不明の展開に自失、なのか、ぼんやり見物している。

「いきなり逃げやがった。怪しい。つかまえろ」
 そうオレは言うが、同居人ふたりは顎を落しそうに口を開けて、いやいやいやいやと首をふるばかり。

 フキがさっさと動いて男の両腕を後ろからごしりと羽交い絞めにした。



 リクライニング機能に欠陥のあるぼろソファに、不審な黄サングラス男を座らせ、リンタロの英国ブランドベルトでお縄の状態にする。
 オレはその向かいの壊れソファに座り、さすまた構えて尋問の体勢。

「さて」オレは言い、まず同居人に問う。「こいつ誰なんだ?」

「だから、バイトの仲間だって言っただろ……ケンズさんだよ。俺らの先輩で、いろいろ教えてもらってるんだ。トビ、ひでえよ。こんなに縛ることないじゃん」
 ケンズさん本人より、きりきりに巻かれた自分の高級ベルトを気づかう目線でリンタロが言う。

「ハーイ、ケンズさん」
 オレは愛想よくあいさつして、さすまたの先でサングラスをかちかち突く。「どうしてケツまくって逃げたのか、ボクたちに説明してもらえるかなあ」

 オレの横にはフキ。まだ律儀に本の束を司書みたいに抱えながら、きょたきょた部屋の中を見回している。

 学生にも勤め人にも見えないケンズは、サングラスの奥の小動物みたいな目でちらちらとフキを観察している。首すじが汗だく。冷房もないこの部屋でこの気温だから当たり前だが、どうやらふつうの汗じゃない。

「フキ」オレは手招きした。この人のこと、正面からじっくり見つめてやってくれないかなあ。さあ見ましょう。
 そう口にするまでもなく、ケンズの全身が感電したように縮みあがった。フキが近づきかけただけでこの反応。なにか知っている。

「俺は、ただ俺は運んだだけだから」ぜぜぜと咳きこむように息を吸って、そう言った。「ヤバそうだったけど仕方ねえ、バイトだから。ただ運んだだけだ。他のことは何にもわからねえ。だから勘弁してくれよ」足を浮かせ、肩をねじり、近づくフキから必死で身を遠ざけようとする。

「なんか、ケンズさん、この大きいヒトのこと知ってんの」すなおに困惑気味のピーフケ、サンキュー。オレもそう思ってたところ。

「運んだんだな。火曜日か。五丁目のオハナズ・ダイナーにこの男を箱詰めで運びこんだのは、おまえか」
 知ってることだけゆっくりと、確信あり気に放つ。不思議なもんだ。そういう言いかたって、ほかの何もかもをも全部つかんでるように大きく聞こえてしまう。

 ケンズはうんうんうん、と汗をこぼしてうなずいた。決まりぃ。

 オハナ姐さんの店をかぎまわり、フキを放りこんでいったのは違法デリバリー。だれに、なんで依頼されたのか。
 フキはこの男を見てもてんで反応していない。知らないのか。おぼえていないのか。この男はびりびりにびびっている。フキを見ていて、おっそろしい戦闘能力があることを知っているのか、それとも依頼筋がヤバすぎるのか。

 奇妙にアンバランスだった。

「あのさあ、トビ……」
「なんか、俺、思うけどさあ……」

 リンタロとピーフケが同時に口をはさもうとする。オレはぴちんと眉間がキレるような感じがして、うるせえ、と低く一喝した。むずかしいこと考えてるんだから邪魔するな。
 いつもだったらそこでぴゅう、と引くふたりだ。なんと言ってもオレは怖い・強い・偉い。いいか分かったか。

 しかし同居人は引かなかった。

「え、わりいけど、なんか今のトビオ最低っぽい」
「うん、何キレてんだお前って感じ。俺らの仲間いきなり縛って脅しとかしてんじゃねえよ。シャレになんねえぞ。お前それじゃ誰もついて来ねえぞ」

 シリアスな声だった。ああん? とふたりを見ると、きっちり木刀やスタンガンをしかるべき位置に抱えている。眉毛が直線だ。

 こいつら本気で怒ってる。

 んだと、と乱闘してすべてを暴力で片づける、という簡単ルートがまず閃いた。フキはオレの加勢だからまず負けないだろ。リンタロ潰してピーフケ潰してそれからケンズを容赦なくボコッて……。

 だしぬけに、いっちゃんの声が頭にエコーする。
 冷酷。
 って、こういうことなのか?

 オレの胸の真ん中にあったはずの、やられる前に殺れ精神がきりりとクリアになり、ぴしょーんとつめたい水滴を浴びてどこかにほどけていく。

 ピーフケとリンタロはオレを見て、オレのやることにまっすぐ怒っている。
 当然だ。リスクのでかいデリバリー・バイト。このふたりだってあぶない橋を渡っている。生きるために。その仲間を拘束と拷問でごしごしやられたら。

 シミュレーションするだにオレ最低。
 これじゃギャロップにそっくりじゃないか。
 自分のむかつきを最大限利用して、パワー&コントロールでダチをぴらぴらに叩きつけようとしている。

 なにやってんだ、なにアツくなってんだオレ。
 正直、なさけなくなった。

 しゅん、と顔色が溶けたのをふたりも見たんだと思う。おお、と小さく息を抜いて武器を下げた。

「わりい。オレ勝手なことやりすぎた。おまえらの仲間、きつくいたぶるような真似して悪かったよ」
 つるんと立ち上がり、さすまたを投げ捨ててふたりに両腕を上げてみせた。

 ピーフケとリンタロ、ぎんぎんに立ってた眉間をゆるめてほー、と息をつき、腰が抜けたようにそこに座りこむ。



 結局、あとのことは同居人ふたりがやんわり訊きだしてくれた。まずいことあるなら、俺ら話聞くよ、みたいな感じで。

 たしかにケンズはフキを運んでいた。ほかの何人かのバイトと共に、何日か前からオハナさんの店の検分をし、保安課の巡回がないルートと時間帯を探っていた。
 下見はいつものことだ。しかしその時にかぎっては、ずいぶん念入りでやたら口止めもかたく、ケンズは妙な仕事だと感じていたらしい。

 指定された日に、運送屋の格好をし、偽装したトラックで向かったのは、郊外にある製薬会社の工場だった。
 広い敷地に、生産工程と出荷工程の大きな二棟。事務所や食堂や工員のためのレクリエーショングラウンドまで広がっている。

 はじめて見る施設に緊張しながら倉庫に入っていくと、やたら小洒落た麻のスーツを着た、若いんだか年くってるんだかわからない男がいて、合図の身ぶりをした。どこかで見たような顔だけれど、はっきり誰だとはわからなかったらしい。

「箱を運んでほしいんだ」小洒落男は言った。「中身は、そうだな……。くわしく知る必要はないが、生き物が入っている。温度変化や振動に弱いので、気をつけて運んでほしい。どこに届けるかはわかっているね」
 とっちゃんボウヤみたいな顔に似合わず、かなりきっぱり知的な声だったそうだ。気を呑まれて、ケンズたちバイト一同は黙ってうなずいた。

 倉庫からガレージに続く通路を、製薬会社の作業員が数人で、でかい箱を押して運んでいく。ケンズたちもそれを手伝おうとばらばら歩み寄った。
 特徴あるにおいに気づく。香辛料のような、濃すぎるコロンのような体臭。濃い緑のユニフォームを着て、奇妙に四角いキャップをかぶったその顔はどれも、ほり深く浅黒い異国人の容貌だった。ちりちりと巻いたボリュームある髪をむりに帽子に押しこんでいる者もいる。
 驚きをかくして荷物を押し、フォークリフトに積みこむために皆で持ち上げた瞬間。

 箱が巨大なバイブレーターのように振動した。

 うわ、とケンズたちのみならず、エキゾチックな作業員もいっせいに腰が引け、バランスを崩す。よたよたしたところに声。
 箱の中からケモノめいて、でも人間以外の何ものでもない確かな発声。デリバリーのバイトはいっせいに手を離し、逆に濃い容姿の作業員は支えようとふんばったため、箱は結果として横倒しになった。

 暗号みたいなことばだった、とケンズはオレたちに言う。数字とかアルファベットとかなんどもくり返すみたいな。

 まずいっ、と、小洒落男が悲痛なほどのあわてぶりで駆け寄り、箱を起こそうと飛びつく。作業員たちも各国語でいろいろつぶやきながらそれを助けた。

 ぶつぶつ言う箱を慎重に起こし、小洒落男はどっと汗をにじませた額でケンズたちを見回した。逡巡のあと、やむない、と小声で言って、外科医みたいに素早い手つきで箱のふたを開く。

 ゆら、と蒸気が立ちのぼって、怪獣映画かなにかみたいにふらふらと、中から巨大な男が身を起こす。

「立ち上がったらでかかったんで、俺らビビってかなり引いた」ケンズは言い、ぼけっと突っ立っているフキを横目で見る。
 そういう光景、いちど見たことあるから想像つきます。

 宙を見て暗号を唱えている大男の耳もとで、小洒落男がこにょこにょと何かをささやく。これもまた、数字やアルファベットの羅列のように聞こえたという。
 大男はふらふら視線をさ迷わせて周囲を見渡し、やがて眠りに落ちるかのように目を閉じて、すとん、と箱の中にまたしゃがみ込んだ。

 しばらく腕時計と箱の中を見比べながら小洒落男は待ち、じきに息をつくと、ふたをもとどおりに閉めた。高そうなスーツの袖で顔の汗をぬぐう。

「君たち、中のものを見てしまったね」
 動悸を整えるように、しずかにうなずきながらケンズたちに告げる。「少し面倒なことになった。知られても構わないようなことだが、いや、むしろ知られたほうが本当はいいことだが……」脇を向いて考えこむ。小じわの多い柔和な横顔。

「今はまだ、リスクが大きすぎる。中に人間が入っていると知っていただけで、今後の君たちの、仕事の待遇に支障が起きるかもしれない。それどころか、命すら危なくなる可能性がある」
 微妙に長めの髪をおしゃれにカットした男は、ソフトな口調でそう言った。ケンズは背筋が冷えたらしい。懸命に抑制してはいるが、小洒落男の声は底のほうで恐怖に痺れていたし、少しだけ見える喉もとの皮膚には鳥肌が立っていたからだ。

「とても、危険だ。アクシデントでこんな目にあわせてすまないが、どうか見なかったことにしてほしい。だれかに明かせば、ボクたちだけではなく、君たち自身にも害が及ぶ。すべて忘れたほうがいい」

 そんなわけでケンズは忘れた。頭を空白にして箱を五丁目の癒しパブに運び、投げこむように放り出して、とっとと職務を終了した。

 すべて忘れたほうがいい。

 この生きにくい社会で、金持ちそうな男と外国人労働者と、箱詰めの人間が一気にからんだような事件に関わるのはごめんだった。
 バイトを辞めようかとも本気で考えたらしい。事実、同じミッションに関わったメンバーのほとんどが、違法すぎる雰囲気に怖気づいて退職してしまった。
 ケンズは悩んだが辞められない。破格のバイトだ。いつか映画に関わる仕事をしたいという夢がある。撮影所のパシリでは金にならない。貯金のため、危険でもデリバリーの仕事を続けるしかない。
 忘れきったと思った矢先に、自分が配達したその品が、いきなり目の前に現れるとは。

 不運だった。

 話し終えたケンズはやはりフキをちらちら見る。フキは退屈なのか、壁のカレンダーを一心に読んでいる。立ったまま。本を抱えたまま。

「この大きいヒト、そうするとなんか、ヤバイ人なのか」
 ピーフケが言う。

「俺らもすばやく忘れたほうがいいのか?」
 リンタロが言う。

「話してくれて、ありがとな」
 オレは部屋に置き去りにされていたランブルスコのボトルを、お礼とばかりにケンズに放ってやった。



 どういうわけか宴会になった。

 ランブルスコを飲み、緊張のとけたケンズは少しずつ饒舌になり、自分のことを、映画がすきだとかいう話ををぽろぽろと語り始めた。
 ランチョンミートやピタパンをつまみながら、発泡ワインをまわし飲みしていたオレたちも変に元気が出てきて、シリアスな空気の色を変えるために騒ぎだす。

 ややこしいこと、きついことは忘れたい。

 ピーフケがバイト代でビールやコップ酒をコンビニから調達。世間が本格的な夜になる頃には全員きげんよく酔っぱらい、
 それでも足りずにケンズとリンタロが出資して購入してきたバーボンをくいくい飲み、
 フキが無言で踊りだした「うさぎのパンツ」に合わせて歌い、てんでにダンスし、くだらないことで笑い、止めようのないほど盛り上がり、得がたい親友どうしのように肩を叩き合い、通報される寸前まで奇声をあげてジャンプしたあげく、

 げしょげしょの混濁物になって倒れて眠ってしまったんだ。



 製薬会社の工場、とケンズは言った。

 フキはオレのライムを一目見てすぱっと捨て、そしていっちゃんの薬をちゃっちゃと見分けた。

 マナビちゃんは非合法病院の看護婦で、フキとはそこで出会ったらしい。

 話がなんだか、いちいち薬くさい。医療くさい。
 どういうことなんだ?

 眠りから醒めつつある自分を感じながら、もやもやした考えを頭の中でかき回す。

 遮光カーテンの破れ目から、やる気のある光が一直線に侵入して床にホットスポットを作っている。

 白くにごった煙草くさい空気。大の字になった体がゆっくり上下するので、なんだ? と思ったらオレの下でフキがうつ伏せに寝ていた。

 足の裏がもじゃもじゃするので見ると、床の上にのびたケンズの髪に足指が深くからまっている。

 すえた酒の臭気。しんと湿った床の感触とじわじわ忍び寄る外からの熱気。

 どうやら午前中、昼前あたり。
 どうやら今日も夏日だ。

 ぶわぶわ揺れる頭を押さえて立ち上がる。

 ソファに脚を乗せてひっくり返っているリンタロと、どういうわけかそのズボンのすそをつかんだまま体を丸めて眠っているピーフケが見える。

 とりあえず洗面所に直行して生水を飲んだ。

 部屋に戻ってがらがらと、容赦なく窓を開け放つと、ううう、と言いながらそれぞれが目を覚まし始める。

 リンタロは目をつぶったまま匍匐前進し、部屋の隅に落ちていたペットボトルの紅茶を拾って飲んで、また突っ伏してしまった。
 フキが起き上がり、腫れた目でよたよた周囲を見回している。
 ピーフケもケンズもそれぞれに、あああ、と欠伸をしながら現実に復帰して、水やらボトル飲料やらを口にしている。
 しばらく誰も喋らずに、だるい姿勢のままじっと見つめ合っていた。

 馬鹿者どもが夢のあと。

 昨日の晩の乱痴気騒ぎは、なにも思い出せないほうがたぶん幸せだ。

 全員でひたすら黙って水を飲み、時にピタパンをかじる。修行のように座禅して薄目を開けて。

 さあ、なにをどうしよう。と、むれた髪の毛を引っかきまわしていたら、フキが突然うう、と言って一直線ににじり寄ってきた。
 くっつくように座し、オレの脚を凝視する。指さす。
 なんだ? と指の先をたどると軍隊パンツの左腿あたり。オレはそのポケットに手を突っ込んだ。
 引っ張り出した携帯電話は、ひぽひぽひぽと液晶画面を点滅させて、無音で着信を表現していた。

 なんで鳴ってない携帯の着信がわかるんだ。

 オレは不気味なフキを一応じろんと見た。魚みたいな無表情でちかちかする電話を眺めているフキ。もういい。もう気にしない。透視能力があったって驚かない。フキ本人が、直接に電波を受信したって驚かない。

 電話はいっちゃんからだった。

「やあ、おはよう。調べてみたら、なかなか面白いことがわかったよ」

 こっちも面白いけどな、と応えてケンズを見た。ぼわぼわと緊張し始めて、やたら耳をそばだてている。ピーフケたちも目が覚めたのか、腰を浮かせてオレを見ている。
 気にすんな、いっちゃんだ、と、オレはジェスチャーで伝えた。頭に一本指でツノを作るのが、オレたちの間でのいっちゃんのサイン。
 よけいに慌てふためく同居人は放っておいて、会話に集中する。

「気にかかることがあって、フキの正体につながりそうなことを調べてみた。……まいったな、なかなかでっかいヤマにぶつかったよ……これから、話しに行っても構わない? 今、家にいるの?」

「ん、家。えーと、オレはいいけど、ちょっと待って」

 送話口を指でふさいで、浮き足立った連中を振り返る。
「なあ、これからいっちゃんが来るって。フキのことででかいヤマに当たったって言ってるんだけど、おまえらどうする? 逃げとく? ケンズさん話してくれたこと、伏せといたほうがいいか?」

 断固として逃げる、俺、学校行ってないしな、と即答したのはリンタロで、ピーフケはもごもご迷ってから、壱子センセイなら俺、ちゃんと言ってぜんぶ相談したほうがいいと思う、と言った。
 気の毒なケンズは再びおたおたと困り、俺は帰るわ、喋ったこと誰にも言わないでくれよ、と言いながら立ち上がる。
「じゃ、リンタロとケンズさんはすばやく逃げろ。オレとピーフケは残るから」
 そう言って、親指をずらし、もしもしぃ、と発声する。

「あー、いっちゃん? オレは話、訊きたいよ。ピーフケもいるよ。何時ごろ来るの?」

「じつは今、家の前にいる」

 がらりと引き戸の開く音。

 後ろめたい汗に額を濡らしたリンタロとケンズが、玄関口でいっちゃんを出迎える格好になった。



 はいはいはいはい、みんな集まりましょうねぇ、と、いっちゃんはリンタロとケンズの首っ玉をハグしたまま奥に連れ戻す。
 細くてもばんばんに力が満ちあふれた上腕筋と、なかなか迫力のある盛り上がりを見せるおっぱいにねじ伏せられて、二人はうぐぐぐ、と呻きながらも少し幸せそうに連行される。ぼろソファ周辺に逆戻り。

「ん、この子は誰だ」
 いっちゃんは初めて気づいたようにケンズを見る。

「俺のバイトの、先輩っす。遊びに来ただけなんす。あの、関係ないっす。ケンズさんは無関係っす。だから……」
 けなげなピーフケが必死に言う。

 聞いていないようないっちゃんは部屋を見回し、窓をさらに全開にしてから廊下の換気扇を回す。熱い空気がどしどし入ってくるが、それでもやむないのだろう。五人の野郎が一晩じゅう酒盛りをした部屋。おっそろしく匂うにきまっている。こもった煙がしゅるしゅるとたなびいて外に逃げていく。

 しかるべき換気処置を行なったいっちゃんはにこにこと、ケンズの目の前に正座した。
「そうか。ピーフケの先輩なの。ケンズくん、どうも世話になってます」三つ指突いてしおしおとお辞儀をする。ケンズがつられて大きく頭を下げている。

「“プラクティカ・デリバリー”のアルバイトかな」

 オレ以外のすべてが一気に固まった。
 ケンズ、は敬礼のまま硬直し、ピーフケとリンタロが口を開けた化石になる。それだけなら驚かない。言ったいっちゃん本人が表情をフリーズさせていた。
 フキが立ち上がりかけて、石像になっていた。

 動けるオレだけが、下手な劇の中の黒子のように手足をもたもたさせ、みんなの顔を順番に眺め渡した。

 なんだよ、これ。意味がわかんねぇ。プラクティカって何だ? オレ以外の全員が、それに反応してるのか?

 ひとり蚊帳の外なオレは、とりあえずいっちゃんを揺すぶった。なんで発言した本人が硬直してんだよ。

「ああ、ごめん。大当たりだったんで、言ったあたしが驚いたよ」
 しみじみケンズのつむじを眺めながら答える。

「びっくりさせて悪かった。あたしはとりあえず、味方のつもり。ケンズ君は、今会ったばかりだから信用できないかもしれないけれど……ためしに話だけ聞いてもらえないかなぁ」

 ケンズは黙ったまま、床にこぼれたビールの染みを見つめている。

 ピーフケが不自然に咳ばらいした。見ると、浅黒い頬が元気な子供みたいに赤くほてっている。めずらしい。

「あのさ、なんか、壱子センセイは信用できるぜ。俺、その、うまく言えねえけど」
 語尾をにごして下を向いてしまった。

「いっちゃん」

 オレはトンボ柄のキャミソールを着た背中に両手を突きたて、さらにのしのしと揺さぶる。落ち着き払った顎のラインが、がくがく馬鹿みたいに揺れていい気味だ。
 ああもう、トビオはうるさいなぁ、なんだ、と怒ってふり向く顔に言ってやる。

「腹へった。朝ごはん食いたい」

 野郎ども全員が深くうなずいて同意する。



 ドーナツ・ショップの窓際の席にぞろぞろと陣取り、オレたちはコーヒー付きの朝飯にありついた。

 二日連続で食事をおごるはめになったいっちゃんがげんなりして、やたら煙草ばかりふかしている。ありがとうオレの・オレたちの頼もしい壱子姉ちゃん。ボランティアみたいな星占いの仕事じゃ、それほど稼ぎがないのはよーくわかってるよ。フキ、ドーナツ十個目か。どんどん食べなさい。

 ドーナツで腹を満たしたオレたちが吐息をつき、必要最低限の人間性を取り戻したことを見て取って、いっちゃんがしずかに話し出す。

「ケンズ君が驚くといけないから最初に言っておくけど、あたしは以前、エピスコパシーの保健福祉課に勤めていた。ずっと、被虐待児童のケアの仕事をしていた」
 クリアだけど周囲に響かない声で言う。

「だけど、辞めた。エピスコのやっていることがお体裁だけで、現実の子供たちや苦しんでる人々には、何の役にもたっていないことがよくわかったからだ」

 なんだ、それ、どういうことだよ、とオレは口を出してしまう。

 いっちゃんは少し苦しげに微笑んだ。
「あのね、説明しておくよ。エピスコがどんなに階級社会かっていうことを」

 いっちゃんはウエストバッグからペンを出し、テーブルにあった紙ナプキンに三角形を描いた。横棒を引いて、五段のピラミッドにする。

「一番下が、ニオファイトと呼ばれる見習い職員だ。みっちり使い走りをやらされる。
 その上が、ジェレーターというヒラの職員。どんな仕事も文句言わずに、とにかく全力で尽くすことを要求される。
 その上がセオリカス。係長みたいなものだが、仕事以上にハードな研修が課せられる。担当したセクションについてのハイエンドな専門知識が必要だし、自分で研究も進めなきゃならない。
 さらに上には、プラクティカスという役職がある」

 リンタロが、あれっ、と呟いてピーフケと顔を見合わせた。ケンズも曇ったサングラスの奥の目を精いっぱい見開く。プラクティカ。さっき聞いたような。

 いっちゃんはうなずいて話を続ける。

「この階級は、ようやく実践的な権力を持てる段階だ。セオリカスの研究やジェレーターの活動をもとに、その課のプロジェクトを組み立てていく。課長のような、そのセクションのボスだと言ってもいいだろう。……けれど、決定権はさらに上の階級にあるんだ」
 一息ついて水を飲んだ。からからと溶けかけた氷が鳴る。くい、と動く細い喉。

「てっぺんには、フィロソファスというお偉いさんがひかえている。プラクティカスの判断と計画を審議して、実行に移すかどうかを決めるんだ」

 苦くねじれた笑いを唇にのぼせる。
「……いつもそこで、おかしな決定になるんだよ。たいてい、良かれと思われる案は却下される。まるで方針の違う命令がいきなり下りてきたりする。理不尽だ。ものすごくね」

 オレは洗髪しそこねた痒い頭をがりがり引っかいて、硬いスツールの上でぐねぐね体を揺らす。なんだかぴんとこない話だ。

「それってさ、フィロソファスとかいうのがぜんぜん無能で、課の仕事をぜんぶ台無しにしてるってこと?」

 いっちゃんは不思議な目でオレをじっと見た。テーブルの上のグラスやプレートがかたかた鳴る。ピーフケが貧乏ゆすりをしているのだ。

「フィロソファスの役に就いてる人たちは、あたしが見るかぎり気のいいおじさんだったり、賢いおばさんだったりするよ。……どうも、本当の最終決定権は、さらにその上にあるんじゃないか、っていう疑いが、エピスコの中でもかなり広まっていた」

「なにそれ?」オレはプレートの端にくっついたチョコレートを指ですくってなめる。プラスチックみたいな味。まわりくどい話。

「エピスコの上に、もっとリアルな実権を持っている組織があるらしいんだ。……エピスコがどんなに活動したり、研究を進めて役立てようとしても、その上の階級が反対すれば握りつぶされてしまう。エピスコなんて、もっと大きな権力のハリボテにしか過ぎないんだよ」

 エピスコがハリボテ。

 うまく理解できない話に首をひねって一同を見回すと、
 フキが顔を上げて、いっちゃんをしゃきんと見すえていた。



「その、上の権力ってなんなんですか? 俺のいるプラクティカの仕事って、エピスコに関係あるんですか?」

 ケンズがしっかりした声で質問した。いっちゃんが目の端で微笑む。知的好奇心あふれる若者は大好きなのだ。どういうわけかピーフケの貧乏ゆすりがいっそうひどくなる。

「あたしはセオリカスの階級どまりだったけれど、上司が疑問を持っていろいろ調べた。……結果、エピスコの上に、“アデプタス”と暗に呼ばれる組織があることを突き止めたんだ。やっぱりエピスコは傀儡に過ぎなかったの。
 上司は、あたしより先に仕事を辞めたよ。同じように気づいて離脱したプラクティカス階級のメンバーと組んで、反・エピスコの組織活動を始めた。
 声高に反対を叫んだり、過激な運動をするわけじゃない。ただ、エピスコがやらないことをやるだけだ。内部をよく知っている人間ばかりだから、どんな仕事がないがしろにされているのか、よくわかるんだ。
 ケンズ君がバイトしているプラクティカ・デリバリーも、その上司が始めた活動のうちのひとつなんだよ」

 へえええ、と、さも感心したような声をはり上げてオレはスツールをくるりと回し、カウンターの店員に手を挙げる。

 ブルーベリー・クランチもう一つください。



「きのう、トビオにフキのことを相談されて、あたしはまず元の上司に連絡を取ってみた。ハイパーレクシアの白人男性なんて、この国じゃずいぶん目立つ存在だ。なにかの問題や事件に絡んでいるとしたら、彼らが知らないはずはないと思ったんだよ。……上司はひどく慌てた。案の定知っているようだった。フキの人相風体や様子を確かめ、あたしの身内と一緒に行動してると聞くと、予定外だと言って狼狽した」

 オレは身内ですか、いっちゃん。

「どういうことかと問い詰めると、事情があって、自分がじかにデリバリー・システムを使い、彼をその長男のところに送り届けたはずだと言う。……ミスがあったんだね。そこで、プラクティカ・デリバリーのことを詳しく聞いた」

 隣に座っているリンタロをじろりと見る。
「社会復帰した遺棄児童や、外国人、失業者を雇って運営しているシステムだと言うから、一応気になったの。学校に行かず、いつもわりのいいバイトばかり探しているあんたたちのことだ。もしかしたら、と思って、メンバーのリストを極秘に送信してもらったら、まったく」

 ため息をつく。悪びれもしないリンタロが、うわー何で俺らがやってるってわかったのー、と軽々言う。

 いっちゃんは横向きざまリンタロの耳をぐいとつかみ、「身元をごまかすつもりだったら、もっと頭を使え」と鋭い声を吹きこんだ。「ジャン・ポール‐ヴェルサーチ・b、なんて名前の遺棄児童がいるか。バカモノ。だいたい、住所があたしの登記してるあの家そのままだ」

 耳を離し、ピーフケには少しだけ優しい視線を向ける。「まあ、ピーフケはもっと現実的な偽名だったけど。でも、鈴木ぴい助なんて名前の人間もいないと思う」

 赤黒く耳を染めてうつむくピーフケがちょっと気の毒だ。こいつは知り合ってから長い間、本当の名前を自分では言わなかった。昔飼っていた犬の名前で呼んでくれ、と言うんだ。本名は桐山ヨーナタン‐オゴコネロ・アジフ・ゾンターク。ややこしい出自を物語る名前のせいで、どれほどきつい思いをしてきたのやら。

「ともかく、手違いがあったらしい。フキは上司が抱えているかなり重要なプロジェクトの、鍵となるような存在らしい。……上司は今日にでも、すぐに会いたいと言っている。フキはどう思う」

 フキはつるつる長い木目のテーブルに腕を乗せ、何の表情も読み取れない顔できっちりいっちゃんを見ていた。ぱか、と口を開く。そのまま数秒が経過して、ぱく、と口を閉じる。

「トビオにくっついてしか行動しないのはわかっている」いっちゃんはオレを見る。「トビオ……どう、フキを連れてあたしの元の上司に会ってみない?」

 やだ、とオレは簡単に言ってブルーベリー・クランチ・ドーナツをかじった。エピスコの管理職だったなんていう、難しそうな日本人には会いたくない。フキは勝手にオレをつけ回してるんであって、オレのせいじゃない。いっちゃんが何とかして一人で連れて行ったらいいじゃないか。

「あの、その上司の人って、もしかして俺が製薬工場で会った、あの人ですか」
 ケンズの真摯な訊きかたに、いっちゃんが顔色を変える。

「ケンズ君はデリバリーを委任した人に会ったの。どんな人だった」

「洒落っぽい服装の、年はよくわからなくて色白の、髪が長めで、頭の良さそうな、目がずっと笑ってるみたいな人でした……ふわふわしたような優しい口をきくんです」

「それ、たぶん上司のオハラ本人だわ」
 いっちゃんが言って考えこむ。

「けっこう世間に顔が知れているだろうに……本人がそこまでするとは、本当にフキの件は重要なんだろうな」

「どっかで見た顔だって思ったんです。映画撮影の現場にバイトで行った時、監督と話してた人に似てるような気がして」
 いっちゃんはケンズにうなずいた。
「たぶん同一人物。上司はおもて向き、エピスコを辞めてからは物書きで身を立てていて、それなりに有名になっている。医療問題を取材したルポルタージュが去年、映画化されたし。……小原テシュノという筆名で、積極的に小説に取り組んでいるよ」

 オレはかじっていたドーナツをフキの口に押しこんで、素早くぐんと腕を上げた。
「あ、オレオレ! オレ行きたい! フキ連れていっちゃんの上司のところ行きたくなった! 突如としてものすごく!」

 あんな面白い小説を書くヤツの顔なら見てみたいよ。

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