V.
・・・

その日は早々に店から退散することになった。

 コウさんに早出して交代してもらい、オレはフキ連れて直帰。面倒はどこでもだれでもノーサンキュー、小デブの事態が収束するまではある意味ささやかに自宅謹慎。

「トビちゃん、気をつけて行ケ」
 ステヴァンが熟れたスモモと鎮痛薬と消毒剤とお裁縫セットを渡してくれた。いいヤツ。でもお裁縫セットはいらない。

「ややこしい真似すんなよ。さっきのバカの仲間に襲われたら、店の名前を出さずにだまって死ねよ」

 鼻血を再出血させてやろうかと思ったが、ジェニーはそう言いながらも梅紫蘇おにぎりをぐんぐん握ってまかない飯がわりに持たせてくれた。案外いいヤツなのかもしれない。



 スモモをかじりながらてくてくと帰る。

 しめってうす冷たい夜気に、扇情的なスパイスのにおいが入り混じる飲食店ゾーンを抜け、世界的に有名なアジアの歓楽街を抜けていく。電柱のかげにセクシーな立ちんぼさん。

 ほんの一本だけ道を入れば、外国マフィアのみなさんがたたずむ通りがあったり、ジャパンヤクザさんの仕切る高級マンションが立ち並んでいたり、三代前からここに暮らすごく当たりまえの市民の住宅がひしめき建っていたりする。まるでテーマパーク。カクテルのような街。

 エピスコ保安課の出張所が、これだけうるさく乱立している街もないだろう。ふつうの出張所には手続きや相談や登録の窓口がある。この街のそこここにあるのは、不法滞在外国人を取りしまるためのポリボックス。密告と強制捜査のために特化された施設。

 オレが住む家のあたりは、街の専門学校や飲食店にかよう留学生の多い、比較的のどかな住宅地だった。踏み入れると足がしんと静か。早々と咲き初めたオシロイバナのにおい。どこからかちいさくコーランを唱える声。でっかい用心棒をつき従えた、ちっちゃい用心棒のオレは、裸足の感触をたしかめながら歩く。

 時代錯誤的な木造の、ななめに崩れかけたフォルムの住み家が見えてくるころ、フキの様子がまたおかしくなってきた。さっきの大汗発作とはまたちがう。スモモの種を酸っぱそうにかじっていたかと思うとぺっと吐き捨て、顔をゆがめてうう、とうなった。腹のあたりを押さえる。どうした? と訊いても眉根をよせるだけ。心外そうな顔をしながら、ずくずくと足を速める。

 家に着くと、靴のまま走りこんですぐ左手にあるトイレに突入していった。お便所。そう言えばうすぼんやりと、最初の晩にトイレの場所を教えたような気がする。酔っぱらって並んでツインフォーメーションでおしっこをしたような。もしかして、あれ以来フキってトイレ行っていないのか?

 ずっとオレにくっついてたわけだし、粗相もしていないので、オレが寝ているあいだにこっそり排泄していたのではないかぎり、ずっと生理的欲求を抑えていたことになる。どうしてなんだ。

 がまんしている様子もなかった。

 ぼやんと灯りのともる個室から、ずいぶん景気のいい音が響いてくる。数日ぶんまとめて排出しているのかもしれない。

 どういう生き物なんだ、とオレはあらためて首を振る。他者への無関心。オレへのなつき具合。おそるべき闘争能力。生理的欲求の抑圧。あの箱庭。オウム返しの言葉。そんな人間がいるもんか。

 フキっていったい何者なんだ?

 ぼんやり考えていたら、からからとペーパーホルダーが鳴り、ざああと水洗を流す音がして、ドアが開いてフキが晴れやかな顔で出てきた。トイレットトレーニングは身についているらしい。なによりだ。

 一階はまたしても無音。無人。ピーフケとリンタロは不法デリバリーのバイトに出かけているらしい。

 ダイレクトに体重の軽くなったようなフキを従えて二階にもどり、ふう、と青ベッドにひっくり返る。切れた左腰がつれて、腹全体がずぎんと脈うつ。感染とかしないように、消毒したほうがいいんだろうなあ。

 ステヴァンにもらった消毒剤を探してポケットをさぐると、つねに収めっぱなしの携帯がごろんと出てきた。アンテナの付け根がひよひよとピンクに点滅している。着信ってやつか。めんどうだからいつも音は切りっぱなし。

 液晶を確認すると、着信が数件。さらにオハナさんからメールが届いていた。オレ、アドレス教えたのか。いつ? 

 フォルダを開く。

『トビちゃん、電話しても出ないから、メールするわ。連絡ちょうだい。箱詰めで来た大きいコ、どうやらマナビちゃんたちに関係のあるヒトみたい。相談したいわ、連絡してね』

 思わずフキを見る。大男はごみだらけの床にすかんと座り、青い目をきょとんと持ち上げてオレのほうを見つめていた。



 電話をしたら、一時間もしないうちにオハナ姐さんが家までやってきた。今日は緑色の柔らかそうなドレス。量感たっぷり。

 おそろしく可愛いチビの手を引いていた。黒いつややかな髪を肩口まで伸ばした、ものすごく色の白い女の子。幼稚園児ぐらいか。まつ毛でけむるような目をオレのほうに上げて、にいいぃっ、とサービス満点の笑顔を見せる。なんだこの美少女は。

「ああ、トビちゃん、もうなんだか大変よ」
 言いながら姐さんは、玄関でチビの靴を脱がせようとする。脱ぎゃしない。たかたかとその場かけあしをして姐さんの手を拒み、ながらオレに笑顔を向けつづける女の子。愛嬌どっさりのそばかす。

「靴、脱がせなくていいよ。どうせオレは中でも外でも裸足だし、フキは家の中でも靴はいてるから」

「フキって?」
 オハナさんはそう訊ね、自分もハイヒールのままチビを連れて上がりこんできた。わりきりが早い。

 壁に向かってカレンダーをじろじろ読んでいる、謎めいた大男を指す。「名前ないと不便だから、てきとうにフキって呼んでるよ」

 姐さんは子供の手を引いてまっすぐ部屋に入っていく。ピーフケ、リンタロ、不在の間に土足部屋にしてごめん。

 オハナさんは肩にかけたでかいバッグを開いた。紙おむつの下から発泡ワインのびんを引っぱり出し、陣中見舞いと言って床にどんと置く。陽気なお酒、ランブルスコ。オレみたいなガキに酒類与えるの、まるで躊躇しないこまった姐さん。

「テルミ君、よーく見るのよ。いいわね?」
 オハナ姐さんはチビを抱きあげて、フキの顔が見えるように高々と持ちあげる。

「さあ見ましょう」はっきりとした声で言う。
「さあ見ましょう」チビもオウム返しに答える。

 せっかくの美貌が台無しな、ねまきみたいな変なジャージを着た子供は、その視線でフキが溶けるんじゃないかというような集中力で、みりみりと見つめた。フキもなんとなく気になるのか、子供のほうをちらちら見ている。子供はぶつぶつ言いはじめる。数字、の羅列のようなものを唱えている。デジタルなお経みたい。

 ばん、といきなり小さな体が跳ねあがった。子犬がおもちゃのボールを見せられたような喜びようだ。オハナさんに抱かれていることなど委細かまわず、両手両足を振りまわしてきゃあきゃあと笑う。

 フキも雲が晴れた満月のようにみるみる顔を開き、びかびかに光った視線で子供をきっちり捕捉する。手をたたく。音頭のように打ち鳴らす。どうにもこうにも喜んでいる。はた目にも瞭然。

 オハナ姐さんはほい、という感じでチビをフキの目の前におろした。フキがどすどすと飛びはねる。チビもぽんぽん黙って飛びはねる。壁に立てかけたさすまたが倒れる。

 はあん、とため息をついて腰に手を当て、オハナさんはオレを振りかえった。オレ切られた傷のにぶい痛みも忘れて口あんぐり。

「やっぱり、どうやら、親子らしいわ」

 はねているフキたちを指してそう言い、胸もとから魔法のように煙草を出して口にくわえた。



 そのまま一階の部屋を拝借して、同居人たちのぼろソファにかけて話を聞いた。

 フキと子どもは二人で向きあったまま、ぴょんぴょん飛びはね続けている。ずっと。

 家が震動する。床をぶち抜くのも時間の問題だろう。オレはピーフケとリンタロの大事なコレクションを安全そうな場所に移動させてやった。

「男の子なのか? あれ?」
 オレはとりあえず訊いた。なにもかもわからない時は、頭に入りそうな部分からちょっとずつ情報を手渡してもらうのがいい。

「そうなの。髪をさらさら振るのが好きらしくて、切らせてくれないのよ。あの長髪じゃ女の子に見えるわね」

「フキと、その消えた姉妹のどっちだかの、間にできた子供、ってこと?」

 オハナ姐さんは難しい眉毛をしてうなずいて、紫煙を盛大に吹く。「マナビちゃん、の方ね。テルミ君はずいぶん色が白い子だけれど、ハーフだとは意外だったわ。お尻に蒙古班がないのがふしぎだと思っていたけれど」
 蒙古斑。東洋人の子供のけつっぺたにある、あの青いアザか。

「で、なんでそれがわかったの? フキがあの子の親、なこととか?」

「それがねえ」
 姐さんはまた煙草を大きくふかす。大きな体を落ちつかせようとほね折ってるみたいだった。オレも落ちつかない。正体不明の親子が真剣な顔をしてぴょんぴょん飛びはねている部屋では。

 ついさっきまで、オレのうしろをヒナ鳥みたいに追いまわしていたフキが、いきなり人の親になって、その子供と二人の謎の世界に入ってしまっている。なんではねるんだ。意味不明。キミたち、変だよ。フキはもうオレのことはどうでもいいのか。

 微妙にくやしいのが、自分でも不可解。

「トビちゃんにあのヒトを預けてから、あたしもけっこう真剣に姉妹のゆくえを探したのよ。履歴書、なんてうそばかりだとは思ったけれど、いちおう手がかりはぜんぶ当たってみたわ」
 落ちていたジャムの空き瓶の中に煙草をもみ消し、ふうう、と厚いため息を吐く。

「職歴は全部でたらめだったけれど、二人のかよった学校はどうやら正直に書いてあったの。それで、エピスコの登録情報を検索するわけにはいかないから、実際にその学校までいちいち足を運んだのよ」太めの脚を撫でる。「昨日と今日とで、靴が一足だめになっちゃったわ。ずいぶん歩いたから。マナビちゃんの出身高校で、手がかりが見つかったの」

 フキたちは尽きぬ熱意で跳躍しつづけている。

「マナビちゃんの同級生の一人が、そこで先生になっていたのよ。わりと最近まで、連絡を取りあっていたんですって。それで本当の経歴を訊くことができたの」

 フキよ、うるさい。とぶの止めてくれたまえ。いちおう言ってみたが、まるで聞こえてない。

「びっくりしたわ。マナビちゃんて、看護婦さんをやっていたのね。エピスコの目を逃れた非合法の病院よ。そこで知りあった白人男性と、事実婚をして子供を生んだの。その病院の産婦人科に記録があったわ」

 事実婚。婚姻登録課に届けを出さずに、自由意志で結婚式をして家庭をなすアレか。不法行為ではないけれど、エピスコにはものすごく睨まれる。チャレンジャーだったみたいだな、マナビちゃん。

 疲れていろっぽい姐さんは、無限にはね続けるらしき気がまえのフキとチビを見る。

「父親は中欧出身の、身長百九十センチ、アッシュブロンドにブルーアイズの剛健な白人男性。子供は出生時の体重二千九百グラムの男児。マナビちゃんの同級生の話によると、今から数ヶ月前に、夫は謎の失踪。マナビちゃんは妹のもとに身をよせて、仕事を変えながら転々としているとか。ピンと来たわ。その子供がテルミ君で、あの箱詰めの大男さんがその父親かもしれないってね」

 オレをまっすぐに見る。
「この考え、まちがってると思う?」

 オレは飛びはねる二人を見て肩をすくめる。
「大あたりだろう。あの様子だ、どう見ても親子か何かだよ。その確認のためにあのチビ連れてきたんだろ? でも、フキとあの子はなんなんだ? あんなに、ばんばんはねるのはどこの国の習慣なんだ? そのマナビとかいう人も、はねてたのか?」

「マナビちゃんもアソビちゃんもはねないわよ」オハナ姐さんはだるそうに言う。
「でもね、言ってたことはおぼえてる。テルミはとくべつな力を持った子供だって。父親から受けついだ、特殊な力でだいじな情報を保管してる。キーがあれば、それを引き出すことができるけれど、今はキーのほうが行方不明だって」

 胸もとからするりと引き抜いた煙草を指さきでぷらぷらと揺らし、姐さんは首を振る。
「どういうことなのかしら?」

 オレにわかるわけないじゃないか。



 拍子抜けするほどあっさりとテルミは帰って行った。オハナさんがフキとチビの真ん中あたりに立ち、「帰ります」と宣言しただけで。

「かえります」ぴょんぴょんを止めてテルミが言った。
「かえります」どすどすを止めてフキも言った。

 去りぎわ、テルミは部屋の環状線式ケモノ道をたああ、と走り、飛行機のように両手をひろげて一周した。

 帰ります、とまた姐さんに言われて、玄関に飛んでいく。靴のまま下りる。

 オハナさんと手をつなぎ、またオレに振りむいてにいいぃ、と花咲ける全開の笑顔。これじゃだれでもイチコロだ。テルミは早口に言う。

「T・S・V・C・0・1・B・B・R、0・2・D・S・L、0・3・E・G・R」

 ティ・エッ・ヴイ・スィイ・ズェィロゥ、と、やたら完璧な発音だった。抑揚まるでなし。音声翻訳機の声にそっくりだ。

「トビちゃん、じゃあね。また連絡するわ」オハナ姐さんが手を振り、テルミは「トビチャンジャネマタエンクスウワ」とくり返す。

 余韻もなく夜の中に去っていく。

 オレは薄目と薄口を開けてそのうしろ姿を玄関で見送った。
 当たりまえのように、フキがオレの横にぴったり立っている。



 この国がどうにもおかしくなり始めたのは、ゼロ年代の中盤あたりからだと聞いている。

 いじめっ子みたいなでかい国が他国に言いがかりをつけ、一方的な戦争をおっぱじめた。オレの国は親分国の尻馬に乗った。すくなくとも、ほかの国からそう見られてもしかたのない参戦をした。結果、あちこちから尋常じゃないうらみを買うはめになった。

 ある決定的な日。国内一でかいテーマパークが燃えた。テロだ。人気のあるアトラクション四ヶ所が同時に、多数の人体をばらまいて爆発したのだ。かわいい動物の着ぐるみが燃えながら走りまわった。夢の楽園が地獄絵巻。国民は一瞬沈黙し、次いでパニック。

 真夏。ハンバーガー・チェーンのドリンクに、ストリキニーネが混入した。ぐいっとストローを吸いあげた人々は糸のからんだマリオネットになった。背骨が折れるほどにのけ反って硬直し、血泡で呼吸ができないままにばたばたと死んでいった。のどかな日常を断ち切られた善男善女は、目玉を三角にして怒りくるった。

 犯人はいつも外国人。よく知らない、興味もない国のあやしい外国人。知りたくもない気持ちは棚にあげて、国民総ざらえで排斥運動。

 それでも大国についていけば護ってもらえると思うタイプの人間と、べつの政治を求めるタイプの人間とが衝突した。だけど一番多かったのは、個人として道を探す人間。パーソナルな外交と思考とで生きのびる道を探す連中。大荒れの十年代初頭。

 オレはその時代に生まれた。

 ひとつ大事なことをつけ加えれば、当時すでに経済的なバランスはばっちり破綻していた。貧富の差ありまくりの社会。個人で動ける人間は、自力で世界を相手に生きていける成功者だ。各国語をあやつり文化に通じ、自分自身から生み出すものを金銭と代替して生きていけるヤツ。才能があって目はしの利く人間。

 そうでないヤツ、ありものの社会や仕事や権力のどこに身を置こうと悩むヤツは、システムへの依存がないと生きられない旧タイプの人類だったってことだ。

 生きづらい生物は攻撃性を身につける。暴力はいつも上から下に向かっていく。

 鬱憤のやり場のない者たちは、自分に隷属する生き物を攻撃することで生をしのいだ。ダメオヤジは部下をいじめ、弱者なおっさんは妻を責め、妻はガキを殴り、ガキは下のチビをつるし上げ、チビは動物を殺し、果てはチビやガキどうしで殺し合いはじめる。オレの人生の初期スタンダード構造。

 そんな社会にしゅるしゅると現れ、いつのまにか国を先導するようになっていたのが「監督省」、いわゆるところのエピスコパシーだ。

 すでに既存政府があらゆる力を失いつつあった時期だ。不法外国人の排除、リサイクル、治安、文化の効率的循環を唱えるエピスコは、国政を監査し、意見し、ばんばん動いてどんどん仕組みを変えた。

 理想をなくして暴走し、あるいは停滞していたこの国は、よたよたと歩調を合わせ、エピスコを信奉、礼賛、絶賛リスペクト。

 一時的に国内は、美しく心やすらかなシステムを取り戻したかに見えた。

 復活した帰属意識と国民のプライド。

 しかし。

 社会は育ち変化するものだ。

 統制の中で、ひずみと破綻が生じはじめている。皆がそれを肌身に感じながら、その日を穏便に生きるために、見て見ぬふりという処世術を使いだしている。

 ながながと受け売りを話した。全部いっちゃんの言っていたことだ。オレに社会のことなんかわかるはずがない。

 だけど、オレにもわかることはある。

 クリーンにキメたエピスコ支配社会の中に、オレみたいな行き場のないガキがいるっていうこと。

 少子化対策と銘打った第一子保護案のために、レイプされても貧困でも堕胎ができず、生み捨てられゴミのように街に溢れるガキがどっさりいるということ。

 少しだけちがう肌の色のために人民と認められず、最底辺層の暮らしを余儀なくされる人がいるということ。

 息苦しく、無茶のある社会だ。

 オレはそういう時代に生きている。



 部屋のすみに避難させた、ピーフケとリンタロのお宝をもとの場所に戻す。案外こまめなオレ。神経がびしびし冴えた超水星人間。
 ピーフケのビデオディスクを三巻まとめてつかみ上げ、こまめなオレは気づいてしまう。

 ビデオの背表紙、タイトルの上にナンバリングされたひと続きの文字。

「T、S、V……」

 首をひねる。さっきテルミが帰りぎわに告げていった、よくわからないアルファベットと似ているような気がする。

「さっき、テルミはなんて言ってたっけ」
 だれに言うともなくつぶやいた。

 だしぬけに横でフキがばん、と直立不動になる。がたんと床で靴が鳴り、オレはびびった。

 ちゃっ、と音がするぐらい勢いよく口を開き、フキは息を吸いこんでぱすぱすと発語する。

「TSVC01BBR02DSL03EGR」

 言いきってぱつっと口を閉じる。音声翻訳機の口調。さっきテルミがぷつぷつ発音したことばとそっくり。

 オレは手につかんだままのビデオのラベルを確認した。テリー・サザーン・ビデオ・コレクション、T・S・V・C。0‐1、B・B・R。0‐2、D・S・L。0‐3……。

 頭がいたくなってきて、ぼろソファにどさんと座る。

 このゴミだらけの部屋の中、たまたまオレが避難させて並べておいた物品、の、近づいて見なきゃ読めないぐらいの分類番号をテルミは読みとった、ということか? ぶーん、と一瞬その前を走って通りすぎただけで。ならべて置いてあるその順番どおりに。がらくたの山、ほかにアルファベットや数字が書いてあるものは無限に散乱している。オレが置いた物だけ、見たのか。なんで?

 で、なんでフキもおなじ文字列を復唱できるんだ。フキも見たのか。そこに書いてある字だけ、復唱すべきものとして? それともテルミが言ったことをまるまるインプットした? なんで?

 まったくわけがわからない。

 もういっぺん訊いてみた。ビデオを背後に隠し、そのラベルが絶対に見えないようにして。

「フキ。テルミはなんて言った?」

「TSVC01BBR02DSL03EGR」
 オレの額あたりを見つめたまま即答。目がちょっと横にぶれる。まるで空中にプリントした文字を読んでいるみたいだ。

 オレの問いかけにフキが正しく答えた。記号の羅列にすぎないような答えだが。

 なんなんだ、このヒトは。そして、テルミというガキは。

 のろのろとお宝をもとの場所に戻し、ながらオレは考えていた。オハナ姐さんは、マナビちゃんの勤めていた病院に再訪して、もっと旦那や子供のことを調べてみると言っていた。

 オレもぼけっとしていたくない気分。

 謎だらけの大男を従え、とすとすと階段を上がって二階の部屋にもどる。ごみをつま先でより分けて進み、青ベッドにどむ、と座る。腹の傷一帯が熱を持ってうずく。 

 すさまじい情報が、フキの背後でぐるぐる踊っているような気がする。オレは知りたい。

 飯にも得にもならなくても、オレはその情報が知りたいんだ。



 いっちゃんに電話をしてジェントルマンらしくアポを取ったら、翌日の朝十時に事務所まできりきり出頭せよ、と言われた。信じられない。十時? 寝る時間じゃないか!

「あほ」抗弁したオレに、いっちゃんは簡単に言う。「そんな生活してると骨がねじれるぞ。しかたないなぁ、ちゃんと寝て起きて、一時までにはおいで。フキも連れて。天気予報じゃ小雨だけど、あたしの占断じゃ百パーセントの快晴だよ。気分いい散歩ができる。たまには日差しを浴びてみなさい」

 ぶんぶん文句を言ったが無駄だった。明日一時、オレにとっては超早朝だが、一時にいっちゃんの事務所。アポなんか取るんじゃなかった。

「しかたねえ、明日は早く出かけるぞフキ」

 言ってオレは思いだす。先月手に入れたライムの残りが少しある。直売のルートで手に入れて、刻んで細かくして胃薬混ぜて固めて、五倍に増やして売りさばいた残りの一パケ。ささやかな儲けは飯と酒ですぐ消えた。水増し売りがバレて二度と同じルートで買えなさそうな、貴重な薬。ふつうに喰えばハイになって一晩中きんきん飛べる薬。口をついて調子のいい言葉が無限に出てくる薬理作用があるから、才能のないラッパーにはうれしい新進ドラッグ。

 このライムと、もひとつオレの薬箱に収まっている、感じのいいマイナー・トランキライザーを併せると、すてきな睡眠カクテルに変身するのだ。おもしろおかしくうねる景色を見ていつしか夢の中。寝覚めもいい。

 部屋の隅のコンセントボックスをごんごん蹴ると、ぱかっと外れて中の空洞が剥きだしになった。のど飴の入っていた小さな赤い缶がオレのピルボックス。取りだす。
 おっとり穏やかな気分をもたらす市販薬、ブロユリンのカプセルと、ちびたパケットに詰まったライムの錠剤を取り出した。フキも食うだろうか。

 と訊ねるひまもなく、オレの手からふっとライムが消えた。風速。手品みたいに素早くフキが腕を伸ばし、緑の錠剤だけをひったくったのだ。

 驚いて見あげると、フキは目の前にビニールのパケをかざし、中の粒々をすがめた視線で見つめていた。疑惑と不信の気配。

「おい、それはライムだ。薬だよ。こっちのカプセルと一緒に食うとよく眠れ……」

 フキは背を向けてずいずい歩いていく。はあ? と口を開けて見ていたらバスルームの扉を開き、薬のパケを引きちぎりながら中に入っていく。オレは飛びあがって後を追った。

 洗面台、排水溝。

 フキは貴重なライムの錠剤を、水増し前の高価な錠剤を、こんけんかんこんこん、と洗面台の中にばらまいている。

 ふざけんな、とオレはその手もとに飛びついた。容赦なく押しのけられる。

 むちゃくちゃ冷徹に、フキの片手が蛇口のレバーを押した。

 ざああああ。

 無慈悲な水流がいっそ爽やかに、ぐるぐる渦を巻いてライムを流し去る。あああああ! 叫んでオレは右手を伸ばしたが、どうしようもないフキがものすごい力でオレの体を遠ざける。

 あああああ。

 右回りの渦が白い泡をしゃらしゃら吹きあげて陶器の表面を洗い流し、ここここ、と余韻を残して下水に消失した。

「バカッ」オレはフキのみぞおちを思いきり狙って短いフックを叩きこんだ。
 むかつくほど丈夫そうな胴体がそれでもごぶんと震えて、オレの固めた拳を呑みこむ。腹筋がびくつき、フキが吐くような咳。あたりまえだ。オレはぶっ殺す所存。
 前かがみになったところに膝を蹴上げる。同じところにもう一発決まる。がら空きのこめかみに肘をぶち当てる。でかいフキがけっこう簡単に横に折れて壁に頭を打ちつけた。

「おまえ、おまえっ、なにを考えてんだよ、信じられねえ、ライムの錠剤だぞ、どっ、どうやってオレがっ、ヤバい目見て手に入れたと……」
 はあはあ醜く息をついてしまう。本気で怒っているからろくに言葉にならない。オレはごすごす周囲の壁をこぶしで叩いた。火を吐く目でにらみつける。

 フキはゆっくりと頭を上げながら、オレをじっと見ていた。目が合うと、のろのろと首を振る。眉をひそめて、表情みたいなものを作ってたしかに首を振る。

 なんなんだおまえは。オレはキレた自分を抑えられない。

 もう一度、ストレートに顔面にこぶしを叩きこんだ。ごすっと入る。入るが、フキが顔をきっちりななめに向けたので、頬のいちばん面積の広い部分にまともに当たる。くやしい、鼻を壊してやろうと思ったのに。歯を食いしばっていやがる。これじゃ自分から当たりに来たみたいだ。
 むこうずねを蹴上げると、これも体をひねって筋肉のみっしりした場所で受けられた。ばん、と小気味良い音。むかむかして裏拳で耳を打つ。これも顎で受けとめられる。

 それでも散々やっていたら、だんだんフキの顔やら体やらが変な色になってぶよぶよしてきた。かんべんしてやることにする。
 本気で打ちかかっても逃げず、やり返さず、ダメージの少ないところでいちいち律儀に受けているフキを見ていたら、なにか根源的なところで物事がどうでもよくなってきたのだ。

 すくなくとも、怒りは失せた。
 それでも荒い息をつきながら、オレはにらみ据えて低い声を出す。

「なんで、オレのライムを勝手に捨てた」

 汚い虹みたいな彩りの顔をオレに、もしかすると悲しそうなつもりの顔を向けて、またゆっくりと首を振る。

「そうかよ」
 オレは言って、文句のある足取りでバスルームを出た。
 部屋の床に落ちたままのピルボックスを拾う。ブロユリンのシート。

 のすのすとついて来たフキが、背後でじっと見ている気配がする。振りかえらず、マイナー・トランキライザーをぷちぷちと手にあけて、カプセルを六つごっくんと水無しで飲みこんだ。
 フキは黙っている。

「これで、眠れなかったらどうしてくれるんだ。明日は十二時過ぎには起きないと、いっちゃんところに行けないだろ。遅刻したら、おまえのせいだからな」
 振りかえると、ひどいリンチにあったような顔のフキがぼんやりと立っていた。ひどいリンチにあったのだ。オレによって。

 軍隊パンツのポケットから、ステヴァンにもらった痛み止めを取りだす。フキに放る。

「呑んどけば」
 オレはすたすたゴミを踏んで青ベッドに近づき、うつ伏せに体を投げだした。

 しばらくして、寝がえりのふりをしてフキをちらりと見ると、痛み止めを手に持ったまま床にぽつねんと座りこんでいた。

 くそ。眠れやしねえ。

 オレは跳ねるように起き、ようとしたが、全面的にからだがぼやーんとしていた。いちおう効く市販薬。とろとろ立って、そこらに落ちていたペーパータオルを引きちぎり、ふわふわしたままバスルームで水に濡らし、しぼって、フキのところに行ってへたりと座り、ぶくぶくに腫れた顔を冷やした、ような、気がする。

 夢中飛行。

 ガキを抱えるようにフキがオレを青ベッドに搬送する場面。そっと置かれて布団かけられた。なにかの幻覚だろうか。おやすみ、とばかりにぽんぽん毛布たくしこまれて。

 気やすめみたいな精神安定剤で、ライムもなしに、酒もなしにオレは勝手に睡眠直下。あばれたせいだろうか。くるんと無意識に巻きこまれて。

 眠ってしまったんだ。



 地震。

 また来た。ついに来た。

 オレが生まれる前年にこの都市をがすがすに揺さぶり、湾岸地区の地形を変えためんどうな天災。もっと内陸のほうにも、いずれ来るぞ来るぞと呪文のように唱えられ続けていた、大型の直下地震がついに来たのだ。このボロ家じゃ倒壊必至。

 深海を漂うような眠りのからだにヤベェ! と指令を出して、オレは必死で起きあがる。逃げよ迅速に。開かないまぶたを額と頬の筋肉でこじあけて、喝を入れるために自分の頬っぺたを平手でひっぱたく。

 目を開けると、視界全部が揺れていた。梱包材カーテンを通して強烈な真昼の光。ごたごたの床に埃のきらめく金色の光線。

 なにかおかしい。

 世界一の地震アイランドに生まれて十四年、オレにも経験値はある。肌身で感じとったヤバさの基準だ。
 地震の時、家はきしむ。きいきいぎしぎしごとがちゃどずばず、と物が鳴くのだ。
 それらしい音がしない。床のがらくたも倒れたり転がったりしていない。ベッドだけが景気よく揺れている。

 はあ? と腫れ気味の目を開いて見まわすと、横で床に膝をついたフキがごすごすと、両手で思いきりベッドを揺すぶっていた。

「おまえはいったいなにを……」枯れた声で言いかけて、ぎゃっと叫び声をあげそうになる。
 フキの顔は子どもの落書きだ。あらゆる色のクレヨンでむちゃくちゃに塗りたくったような肌。くずれた輪郭。右の眉あたりが腫れて目を圧迫し、髭の濃くなった顎は赤まだらにむくんでいる。

 ドッキリして一気に覚醒した。うわ、オレが殴ったんだっけ。

 オレが起きたのを見てとったフキは、う。とうなずいて揺すぶるのを止めた。

「なんだ、なんなんだ……」
 びびりながらも思いだして、軍隊パンツのポケットをさぐる。携帯。時間を見ると十二時をしばらく過ぎたところだった。

 オレはぼんやりフキを見た。

 フキは、親指を立てて自分の胸を突くような動作をし、「イチコ」と言った。

 ああ。そうだっけ。いっちゃんのところに行くんだっけ。こんな顔したフキ連れていったらなにを言われることやら。それ以前に道歩いてて怪しまれないか。ボコボコのガイジン、連れた裸足のガキ。職質されるとめんどうだな。いっそのこと、行くのやめるか。また寝るか。いや。でも。

 フキはオレを起こしたのか?

 明日は何時に起きなきゃ……ということを、言ったような気はする。昨晩。それにしても。

 オレはフキの腕を見た。あちこち黒アザ。内出血。腕時計なんかない。
 そしてこの部屋のどこにも、時計なんかない。

 釈然としない気持ちのままオレは青ベッドからおりた。



 予言された通りのピーカン、で、気温は三十度ちかくに上昇中。青葉のにおいの風がすわんと肌を吹きぬけていく、確かにめっぽう上天気。梅雨の中休み。

 こたこた足音を立ててついてくる、すごい顔色のフキを引きつれて、オレはなるべく日かげを選んで歩く。木陰、物陰。すずしい道路といったって真昼のアスファルトは熱い。

 人通りがすくない。平日の昼間ってこんなにのんびりしてるのか。夜はややこしい人々であふれる路地も、お年寄りがぽろぽろと散歩をしているだけだ。

 起き慣れない昼間の日差しはオレの目に痛かった。皮膚のいちばん外がわは快適で、そのすぐ下は違和感のかたまり。ぼんやりする。固体になった眠気。神経がにぶる。頭も内臓もまったく働いていない。

 アジサイが紫のグラデーションをつくる遊歩道を抜けて、大通りに到達した。

 夜とはまったくちがう色あいの交差点。妙にひなびた風情に見える車がひゅんひゅん走り、白シャツの人々が恬淡と笑いあったり、膝を上げてそくそくと歩いていく。健康なお昼休みの情景。
 だれもオレたちに構わなかった。目も向けない。

 かなり暑い。が、ろくに汗が出ない。口の中とのどの奥ばかりがやたらと乾く。

 三丁目の雑居ビル、昼間見ると黄色っぽい壁面の、いっちゃんの事務所がある建物の前にオレたちは立つ。



「お。生きてたどり着いたか」

 いっちゃんは常に変わらず落ちつきとふざけを半々に入れた声で迎えたが、フキの顔を見るなり目を剥く。そりゃそうだ。
「ふうむ」またもや言って首をひねる。フキの目を見る。ふんふん、とうなずく。

 事務所の奥、自分の居住区域になっている部屋にするすると引っこみ、ちゃからかとすずしい音を立てていたかと思うと、大きなグラスに入ったジュースを二つ運んできた。オレとフキに差しだす。
 乾いていたオレはありがたく一気飲みする。冷えたレモネード。フキも横に立ったまま、こぷこぷとつめたいジュースをのどに流しこんでいる。

 オレたちが飲み終わるのを待って、いっちゃんはからんとした声で言った。「さあ、じゃあ行こうか」

 行こう、って。

「昼時だよ。あたしはお腹がすいた。ランチに行こう。トビオたちも、その顔いろの具合じゃ起きたばかりで、なにも食べてないんだろ」
 背番号の入った赤いタンクトップを着たいっちゃんは、イキのいい顔でさばさばと言う。傷あとのある腕も気にせずまる出し。

「オレぜんぜん腹へってないよ……眠くてワケわかんねぇ。それよりてきとうにデリバリー取ってよ。食事に行くなんてめんどうくせぇよ」

 だーめ。いっちゃんは腰に手を当ててぐんぐん首を振った。
「いいとこ予約した。たまには珍しいもの食べるのも悪くないだろう? とにかく行こう」

 そのまえに、と前置きして奥の部屋から救急キットを取ってきた。

 手振りでフキを事務所の椅子に掛けさせる。顔や腕、胴体や脚までしゅうううとクールダウン・スプレーを吹きかけ、損傷のひどいところには手早く医療パッチを貼っていく。
 フキも異様にすなおだ。いっちゃんとはアイ・コンタクトと身振りだけなのに、息の合ったコンビみたいに服を自分でめくりあげたり、くるくる回って背中を見せたりしている。

「はい、おわり」
 スプレーを救急箱にしまい込み、いっちゃんは宣言する。「さあ、ランチに行こう」



 公園を抜けて行くと言う。あっさり宣言してさくさく歩き始めるいっちゃんのまっすぐな背中に、オレはぶつぶつ不平を投げつけた。信じられない。この馬鹿みたいにでかい公園をわざわざ横断してどこに行くってのか。近場ですませましょうよぉ。

 だめだよん、と軽く言って、いっちゃんはひょいと通り沿いの柵をまたぎ越し、植樹林を抜けて芝生の広場に入っていく。

 震災後の都市再開発で、この駅の東側から西側にまたがる大公園が作られた。愛称はハート。街の心臓部にあるから。俯瞰するとハートの形をしてるから。

 弁当をひろげる遠足のガキや、ぼんやり憩う市井の人々でそれなりににぎわう、だだっ広いフィールドをいっちゃんは歩いていく。オレもしかたなく後を追う。消毒し忘れた腰の傷が引っぱられるようにうずく。こういう健康的な場所ではどうにも身がちぢんでしまう。オレは薄ぐらい片すみや下水をうろうろして生きる生物なのだ。

 足のうらに草とでこぼこした地面の感触。踏みしめるとわしっ、と指が土に食いこむ。ぬれたクローバーの葉っぱ。気色わるいよー、と文句を言おうとするが、足はそれを裏切って土ふまずをぐりぐりと地面に押しつけ、けっこう喜んでいる気配。

 クールダウン・スプレーで炎症が楽になったせいか、フキはのびのびと首をもたげて軽快に歩いている。ときどき上を、空を見て目を細めながら。すんなりした風が無尽にオレ達の間を吹きぬけていく。青々した匂い。

 空、は屈託なく笑うブルー。低い位置と高い位置で速度のちがう雲が真っ白に、こわいほど白く光ってぼこぼこと流れていく。大きなかたまりが上を通るたびにオレのまわりが涼しい影になる。

「なあ、いっちゃん」
 オレは元気な背中に声をかけた。「なんでこんなに雲、はやく流れるんだ? 昼間っていつもこうなのか?」

 あはは、笑って歩をゆるめ、オレの横に並ぶ。きれいに日焼けした腕を空に伸ばす。

「南西諸島の沖に台風が来てるんだ。そっちの天気は大荒れだが、逆にこっちのほうは気圧が高くなってからりと晴れた。雲は、台風からぶっ飛ばされてきた空のギフトかもね。晴れた空に、流れる雲だけながめて楽しむことができて、今日のあたしたちはラッキーなんだよ」

 どんな考えかたなんだか。

 それでもオレは、上空と低空を競争するように走る雲を見て、たしかになかなか悪くないながめだ、と思ったんだ。



 青くさい芝生を踏み渡ったら、能天気な空の下をてくてく歩いたら、どうしようもないほど腹がへった。のども乾き、胃袋がごるごると鳴る。いつもの飢餓とはひとあじ違う奇妙なあかるい空腹感。額やひじの内がわを、つるりと汗の玉が転げてすべっていく。

 公園を踏破。南門を出て緑の多い裏通りを渡り、赤い日よけのかかったテラスつきレストランにいっちゃんは迷わず入っていく。

 思わず店の前に立ちどまってしまう。オレやフキが入っていい感じの店ではない。鉄の門扉に白亜の壁。

 所在なく突っ立っていると、ウェイターを従えたいっちゃんが出てきて、こっちこっち、と言いながらテラスの席に腰かけた。紅白市松模様のクロスがかかったオープンエアのテーブル。リストランテ。こんなところでものを食ったことなんかない。

 ほかの席に人がいて、高級そうなオバサマやお嬢さまがオホホ、あらイヤねぇ汚いのがアタクシのとなりに座るなんて……あっちにお行きシッシッ、というムードだったらオレは迷わず走って帰ったと思うが、さいわい席はがらがらと無人だったので、オレは固まりながらも腰をおろした。へんなフォークとかナイフとかマナーがいっぱい出てくるんじゃないんだろうな。

 ウェイターが椅子を引いて座らせてくれたので、オレは仰天した。おもわず顔を見ると、見せすぎるほど歯を見せて爛漫と笑っているその顔は、つやつやと若い女の顔だった。カフェオレ色の肌に、くっきり大きな目。

「こんにちは。あなたはおなかすいていますか」ていねいな発音で言う。オレはほっとした。外国人だとなぜか安心して、日本人には警戒してしまうオレのへんな癖。うんうん、とうなずく。「こんにちは。オレはおなかすいてるよ」

「ナディ、今日のおすすめはなに?」いっちゃんがメニューをてきとうに見ながら、いかすウェイトレスに訊く。

「今日はいいラムチョップがあるから、きっとモハマドはパキスタン風にグリルするよ。でもワタシのおすすめは、バタタザナジ。ポテトサラダね。こういう晴れた日に外で食べると、とてもとてもおいしいよ」

「それはザンジバルの料理なの?」
 いっちゃんが訊ね、ナディはますます微笑む。限界のない開いた笑顔。

「そうです。ワタシの国のおいしい料理」
「じゃ、それをオードブルにもらおうかな」

 ガラスのドアで仕切られた店内から、同じウェイターの制服を来た人々がどしどし出てきた。みんな口をでっかく開けて派手にスマイルしている。いろんな顔立ち。皮膚の色。
 陽性の押しつけがましさでてんでに自国の料理をお勧めされる中で、いっちゃんは慌てもせず、ナディの勧めたサラダと、パキスタン風のラムチョップ、イラクのチキン料理、ヨルダンのパスタ、トルコのデザートを注文した。

 オーダーが済んですぐに、冷えたビールが三本サーブされた。小瓶につらつらと水滴。自分のだけはアルコール入りってのはずるくないかいっちゃん、でも多国籍料理店に乾杯。

「で」
 あっさり一本を飲みほしたいっちゃんが口もとを手の甲でぬぐい、オレに訊く。
「フキのそのケガはどういうわけなんだ」

 透明で潤沢なものすごいビールのうまさに入りこんでいたオレは、いきなり言われてむせそうになった。
 オレのライムを捨てたからボコボコにぶん殴りました、というストレートな情景描写はとてもできない。

 答えずにごまかし、ビール壜の口をぼおおぉ、と吹き鳴らしているオレを見て、いっちゃんはおなじことをフキに訊く。答えないの、知ってるだろうに。

 フキは、む、という口つきでいっちゃんを見て、オレを見て、そして真似して壜の口を吹き鳴らしはじめた。二重奏。
 いきなり腕をつかまれてオレは狼狽した。いっちゃんがオレの右手の甲を引き寄せてまじまじと見、左手も見、それからフキの顔を検分する。

「トビオが殴ったんだな」すぱんと言及。オレの両手拳はあからさまに腫れ。「その身長から殴り上げたあとばかりだ。いったい何があったの」

 いっちゃんの目はいつも底知れなくオレの背後を見抜く。責めるわけじゃなく、事実を確認してるだけなのはわかるが、オレにはどうにもこわい。毎度ビビる。なんでも解られてしまうのって恐怖だ。

「フキが」
 オレの声はチビの頃のようにふて腐れてかすれてしまう。みっともねえ。「オレの大事にしてるモノ勝手に捨てたから、怒った」

「なにを捨てられたって?」
 ここで突然ふわっと優しい声に落すなんてずるいだろ。こういう声色テクで占いの客を泣かせてるんだな。

「それは言えねぇ」
 オレは最終ラインの意地できっちり言う。

「そう」
 いっちゃんは視線を落して寂しそうにうなずく。勝った!

「で、紙? 錠剤? それとも砂糖?」
 話を変えるように明るく言われたので、オレはノリで、あっ錠剤ー、と言ってしまう。言ってから総毛立つ。

 ノセられた。

 ふーんライムの錠剤かぁ、それなら捨てたフキのほうが偉いよね、などと言って雲の流れる空を見ているいっちゃんを、オレはバールのようなもので叩きのめしたくなる。老獪なババアめ。いつもこの調子だ。

 がむがむ叱られる、と予想して身を伏せていたら、いっちゃんは意外な方面から話を飛ばしてきた。

「フキはどうだった、ライムやってるトビオを見て薬を捨てたの? 偶然どこかに捨ててしまった、んじゃなくて? 薬がなんだかわかってる様子だったの?」

 そこまで普通にきり返されたんじゃしかたない。オレは昨日のできごとをまるまる正直に説明した。

「そうか。錠剤を見て、それからすぐに流しにあけてしまったんだ」
 ふうん、といつもの調子で考えこむ。頭の中でどんな考えが飛びかってるんだか。

 なんだか叱られないみたぁい、と安心してビールをすすっていたら、いっちゃんの声ががさりと荒れて小さくオレの上に降ってきた。

「トビオ、お前ね」じっと見る。きちんと見る。感情のある目で。オレの馬鹿オヤジ、ギャロップを正面から見据えたときとおなじ目だ。

「ときどき冷酷だよ。気をつけなさい」

 冷酷。

 頭の芯がすんと冷えた。ビールが鉄の味になる。

 そこにナディが料理を運んできたので、オレたちはとりあえず食事に入る。

 甘いかおりのする柔らかなポテトサラダ。薄い小さなトーストにディップして口に運ぶ。
 たしかに滅法うまかった。汗がすらすらと引く不思議な風味。へこんだ気分が単純に消し飛ぶ。

「さて、本題に入ろう。今日の相談はいったいどんなこと?」

 オレはちょっと困り、どこから話したものだかわからずに考えこむ。フキの謎。人間ばなれした諸能力について。知りたいのはそこだったが、どう説明したものやら。

 仕方がないのでありていに話した。
 オハナ姐さんとのいきさつや癒しパブの事情ははぶいた。それってオレが秘密をまもる範囲だ。わけあって預けられたフキが、オレのまわりでどんな行動をしたか。水鳥の子供みたいについてくることや、オウム返しのことば。
 いっちゃんのオフィスに行ったあとの、悪夢その後の顛末もはずかしいけれど話した。うなされてパニクったオレにレンガを投げられて、一緒になって洟たらして泣いたこと。それから「BUK」でオレがナイフ持った小デブに急襲されて……。

 いっちゃんがあきれたように口をはさむ。
「それ、フキが割って入らなかったら、トビオは大怪我してたんじゃないの?」

「あ、うん。ヤバい角度から来てたから、場合によっては死んでたかも」

「ようするに、トビオはフキに命を救われたわけだ。その恩人をボコボコに殴ったって?」

 そう言われるとひとたまりもない。

 黙ってフキを見つめた。

 フキはテーブルクロスのふちが風に踊るのが楽しいのか、ぴらぴらした布地のすそに目を近づけて凝視している。

→W・・・・

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