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・・
「いっちゃん、やばいよー。オレもしかしてピンチかもしれねえー」
オレなりに危機感モードの声を出して事務所に入っていくと、デスクの向こうに座っていたいっちゃんがきゅると椅子を回してこっちを向き、真剣な声音で言った。
「どうしたトビオ。尻から寄生虫でも出てきたのか」
この人はいつも開口一番、リアクションに困るような台詞をぶつけてくる。まじめな顔でふざけていらっしゃるのだ。
雑居ビルの最上階。ここが占星術師のオフィスだと言って、すなおに信じる人がどれだけいるだろうか。
ぼろぼろに読み込まれた本や資料のファイルがこれでもかと詰めこまれた壁一面の本棚、パソコンがどかっと座を占める巨大なデスク。の上には文房具と画材が山盛りになっていて、あちこちにちいさいフィギュアやおもちゃのロボット、動物のぬいぐるみがひょこひょこ顔を出している。天井からは飛行機やロケットの模型が宙吊り。デザイン事務所と書斎と幼稚園が合体したような場所。
ここに住む壱子センセイ本人も相当にどうかしている。今日はスポーツブランドのトップをぴちぴちに着て、まる出しの細いウェストに臍ピアスを光らせている。ナニ人だかわからないほどよく焼けた肌に、ドレッドめいてじゃらじゃらこぼれ落ちる長いたくさんの編んだ髪。美人なんだろうけど迫力ありすぎて、まるで可愛くないのが問題だ。
オレがろくな切り返しを思いつかずに呆けていると、いっちゃんのよく光る目線がオレの背後に飛んだ。
「ん、ずいぶんでっかい奴を連れてるなぁ」
フキがオレの後ろから部屋を覗きこんで、鼻をひくひくさせていた。
「トビオの友だち? めずらしいね」
いっちゃんは勢いよく立ち上がって、デスクを迂回してさっさと歩いてくる。ローライズのベルボトム。スタッドがいっぱいついた皮のサンダル。まったくもってアンフォーマル。
大股にオレを通り越したいっちゃんは、ひるむ気配もなくフキの眼前に立って、まっすぐその顔を覗きこんだ。
フキはいっちゃんを見ない。
「ふうむ」
いっちゃんは顎に片手の親指を当て、考えこむ。
「友だちっていうか、昨日の晩からなつかれてる。正体不明で、オレもよくわかんない。喋んないから。いちおうフキって呼んでるけど」
そう言い、オレはずるりとオフィスに踏み込んだ。食べるものないかな。
デスクの上や向こうをじろじろ眺めてみたけれど、消化吸収できそうなものは見当たらなかった。いっちゃーん、なんかなーい、と言いかけて、振りむく。
いっちゃんは不思議なことをやっていた。
フキの横に立ち、大男が目を向ける同じ方向に顔を動かしている。だらりと両手を垂らし、足元だけ直立不動な同じポーズ。フキが顔を歪めれば同じように歪め、フキが腕をごしごし掻けば揃って同じことをする。
何やってんだ、とあきれて見ていたら、奇妙な現象が起きた。
自分と同じことをするいっちゃんを、フキがちらちら眺めだしたのだ。気にしながら、両手の指をわらわら動かす。すぐにいっちゃんも同じくわらわらする。左腕を持ち上げる。いっちゃんも上げる。
うー、と、フキがうなった。
うー、と、いっちゃんも言った。
二人は突然、顔を見合わせた。
フキがオレ以外の人を二秒以上見ている。
いっちゃんが濃い睫毛を揺らがせて、ニヤリと笑う。
フキもつられて、頬を動かして歯をむき出した。笑い、とはほど遠かったが。
オッケーオッケー、といっちゃんは楽しそうに言い、親指で自分の胸をトン、と突き、イチコ、と発音した。変な自己紹介もあったもんだ。
フキはううう、とうめいて、困ったようにオレといっちゃんを交互に見る。
「ははは、まあ座れ、二人とも」街の星占い師は豪快に笑う。
エピスコの保健福祉課に勤めていたいっちゃんが、落雷みたいにとつぜん仕事を辞めたのが二年前だ。
オレが物心つくあたりからしょっちゅう家にやって来ていた、当時はまだおとなしいファッションの児童心理士。何度も親のバイオレンスから救出や保護をされていたオレは、てっきり実の姉ちゃんなんじゃないかと思い込んでいた。
ガリガリにやせ細ってケガと皮膚病だらけのオレを抱き、病院や施設に走り回るいっちゃん。
オレの親父に撃たれたのは六年前だ。
二の腕の骨を逸れて貫通した改造銃のせこい弾は、指を動かす神経をめちゃめちゃにっ掻き回していった。リハビリに二、三年あまり。死にゃしないから平気だよ、と言いながら、療法士のもとで脂汗を流して笑っていたいっちゃんをオレは憶えている。
ギャロップ、というくだらない通り名を持つ親父は、その罪で正式にエピスコの保安課に引っぱられ、余罪をごろごろ付けて矯正地区入りした。なんでもっと早めに逮捕してくれなかったのか、オレは今でも不思議に思う。
八歳だったオレは遺棄児童扱いで、定石どおり保護施設に送られた。
どんなところか。
ジェーン・エアがはだしで逃げ出すようなところだ。差別と暴力ヒエラルキーの最底辺層。当然オレも裸足で逃げ出した。
しばらくマンホールの中に住んでいた。
いいところだ。オヤジのいた家や保護施設に比べれば。くさいけれど、虐待はない。下水道でも知恵を働かせれば生きていける。けっこう仲間もいる。オレみたいに施設から逃げてきた児童と、地上にもいられなくなったホームレスたち。
夏は冷水パイプ、冬は温水パイプの横に寝床をしつらえて、コンクリートの点検通路にらくらくと寝転がり、拾ってきた雑誌や本を、かっぱらってきたヘッドランプの灯りで読みふける。天国みたいだった。食べ物は地上にいくらでも捨ててあるし。
そんな豪華な生活を続けられたのは、エピスコが一斉清掃という名目で、地下のどぶねずみたちを排除し始めるまでだった。オレはまた保護された。迷惑至極。
いっちゃんがすっ飛んできた。
オレが施設から消えて十四ヶ月、ずっと行方を捜していたらしい。再会したとたん平手で張り倒されたが、そのあと頭蓋骨が砕けるほどきつぅく抱きしめられた。
まだ職員だったいっちゃんが身元引受人となって、オレは街での暮らしに戻ることになった。学校教育を受けること、という条件つきで。
オレが今棲んでいる家の名義人もいっちゃんだ。ついでに言えば、同居してるピーフケやリンタロも同じような背景を持つ子供たち。災害みたいな世間から救出された、壱子・チルドレン。
ごめん、いっちゃん。ボクちゃんたち全然まったく誰一人としてガッコー行ってないんでちゅよー、エヘ。
心を読んだように、いっちゃんがオレに訊いた。
「ちゃんと学校には通ってるの?」
オレは何かたのしいジョークにまぎらせて吹き出してそれで終わりにしちゃいましょう、という気持ちでいろいろことばを探したが、そんな都合のいい冗談はひとつも浮かんでこなかった。ので、ぺこんと頭を下げる。
「ワリ」
いっちゃんは嘆息する。それを見たフキも慌てて大きくぶしゅうー、と息を吐く。食べていたバウムクーヘンが喉に引っかかり、咳きこむ。
階下のファストフードからいっちゃんは出前を取ってくれて、オレ達はようやく本日の栄養にありついたところだった。カレー・ソーセージを乗せたパンとじゃがいも団子とザワークラウト。ケーキ。滋養滋養。
いっちゃん本人みたいにややこしくて底知れないオフィスで、でこぼこトリオの夕ごはん。へんな感じだった。
「トビオ、教育は受けておきなさい」マグカップに入った黒ビールをつるつると飲みながら、いっちゃんは言う。「くだらない暗記とか、受験とかそんなものは無視していい。ものを考える方法だけ、きっちり学んでおくんだ。武器になるからね」
「武器っすか」
オレはおとなしく炭酸水を飲んでいる。ビール飲みたぁいと甘えてみたら、いい加減にしなさい、脳が萎縮するぞと脅されたのだ。連日の堕落ライフがバレバレだ。
「そう。知恵は地獄を照らすの」
エピスコの職員からだしぬけに商売替えして、その日からこんな街できっちり食べていけている人の言うことには現実感があった。
この人は、地位や後ろ盾がなくても、自分の頭だけで生きていけるのだ。
オレは流れるだけの人生。飯と酒のありそうな方向に向かってひゅるひゅると。そうでない人に会うとなんとなくフラストレーション。ばりばり爪とぎしたくなってきた。
話を変える。
「なあ、いっちゃん」
あぁ? と粗雑なお返事。アンタそれでもレディなのっ。おかま言葉で突っこみそうになりながら、
「オレさ、昨日もおとといも、やたら体のでかい人間にばかり遭遇するんだ。そういうのって、なにかあるのかな」
「あーあーあー。あるあるある」
あたり前だ、と言わんばかりの即答だった。
「トビオは超水星人間だろう。出会いとハプニングを表わすサインが射手座の木星にめちゃめちゃタイトな角度を取ってるよ。でっかい奴に出くわすのも当然だ。まだまだ、出会うかもね」
うれしくないことを言う。むー、とすねた白目を見て取って、いっちゃんは笑って続ける。
「なに、角度がずれたら風向きが変わるよ。でっかい方々とのかかわりは、そうだなぁ。二週間もすればぱちんと弾けて跡形もなく消えてしまう」
消えてしまう。
オレは思わずフキを見た。
すごいスピードで食事を終えてしまったフキは、デスクの上のフィギュアに気を取られていた。魅入られたように。
「ん、箱庭やりたい?」
察しの早いいっちゃんはすばやく人形を集め、フキの手もとにごっそり置いた。さかさか立って行って浅い箱を引っぱり出し、そこに缶から砂をざああ、とあける。
フキの目の前に置く。内側が水色に塗られた砂箱。本来は心理療法のアイテムのはず。心の情景が表れるんだとか言うけれど。
オレもやりたい、と言おうとしたら電話が鳴った。いっちゃんはシー、口もとに指を当て、受話器を取る。
「はい、加州見壱子です」
いきなりの声と態度の切りかえだ。やわらかく暖かく抑制されたエレガントな声。さっきまでの乱暴な口調はどこにいった。
「……どうなさいました? ええ、おっしゃってください……ああ、それはしんどいですね……いいんですよ、泣いても。……ずっとお一人でがんばってこられたんですもの、そのお気持ちが当然ですよ……」
泣かせてるし。
「ええ、おりますよ。いらしてくださいな……はい、これからですね。ええ、では、八時でいかがかしら。…気を楽にして、いらっしゃってくださいね……お待ちしていますね」
電話を切る。仕事の顔。壱子センセイの顔。
よく知っている顔だった。被虐待児童のもとにすっ飛んでいく時の、真剣な顔。
一瞬あって、オレたちの存在を思い出したらしい。は、と目がこちらを向く。
「ほらほら、あたしは仕事だー」色気もそっけもない声で言う。「キミたちはとっとと寝ぐらに帰りなさいー。寄り道するなー」
どういう人なんだ。これは。
仕方がない、行くぞフキ、と言いかけて声が止まった。少しの間にややこしいものを作り上げている。
箱庭の中の砂を、左右対称に分割してもこもこと二つの山。トイ・ソルジャーの頭がつぶつぶと並べられ、橋の模型や馬の人形の置かれた中に明らかなラインを作っている。砂地に描かれた複雑な幾何学模様。赤いピンポン玉やムンクの「叫び」人形がアクセントになって、全体のデザインをするどく締めている。
かなりの芸術作品だった。
「へえ」
覗きこんで、いっちゃんが感嘆した。「上手だなあ。よく、こんなに手早くできたよね」
いっちゃんはデスクの引き出しからデジポラカメラを出し、箱庭を上から周囲からちゃきちゃきと撮った。
写真の束をフキに渡す。渡しながら珍しくあったかい声で言った。「またおいで」
フキは写真の意味がよくわからないらしく、しゃもじのように握ったまま目は箱庭の方を見ている。オレはプリントの束を奴の尻ポケットに入れてやり、行くぞ、と部屋の外を指さした。
6×4×2センチのプラスチックケース。
透明で、中にはぎっしり詰まった銀色の長い押しピンが見える。
こいつには恨み骨髄。保護施設という名目の刑務所で、無料奉仕工場で、天文学的な数を組み立てさせられた。箱に規定数の押しピンを詰めてふたをしてラベルを貼って数えて段ボールに詰めて出荷。二十世紀から連綿と流れるベルトコンベアー。日に十二時間この作業をしていると軽く発狂しそうになってくる。
押しピンはリンチにも必須の人気アイテムだった。なにしろ居住所のはしばしにまで、このふざけたピンが散らばっているのだ。ねじ曲がった不良品。ヘッドの欠けた太い針。
背骨に沿ってこのピンを七十二本プッシュされた新入りのチビは全身不随になった。それでもこの施設から、医療地区に搬送されていくガキをオレたちはうらやましく見送った。地獄から煉獄へのお引っ越し、すくなくともかわりばえはある。
オレもヘッドのないやつを何本か尻に埋められた。自分で摘出したあとのぎざぎざ傷は、それほどおシャレなものとは言えない。
その憎たらしい押しピンケースを、オレはいくつも開封している。絶対に禁止されていたこと。大切な完成製品の開封。ラベルをべりっと引きやぶって、中身をざらざらと床にあける。一度やってみたかったんだ。
驚いたことに、ピンに混じって極小の、一センチもないくせに造型がきっちりした人形が混じっている。なにこれ。フィギュア? わからないけれど見事に彩色されて、米粒に書かれたお経みたいな細密芸術。おもしろい、これ欲しい。もらっちゃおう。オレは人形を集めてクリアケースにためていく。
これ、かわいいだろ。例えばだれかオレの好きなやつに、オレによくしてくれるやつに、サプライズプレゼントしてみたい。オレは飯をもらうばっかりだけれど、いつかオレが飯をだれかにやる時に、食い物のてっぺんでこの人形がバンザイしてたら楽しいじゃないか。みんなきっと喜んでくれる。ステヴァンとか。壱子センセイとか。
人形をつぶつぶ選っていたら、なんだか内臓が苦しくなってきた。胃がぎくぎくと軋み、内側にむけて殺人的に引き攣れる。やばい。いつもの発作、体をくの字にまげて行き過ぎるのを待つしかない凶暴な臓腑の反乱。
うううう、ふううっ、うう、ふうっ、とうめいていたら、がらがらと能天気な笑い声がした。クソ親父、ギャロップ。オレの背後に立ったまま、見下ろして心底愉快そうに笑っている。この、心底、ってところがネックだ。いやみな嘲笑だったらすでにぶっ殺している。
「はははは、ははあ、変だ、オマエおかしいよ、はっはあ、すごく変だ。笑える」
親父が楽しいんならそれに罪はないんだろう、オレがおかしいから笑われるんだ。だけど苦しいことを笑われるとさらに内臓がぎりぎり締めつけられる。くそう、破裂しそうだ。
オレはずるずると這ってバスルームに行く。いつのまにかオレが育ったアパートの腐った風呂場。なんでここにいるんだろう。
風呂、ではオレはやらなきゃいけないことがある。踏みつぶされたごきぶりやなめくじの屍骸の散る床の上、ギャロップのクソ長い髪の毛が大量にからみついたブラシがある。これをきれいに洗わないとオレはまたどやされる。取り上げると、それは大量の針に、大量の糸が通された束に変わっている。糸にからみつく黴と埃とギャロップの垢と脂。これをきれいに洗わないとどやされる。殺される。殺されるのはかまわないが一生好かれない、捨てられる、可能性のない場所に廃棄される。
束を浴槽にぶち込み、熱い湯をがあがあ掛けるが、汚物がすぐに排水溝に詰まってどろどろの湯が盛り上がってくる。きたねえ。くせえ。
オレはせっけんをつかむが、せっけんも不定形で醜悪な物体で、黒いずるずるした汚れに覆われている。糸束になすりつけるが、よけいひどいありさまになるばかりだ。また強烈に内臓がでんぐり返る。ううううっ、やむなくうめく。
ギャロップの声が近づいてきて、オレはわけのわからない安堵と期待で一瞬死にそうになる。くるしいんだよ父ちゃん。
「おい、父ちゃんまたやっちまったか。悪かったか」そう言う声を背中に聴いてオレはうんうんうん、と言葉にならない。たすけてくれ父ちゃん、オレを殺さないでくれ。くるしいんだ。
「そうか」
親父の腕がオレの背後から回り、オレは信じて力を抜きそうになるが、その瞬間ギャロップのクソ腕がおそろしい力でオレの肺臓を締め上げてくる。笑っている。息ができない。内臓が破裂する。
苦しいんだそれを知ってくれオレはオレはバカのガキだから言えなくてそれで痛めつけられるけれど、父ちゃんオレ死にそうに苦しいよ、肺を潰しながら笑わないでくれよ、もうシャレにならないんだ、オレ今の今までやっぱり期待して親父に愛されたかったけれど、これは絶対ちがうだろ。オレは死にそうに苦痛なだけだ、それがそんなにおかしいのか。
やめろおおヴぉ、
がらがらにかすれ潰れた声を軋ませ、汗だらけのこぶしを振りまわしながら目を覚ました。寝起きにあってはならないほど動悸が昂進し、神経がびりびりと切り立っている。
はっ、はっ、っと息を吐いて睡眠からもがき出て、金縛りめいた体のだるさを振りはらう。ギャロップが夢から抜け出て追ってくるような気がした。ぶざまに這ってその場を蹴る。悪夢とは色のちがう現実の空気を吸う。
ぐう、と息をついたら猛烈な破壊衝動がやってきた。手近に見えたアスティ・スプマンテのでかい壜をつかみ、壁に投げつける。力が入らず、がすん、といって跳ね返っただけだった。悔しい。オレはあいつを殺したい。
あのクソギャロップのクソ頭をつかんであのどろどろ風呂に突っこんでぎゃんぎゃん底に打ちつけて額を割って鼻も潰して脳が腐れた水にでろでろに混じるまで壊してやって跡形もなく人間ですら物体ですら存在ですらなくなるまで破壊したい。
ヴヴ、と変な声をあげてオレはこぶしを床にがすがすと打ちつけた。震えが止まらない。
背後に大きな気配が近づいてオレは腰抜けの悲鳴。飛びのく。
フキだ。多少は困ったようにそれでも基本的に無表情でロボットと動物の中間のような感じで、どすどすと近づいてくる。来るな。
そう叫んでオレは塵あくたを踏み散らして逃れ、つんのめって走って梱包材料カーテンを引きはがし、すべりの悪いガラス戸を気合いで開けてベランダに転がり出た。ひじをすりむく。
風雪越えてごろりと転がる古いレンガをつかみ、のそのそ追ってきたフキに向かって振り上げる。来るな。
突き刺す声で叫ぶと、フキは脳天に雨粒でも当たったような様子でぷるっと身を震わせ足を止めたが、やがてまたじりじりと近づこうとする。
オレはレンガを投げた。フキの腿のあたりに当たってバウンドし、床に落ちてがっと鳴る。端が欠けた。
フキは止まり、落ちたレンガをじっと見る。
首をちぢめて所在なく立ちつくす。
オレの鼻からすごい勢いで熱い液体がほとばしった。鼻血かと思ったら目からもがあがあ出ていた。涙がマグマみたいに噴き出していた。口からも涎がぼろぼろと、獣の叫びと一緒になって飛び出してくる。
何がどうでも、今はでかいオトナの男に近づかれたくない。たぶん殺す。
脚から力が抜けてオレはその場にへたり込んだ。ぶるぶるがたがた振動する体を無理やり腕で押さえつけて、なにか吐き出すようにぐちゃぐちゃに声と涙をしぼり出した。止まらないし、いつまでたっても弱まらない。ものすごい水脈を掘りあててしまったようだった。
みっともねえ。
思いながらもすでになにがどうでも構わなくなって、オレはがんがん泣いた。小さいガキみたいに膝を抱えて自分の腕に噛みついたり、髪を引きちぎったりしながら。何やってるんだオレ。
いいかげん、ほどほどにしろよな、と自分でも思うところまで泣いて、わめき散らすのをおさめて顔を上げてみると、フキが一メートルほど離れた場所にしゃがんでいた。体をちぢめるようにうずくまり、オレに視線を合わせず裸足の足先あたりをそっと見ている。
ぶわー、っと噴出するものがあってオレはまた泣いた。涙の味がすこし変わっている。俺は悲鳴みたいにやけくそに嗚咽した。
きっとはたから見たらうんざりするほどの時間がたって、オレはようやく枯渇した。鳩みたいな声を数回繰り返してぴた、と止める。もうアンコールはない。
泣いた。夢のせいで。これははずかしい。
ばんばんに熱く腫れている顔面を意識しながら、オレは立ち上がった。
フキがさっ、と顔を上げてオレを見て、すばやく立つ。
「わりいな。レンガ投げて」
へんに潰れた声を出してフキの腿を指す。
フキはズボンのそのあたりをくるくると撫で、すたすたと近寄ってきてオレのそばに立った。
「ごめんな」
言って見上げると、驚いたことにフキの顔にもにらにらと涙の線がいくつか走っていた。鼻水も垂れ放題だ。
鼻拭けって、と言おうとしたら、フキが口をはっきり動かした。目はいつものごとく呆然と、オレの顔をじっと眺めたまま。
「ごめんな」
ぼべんだ、と聞こえかねない発声だったが、オレにはきっちりなにを言ったのかがわかった。オウム返しに過ぎなくても、フキがはじめて意味あることばを喋ったのだ。
フキが喋った。
とにかく鼻をかめ、と言ってフキを部屋にうながし、ガラス戸の向こうを見ると、手に手に木刀や催涙スプレーを持ったピーフケとリンタロが、口と目をまるまるに開けたまま、あほのように驚愕して突っ立っていた。
「だってなんかすげえ音してトビオわめいてるしさ、なんか普通じゃねえ足音するし」
ピーフケは弁解するように言った。
「なんかやべぇことになってんじゃないかと思ってリンタロと上がってきたら、知らねぇ奴いるし、なんかトビオと一緒になって座って泣いてるし」
木刀をごつごつと床に突き、国籍不明のややこしい顔を伏せる。蛍光イエローのラインが入ったジャージの開いた胸元に、引き攣れた古いやけどの跡。
「まあな、ワケわかんなくてビビッちゃって。どうするよ、とか言って突っ立ってましたよもうひたすらに呆然と。はいごめんなさい反省します」
ひょうひょうと台詞をまわすリンタロは、リユース課でもらった古着をうまく着合わせて、こざっぱりとおしゃれにきめている。右手にスタンガン、左手にさすまたを所持していなければ、ちゃんとした家のぼんぼんにも見えそうだ。
「ああ、わかったわかった、とにかく下で話そうぜ」
オレは同居人たちを追っ払うように、泣いた目が見えないように手を振り、ながらも自分が先頭に立って階段をどすどすと駆け下りた。フキがものすごい大股で後を追ってくる。
階下に食べ物の気配。さっきから空気の流れに乗って、ふわり、ひらりと漂ってくるのだ。
泣き疲れて深刻に空腹。
「おおおおっ、これなんだ、ピーフケ、食っていいか、ありがとう。なんでこんなにいっぱいあるんだリンタロ、いただきます」
二階と同じくカオスに満ちた二人の部屋の、それでも文明的に据えられたテレビの受像機と、その前に鎮座する綿のはみ出たリクライニングソファのあいだに、大量の肉の缶詰が積み重ねてあった。
ランチョンミートの山に、オレはダイブする。
「いいけどさあ」
うしろからリンタロの声が飛んでくる。
「テレビのうしろ、袋あるだろ。そこにピタパンがいっぱいあるから、それに挟んで食うとうまいよ」
豹のようにオレは跳躍した。すすけた白い紙袋がひいふうみ、数えられねえ、十個以上。そのひとつひとつの中にみっしりと、円筒形に積み重ねられてビニールにくるまれたパン。食い物のにおいはここからか。
「あとなんか、海苔もあるぜ。パンにスパム挟んで海苔で巻いて食うとうまいぜ」
ピーフケが大量の、韓国海苔の詰まった黄色い大缶を投げて寄こす。いったいどうなってるんだ、こいつらの食糧事情は。
疑問はさておき、食べるのが先だった。
ピーフケの不気味なレシピどおり、ピタパンにスパムミートを厚切りにはさみ、コリアン海苔を巻きつけるようにしてどんどん食った。フキにも作ってやって、牛馬のようにどしどし食べた。海苔スパムサンドは悪くない味だった。別々に食べた方がおいしいのかもしれないが、いまは速度優先だ。
食い気の魔神みたいにパンを食いちぎり、その味と食感とにおいに溺れつつも、余った感覚はきっちり総動員して周囲をサーチする。餌場の常識だ。
オレの占領している二階に伍して、散らかし放題にごしゃごしゃな部屋だ。ぼろソファとテレビを中心に、美しく放射状に広がるがらくた。なにやら探しものでもしながら部屋をぐるぐる歩いたらしきあとがケモノ道のように残り、みごとな環状線を形成している。自堕落ここに極まれり。
しかし、この部屋にはオレの領分との決定的な違いがある。いや、ピーフケ及びリンタロと、オレが違っているということだろうか。
二人には、物欲があるのだ。
見わたすとそれは歴然としている。ゴミに埋もれている木箱はじつは棚だ。そこにはピーフケがむちゃくちゃに無理して手に入れた、マニア垂涎のふるいビデオディスクのコレクションが、思い入れというオーラを放ちながら整然と並んでいる。
バーバレラ、博士の異常な愛情、イージー・ライダー。ピーフケがこだわりまくる前世紀の世界遺産な映画だ。
ぼろぼろ崩れてきそうな壁には、エアレス・シートにくるまれた何着もの洋服がぶらさがっている。リンタロの宝物。リユース課で支給されたものではなく、正規に金銭を使用して購入したブランドものの(古着ではあるが)洋服たち。床にはそれに合わせて、やはり購入をした正しいブランドの靴が、シートに包まれたまま正しくつま先を揃えている。
二人はこういう物体を買うために、金銭というものをいくらでも必要とする。そのためにがちがちに働いたり、ややこしいことをして利潤を発生させたり、ありていに言うと犯罪にぎりぎり抵触する行為まで行なってふんふん頑張っている。苦労なことだ。オレたちのような底辺きわまりない子供が、物欲のための金を儲ける手段なんてそうそうあるはずがない。
オレの部屋には真の意味でのゴミしかない。オレ自身も含めて。物を長期的に所有しようと思ったことは、ほんとうに一度もないのだ。
オレに必要なのは飯と情報だ。それは街にいくらでも落ちている。どこかに顔を出して飯をもらい、風に吹きさらされてる情報を集め、かっぱらった本でもながめていればオレはまるで満足だ。
「すがすがしく食うなあ」
さすまたを持ったままソファにずどんと腰かけ、リンタロが言う。「トビオもすごいけど、そっちの大きい人、まるで起重機みたいにざくざく行くね。ちょっとは俺たち用に残してほしいなあ」
「でけえなあ」ピーフケもうなずく。「この人ナニ人? トビオの連れ? なんか喋んないんだけど、ナニ?」
「フキだ」くちくなり始めた腹をぽすぽす叩いて、オレは答える。
「本名はどうだか知らないけど、オレはそう呼んでる。よくわかんない事情で、おとといから預かってる。どこのだれだかオレも知らない」
「へー」
同居人は揃ってつぶやいて、木刀やらさすまたやらを、こんこここんと床でリズミカルに鳴らす。物事をうるさく知ろうとしないところが、このふたりのいいところだ。無関心なのではなく、ややこしそうなら「へー」で済ます距離の取り方。楽な友だち。
「で、おまえらは、なんでこんなに食い物を持ってるの?」
手の甲で口の端をぬぐってオレは訊く。オレが食い止めたのを見て取って、フキもぴたりと食事をストップする。
「え、つうか……」ピーフケがなぜだかおどおどして、となりに座ったリンタロの目を見た。アラブ風に黒く深いピーフケの視線。アジア風に張った頬骨。アーリア人のように倣岸な鼻と顎、ハシバミ色の肌。ぶさいくとワイルドの間を往復する興味深い顔。
「いや勘弁してくださいトビ先輩。て言うかトビ先生。俺らまた新しい仕事やってんですけど、けっこうワケありで」
調子よくリンタロが言う。こちらは由緒正しきお公家さまがいっぺんアシッドでぶっ壊れたような顔で、いつも微妙に半笑い。
なにごとも広く浅くほどほどに、な雰囲気で物事をうまく切りぬけるリンタロよりも、思うままにならない人生にじれて痺れてかっこ悪さまるだしのピーフケのほうが、オレはいつもなんとなく好きだった。
「なにが先輩だ。先生だこのボケ」オレはさすまたを奪い取ってリンタロのとぼけたフェイスに向ける。「もったいぶってないで早く説明しろ」
かくのごとき強硬手段でオレはこの家の二階を占拠し、目に見えぬヒエラルキーの頂点を得てきた。ピーフケはオレよりひとつ年上で十五歳、リンタロはその上で十六を越すかどうかというところだが、そんなことは関係ない。生きる力が強いほうが上に立つのだ。
「ぎゃー、やめてトビさん、さすまた禁止」
リンタロは大げさに騒ぎ、ピーフケに話をふった。「どう言おう?」
根がまじめなピーフケはぐっと考えの底に沈み、さみしいボキャブラリーを総動員して語りだす。
「なんか、俺ら今やってる仕事、すげぇいろんな国の人と会うんだ。日本に住んで暮らしてるけど、まだちゃんと許可もらえない人? アジアの人多い。でも他も。ええと、インド? タイ? なんだっけ?」
「インドネシアと台湾が多くて、中国、韓国、フィリピン、タイ、マレーシア、バングラデシュ、ブラジル、あとどこだろう……」リンタロも指を折って数えはじめる。
「まあ、そういう人、日本語もよくわからない人とか、なんかエピスコにいろいろ言われて困ってる人、おおぜいいるから、俺たちは必要なものをデリバリーしてあげる。それが仕事。そういうの、なんかすげぇ喜ばれるから、けっこうお礼っつって食い物、どんどんくれたりするわけ」
ピーフケは長い台詞を喋り疲れて、どしんと背もたれに身をあずけた。ソファのリクライニング機能が勝手に作動し、背もたれはばんと倒れ、ピーフケは足を天に向けてひっくり返ってしまう。
「韓国の学生さんに海苔、トルコのダンサーにパン、インドネシアの奥さんがなぜかスパムをいっぱいくれたんだよ。感謝のしるしって。みんな、俺らなんかより金持ちそうだったけれど、外国の人はこの国じゃやりづらいみたいだな」リンタロの補足説明。
エピスコの目をかすめる仕事。
ピーフケとリンタロらしいチョイス。だれもやりたがらない、簡単そうでじつはヤバさにまみれた慈善事業。人として感謝はされるだろう。ただその当たりまえの感謝はこの国の不可思議なシステムの病に裏打ちされている。トルコのダンサーもインドネシアの奥さんも、本国ではまっとう極まりない人民だろう。韓国の学生さんはきっと超エリートだ。わざわざこんな国にやってくるほどの気概と探究心に溢れた、すばらしき人間。
しかしこの国をきっちりしきるエピスコにとって、外国人はただのノイズだ。管理しにくい、もめごとのタネ。人を見ずに憶測で十把ひとからげに管理支配する。
「そりゃたしかにワケありな仕事だな。どこから振られたバイトなんだ?」
訊くが、リンタロは下を向き、ピーフケはじたばたとソファから起き上がりながら頬骨のラインをかたくする。本気で面倒がからんでいるらしい。
オレは追求を勘弁してやった。ものによっては、知らない方が身のためという情報もあるのだ。
「ごちそうさん。今後また食い物が大量に余ったら、遠慮しないで二階に届けてくれ」フキを呼ぶ。「おい、行くぞ」
さすまたを入り口の横に立てかけながら、オレは思い出してつけ足した。「そうだ。昨日いっちゃんに会った。学校行けって言ってたぞ」
ピーフケとリンタロはぼんやりした目を揃ってこちらに向け、言う。
「へー」
オレも同じ気分だった。裸足で玄関に下りながら、とりとめなく思いを散らす。フキが革靴のままがたがたと追ってくる。
学校。へー。
ぼんやりしていたオレが悪い。認めよう。
いっちゃんの言っていたことやら、ギャロップの悪夢やら、フキとオハナ姐さんと消えた姉妹のことやら、つらつらとまとまりなく考えていたため、感覚が鈍っていたのだ。
いつもなら、ドアを開ける前に最悪の事態をいちおう想定する。いつもだ。命取りの目なんて、どこからどう飛び出してくるかわからない。一瞬先には死んでるかもしれないのだ。学習したことだ。死を想え。備えあれば憂いなし。
クロームで紋章の彫られた重いドアを押し開けて、ようやく空気の異常さに気がついた。
びりっ、と神経系が脈打ち、臓腑がすっと冷える。危険。
ぶわり、と左の前から向かってくるものに対し、とっさに両のこぶしを一点に固めて突き出した。びっと当たって逸れる感覚。油っぽくざらざらした人間の顔の感触を手の甲がすべる。べむっと醜い音がして、腱が伸びきった腕がきりきり軋んだ。
小デブ。目が真っ赤。瞳孔全開。頬と鼻が真っ白で青い血管が浮いている。
先日この店からご退場ねがった迷惑オヤジが、あきらかに変性意識状態っぽい顔つきでごんごん向かって来ている。
仕返し?
と思ったときにはすうと腰骨のあたりが冷たくなり、がっ、と叫ぶしかない痛烈なダメージが来た。痛覚以前の、ショック。全身がその一点にむけて収縮する。切られた。
小デブが大振りにふり回すカード・ダガーが、オレの一張羅の軍隊パンツを切り裂き、ついでにオレの一張羅の皮膚をも切り裂き、腰骨に当たってはね返ったらしい。うっすらピンクに濡れた刃先が「BUK」のダウンライトに輝き、なかなかなまめかしい。
のん気な感想を漏らしている場合ではない。オレは自分にどしどし指令を出した。今の傷をかばうな、脚と胴をたわめて両手でそこを押さえようとするな、体を伸ばせ、ちゃんと構えろ、目をかすませるな、負けモードに入るな、見ろ、隙を探せ、この馬鹿のふり回すダガーの刃は六センチはある、切られどころが悪ければ軽く死ぬ。
左足を踏み出そうとして、腰の痛点にスイッチが入ってオレは叫びそうになった。骨が欠けたじゃねえか、バカ。
体勢の崩れたところに小デブの刃物がけっこう嫌な角度で突っ込んできて、あ、ヤバ、と思った瞬間。
いきなりオレは空を飛んだ。
つるつるの床から足が離れ、風景がぐるりと回る。カウンターの向こうで鼻を押さえているジェニー、指のあいだから血がだらだら。ステヴァンがなにか叫んでいる。スツールのむこうに隠れるように積み重なる客たちの驚愕の目線。ちかちか光る割れたグラス。一瞬でそれらがオレのまわりを早回しで巡っていった。
走馬灯ってやつ? と思ったら床に足がつく。ぺた、着地と同時に胴体をつかんでいたでかい手がするりとほどかれ、背後でごおおおおと物凄い吠え声が響く。
フキだった。
オレをうしろから持ち上げてくるりと回転し、自分の陰に下ろしたらしい。猫をつまむみたいに簡単に。
オレがあわてて振り返った時にはごす、とへんな音がして小デブの腕がまちがった方向に折れ曲がっていて、こんと情けなくダガーが床に落ちるところだった。はねる小さな血玉。オレの。
笑っているように顔をゆがめる小デブの、あろうことか足首をつかんでフキは逆さに持ち上げて、ずだ袋でも振るかのようにざかざかと上げ下げする。小銭とライターと鍵と、緑の錠剤が入った小さいビニール袋が床に散乱した。
揺すぶられるたびに折れた腕がびくびく痙攣し、小デブはぎゃっ、ぎゃっと怪鳥か何かのようにわめく。
どさん、とフキは小デブを投げ捨てた。
涎と舌を吐き出して小デブはそこにのびてしまう。よく見ると目から赤っぽい泡が出ていた。
「トビちゃん、大丈夫カ」
携帯電話のフラップを開けて、押そうか押すまいかはっきり決めきれない様子のステヴァンが声をかけてくる。保安課や救急隊員を呼んだほうがいいのかどうか、わからずにいるのだろう。
「オレはなんてことない。ジェニーはどうした」
紙ナプキンを重ねて鼻を押さえながら、ジェニーはくぐもった声で言う。「鼻骨をやられただけだ。いきなり、そいつが店に入ってきて、あのガキを出せとか言いながらあばれ始めたんだ。止めようとしたら顔にチョウパン入れられた。完全にキマッてる様子で、まともじゃなかったな。お客を避難させようとしたときに、お前が入ってきて、そいつがナイフ出して飛びかかっていったんだ」こわごわナプキンをはずす。赤黒い血の塊にふち取られた鼻孔。頭突きをあびた災難な鼻。もう出血はおさまり始めている。
「オーナーに連絡して、そのバカの処分は上に任せよう。場合によっちゃ俺たちのクビも怪しくなるかもしれないがな。しかたねえ」
ジェニーは、小デブを見下ろして突っ立っているフキをながめた。まんざら悪くない歯並びを見せて、ニヤリと笑う。
「すごいの連れてるな。おまえのボディガードか」
切られた傷はそれほど長くはなかった。肉を裂かれたが、もともと骨が浮いて見えるような箇所の皮膚だ。大きな血管も傷つかなかったらしく、タオルで押さえているうちに出血は止まった。
傷口縫うカ、とダイレクトなことを言ってステヴァンがお裁縫セットを持ってきたが、オレは断った。あぶった針を曲げてちくちくと自分の皮を縫うなんて、ぞっとしない。救急箱の絆創膏をどっさり貼り、包帯で腹巻みたいにぎゅうぎゅう巻いて固定してしまう。がんばれオレの自己治癒力。
フキの様子が変だった。お客様をご丁寧に追い出したあとの、がらんとした店内にぽつんと大男は立ちつくし、自分の足もとを見ながらぶつぶつ口を動かしている。小デブは梱包されてストックルームで気絶中。
「フキ」
まちがってぶっ飛ばされないように注意しいしい近寄り、顔を覗く。箱詰めではじめてご対面したときみたいにものすごい汗だった。秀でた鼻先からぽつぽつと脂汗が滴る。ふうふうとせわしない息をつき、視線がここではない世界を見つめてくらくらとさ迷っている。全身から熱した気配。
「フキッ」
強く言って、目を覗きこむ。合わない。視線がまったく合わない。フキはオレのいない空間を見て、そこにはないものに恐怖している。神経が発火してちりちりと焦げくさく匂う。
「フキ、どうした。具合悪いのか、大丈夫か」
思わず、またも芸のない台詞をオレは言っていた。しゅ、と大きな肩の緊張がほどける気配。フキの目玉が白っぽい濁りから抜け出して、懸命にオレの目を探してうねる。がんばれ。
いつかの晩と同じく、ブルーの虹彩がすぼまったり広がったりして対象物を探していた。オレを感知したのか、そこに向けて一気に絞りこまれる。全身の力を使った焦点合わせ。きゅ、と目線が固定する。オレを見る。
フキの意識が戻るのがわかる。
オレはゆっくり熱い息を吐いた。一緒になってこっちも力を込めてしまった。左の腰を中心とした範囲がだくん、と鈍くうずく。
「気がついたか、フキ。あのな、助けてくれて、ありがとな」
まだ汗だらけのフキは、丸くなった目でオレを見て、またしても台詞をなぞる。
「ありがとな」
オレは思わず笑った。ひびく。腰骨がまるでダガーで切り裂かれたみたいに痛いよ。
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