4・電球ごはん
従弟の草也はハムスターを飼っている。
ジャンガリアンのサファイア、という種類らしい。
初めてそのハムスターを見せて貰った時、私は即座に、あ。美弓だ。と思った。
きょとんとした丸い目。ピンクの鼻先。あわく銀色がかって光る、やわらかそうな茶色の毛並み。
こんなに美弓に似た動物が世の中にいるとは思わなかった、と私は感動した。
草也は小学四年生で、すでに中学受験のために、猛烈きわまりない勉強人生を歩んでいる。ゲーム禁止、まんが禁止、テレビは一日三十分、塾は毎日、夏期講習に特訓合宿、新学期からは家庭教師もつける、と。
夏休みに甲府のおばあちゃんの家を訪ねた時、一年ぶりに会った草也は、ステレオタイプ万歳! と叫びたくなるような、見事なお勉強メガネをかけていた。
「ママは、視力矯正に行け行けって、うるさいんだけどね」
SF小説と哺乳類の好きな従弟は、細くやわらかい声でごちた。「ぼくはメガネでいいんだよね。なんか、かけてると安心するんだもん」
「メガネかけてないと、安心じゃないの?」
ピート、と名付けられたそのハムスターの、くりくりした背中を指先で撫でながら私は訊いた。実にまったくこいつは美弓だなあ、と思いながら。
草也はうん、とうなずき、勉強部屋の青いカーペットに落ちた髪の毛を、神経質な指先で拾い集めてゴミ箱に捨てる。
「かけてないとね、顔が裸みたいなんだ」
そう言い、草也はそっと両手を出す。私は掌の上でちょろちょろと落ち着きないピートを、その飼い主に差し出す。
ピートは草也の手の匂いをふんふんと嗅いでから、えいやっと嬉しそうに飛び移った。鼻先を上に向けて、草也の顔を見上げているように見える。
草也は自分の顔をハムスターに近づけて、ひよりとした鼻のてっぺんを、ピートの鼻面と一瞬くっつけた。よくわからないが、それが二人の挨拶か何かなのだろう。
私は、ハムスターが目を細めて鼻を鳴らすところを初めて見た。
「馴れてるね」
そう言われ、従弟は素直にうなずく。
「ピート、散歩?」
と、これは私にではなく、ハムスターに話しかけ(ピートはまるで、意味がわかっているかのようにくぷくぷと鼻を鳴らした)、小さめのおにぎり程度のその動物を、カーペットの上に慎重に降ろした。
「迷子にならないの?」
通子叔母さんが持ってきてくれた、葡萄の匂いのする紅茶を飲みながら、私は聞いた。
草也の部屋を見せてもらってまだ一時間にもならないけれど、通子叔母さんは何かと理由をつけて三回は覗きに来た。大事な息子がふらちな中学生に誘惑されていないかどうか、きっと気になるのだろう。
「なるよ。でも呼ぶと声のする方に向かって出てくるから心配いらない」
ピートはちょこまかうろうろ、お尻ふりふり、という美弓そっくりの走り方で、部屋を横切って草也のベッドの下に隠れた。じき、困惑したような顔で現れ、今度は電気のコードに沿って机の下の方に走っていく。
「呼ぶと来るの? ハムスターって、逃げ出したりしないんだ?」
そういうものとは知らなかった私は、必要以上に大きな声で驚いてしまう。ドアを隔てた廊下を、通子叔母さんがさりげなく通りかかる気配がする。
「馴れてないやつは、きっと逃げるよ。でも友達になると、ちゃんと帰ってくるんだ」
ピートはカーテンに興味を持ったらしく、揺れるグレーの縞柄に飛びついた。うまく手足を引っ掛けて、意外なほど器用にするすると登っていく。
「ピート、やめとけ。それはあぶないし」
草也が声をかけるのと同時に、ピートはあっさりと落ちた。四十センチぐらいの高さからぽてりとカーペットに落ち、きゅ、というような声を出す。
従弟がすかさず拾って、手に乗せる。
「ほーら、あぶないって言ったろ」
ピートは目をぱちくりして、でもちょっと恥ずかしそうに、鼻面を草也の指の間に突っ込む。
「怪我しなかったかな」
そう軽く声をかけたら、意外なほど重い声で、従弟は「たぶん怪我してる」と答えた。
「こいつの体の小ささから考えたら、すごい高さから落ちたことになるもん。ハムスターの骨って、糸みたいに細いから、ちょっとしたことですぐ折れるんだよ」
十歳の従弟の淡々とした口調に、私は目を丸くせざるを得ない。
「だけどさ、こういう小さい生き物は、痛い顔できないんだよ。怪我でも病気でも。弱ってるって顔でばれたら、大きい動物にすぐ捕まって食べられちゃうもん。平気なふり、するんだ」
「そうなんだ」
何だか不思議に切なくなってくるのを感じながら、私はただそう言った。
草也はうなずく。
「だから、こいつらチビでばかみたいだけど、すごく強くて賢いんだよ。な、ピート」
その時、通子叔母さんが軍艦のように揚々と部屋に入って来たので(飲み終わってもいないお茶のおかわりを持って)、ピートはプラスチックのケージに戻されて(「早くネズミ戻して手を洗ってきなさい」)、私たちの話はそこで中断されてしまった。
「電球のかけらが入ったごはん食べると、死んじゃうかなあ」
あの時、美弓はそう言ったのだ。同じ布団の中で背中を向けて。普段着のパーカーを着たままなので、首のところがもぞもぞするのか、しきりに衿を引っぱりながら。
「電球、食べたの?」
訊くしかなかった。取ってつけたような声になっていると、自分でもわかりながら。
あの冬は、美弓のご両親がやたら喧嘩ばかりしている時期だった。
何からこじれたのか、隣に住んでいる小学五年生の私にはもちろん分かるべくもないが、唯一よく分かっていたのは、「浜田のおじさんは、怒ると物を壊す」ということだけだ。
それも、家族の持ち物を。重点的に。
普段の、私がよく知っている浜田のおじさんは、おいしいものを飲み食いしたり、家族用の車に鵞鳥の絵を描いたりするのが好きな(絵描きなのだ)、おもしろいおじさんだ。
美弓のお母さんは明るい人だけれど、もとはすごい資産家のお嬢さんで、美弓が住んでいる家も、お母さんのご両親が建ててくれたものだということだった。
義父母と折り合いの悪い浜田のおじさんが、カッとなると家族の持ち物を壊すのは、そうした事情と関係あることなのかもしれない。
みつばちマーヤのコップを壊された日、美弓は見たこともないほど憔悴した。
まるで、シンクの中に魔法瓶を投げつけられて、他の洗い物と一緒に粉々に砕けたのが愛用のコップではなくて、自分自身の顔ででもあるかのように。
深夜、私の部屋に美弓が「避難」してきて、もも色のパーカーのまま一晩泊まっていったのは、伝統あるアンティークのランプシェードが壊された日だった。
食事の最中、常の如くに両親の口論が始まり、美弓は黙って、そこにいないかのように息を殺して、ひっそりとご飯を食べ続けていたそうだ。
口を挟んだり、席を立とうとすれば、両親からダブルで「お前は食べてなさいッ」と言われるのがわかりきっていたからだ。
味のないご飯を、きりきりねじれる胃に無理やり送り込む美弓。機械のように淡々と。
いつもの如く(と、私は想像するのだが)口論は沸騰し、しゅんしゅん煮えたぎって、両親は猛烈な蒸気を吹き上げて互いに火傷をさせようとしていた。
口の争いに負けた父親が立ち上がり(椅子を倒して)、背後にあったテレビのリモコンを衝動的につかむと、食卓の上に下がった高価なシェードめがけて、思い切り投げつける。
がつっ、ぱあん。
テーブルに不思議なかたちの影を投げかける、繊細なつくりの飾りが割れ、リモコンの弾道に沿って電球を直撃する。破裂。
部屋が一気に暗くなり、美弓の髪の上に、手に持った箸や茶碗の上に、しゃらしゃらと薄い電球の破片が降りかかった。
しゅううっ、と息を吸い込んだ母親は、さらに喉の奥の憎悪を爆発させた。
ものすごい呪詛の言葉を吐きながら父親に詰め寄り、憎みあうシャム双生児のような格好でリビングの方に移動する。暗闇では怒りが冷えてしまうとでも思っているのか、わざわざ明るい照明の下まで行って罵りあっているのだ。
美弓は、ご飯を食べる手を止めることができなかったらしい。
ロボットのように、きちんと椅子に座って、背筋を正して、ゆっくりと箸でご飯をすくい、正確に口まで運ぶ。口に入れる。咀嚼する。飲み下す。
割れた電球の破片がふりかかっているのは知っていた、たとえ電気が消えていて見えなくても、自分が何を食べているのかは分かっていた、と言う。
美弓は、よく噛み、ご飯の最後の一粒まで残さずに食べ、ごちそうさまという形に唇を動かし、自分の食器を台所のシンクまで運んだ。
それから、二階に上がって廊下の一番端まで行き、壁に背をくっつけて座って、両手でつよく耳をふさいだのだ。
「なんだかねぇ、食べちゃったんだよねぇ」
美弓は、不思議そうな、他人事のような声で話す。背中を向けたまま。
私は天井を見上げたまま、きっちり顎まで厚ぼったい布団に入って、少しだけうなずきながら聴く。
鼻の先が冷たい。冷える晩だ。美弓はどのくらいの時間、廊下の端で固まっていたのだろう。
喧嘩がおさまった頃を見計らって(お隣の騒ぎは筒抜けだ)、うちに住み込みの玉手さんが様子を見に行った。後で話を聞いたうちの父が呆れたことには、浜田のおじさんは気晴らしのドライブに、おばさんは実家に愚痴を言いに出て行くところで、美弓ひとりが取り残されていたのだという。
さりげなく捨てられていた美弓。
今はもう、浜田のおじさんおばさんはすっかり仲直りしていて、一家揃ってめでたく暮らしているわけだけれど。
美弓もまたきょとんとした、ハムスターみたいな顔をして、くるくると楽しげに暮らしているわけだけれど。
大切にしているものを、大人の力で壊されたことのある子供は、どれぐらい痛い気持ちがするんだろうか。ピートがぽきっと骨を折ったぐらい?
そういえば浜田のおじさんは、美弓にそっくりな目をしている。びっくりしたような丸い目。取り残されたような遠い目。
『痛くなんかないよ』と、言っている目。
浜田のおじさんも昔、大人に大切なものを壊されたことのある子供だったのかもしれない。
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