3・まつもとーはいーいなー
じっさい、コバ先生はよくよっぱらっている。
家族で晩の食事にでかけた帰りなど、商店街を通っていると、あかい顔をしてやけに陽気なコバ先生とはちあわせすることがある。
「やあやあやあやあ」
と、言うのはうちの父、浜田直三郎・四十五歳だ。
「あやあやあやあや」
と、おかしな返事をするのが先生だ。
「ごきげんですな、先生。つきあいましょう」
父も満面でニカニカして(飲み友だちなのだ)さそう。
「いやいや、生徒の前で、いやいや、いけませんなあぁ」
コバ先生はいつもいちおうそう言うのだが、けっきょくは父と肩を組んで、夜のちまたに消えていってしまう。
翌日が見ものだ。
朝のホームルームのとき、教室はかすかにお酒くさい。
コバ先生は一分に一秒のわりで顔をしかめ、うー、とか、おー、とか、うなる。水を飲みに行ったまま帰ってこないときもある(トイレでのびているところを発見された)。
だいたいのところはわかっているので、クラスのみんなは見て見ぬふりをしてあげる。
それって、コバ先生の得なところなのかもしれない。
もしも他の先生がふつか酔いで授業をしたり、父兄といっしょに朝まで飲み歩いていたとしたら、どんな生徒にもぜんぜん信頼されないだろう。
やなやつ、ムセキニンなセンセイ。と思われるかもしれない。
コバ先生には、どうしたわけか「んもー、この人は、しょうがないおとなだなー感」がただよっているのだ。
あきらめというより、微妙なシンパシー。
たしかにコバ先生はすかたんだが、すくなくとも、自分が中学生だったころを忘れてはいない。
その続きのまま、きっちりおとなになっているので、あたしたちと同じところで話をすることができるのだ。
逆に、あたしたちから見れば、コバ先生は「こういうおとなにもなり得る」未来像で、今の人生の先にありそうなものだ(どう考えても、あたしたちの続きではないし、子供だったことが想像できないおとなが、世の中にはひたすら多すぎる)。
だからだろう、あたしたちがコバ先生にお目こぼししてあげるのは……「自分だって、おとなになってから、絶望的にみっともない失敗をするかもしれないぞ」ということを、本能的に知っているからなのだ。
あれは、なつやすみで、かっかと頬がほてるほど暑くて、商店街のハワイアンがまだ、正気のさたに聞こえるときだった。
あたしは理貴ちゃんと、ちかくの大きな街まで行って、「犬猫虐待防止写真展」をみてきた帰り。
ターミナル駅からオレンジいろの電車にのって、五つめの地元の駅でおりて、自動改札でひっかかって(あたしは自分できっぷを買うとかならず、自動改札にひっかかる)、清算してようやく改札を出て、ハワイアンのながれる商店街の、ゆるい坂道を歩いていたときだった。
りとるばんぶーぶりっじ、っていう曲なんだよ、と理貴ちゃんが話しているその向こうから、赤鬼がうれしそうに手をふっている。
サムライたこやきで一杯やっていたコバ先生だった。
一杯というのはこの場合、たるに換算すると、ということだ。
まだ日も暮れきっていないというのに、先生はすっかりできあがっていて、せいろで蒸したみたいにまっかっかだ。すっかり目じりが垂れている。
「おおー、いいとこに来たあぁ。よっしゃ、いっしょに飲もうっ」
生徒にお酒をすすめているのか、この人は。
「だーめでーすよ、先生」
理貴ちゃんがやんわりとたしなめる。どっちが教師なんだかわからない。
「もうだいぶ飲んだんでしょ。からだにわるいよ。飲みすぎないで、はやく切りあげなさいね」
理貴ちゃんのそういう声は、怒っているわけでも、甘やかしているわけでもなくて、なんだかすごく自然だった。ふーっ、と響いてくる、海べりの風みたいな感じ。
あたしが感心したぐらいだから、飲んだくれのコバ先生はすっかり感じ入ってしまったようだ。
「松本はいいなあぁ」
そうつぶやくと、前を(この場合は、ドレッドヘアーにかっぽう着を着た、店員のさくちゃんがハサミでタコの足をこまかく切っている調理場のあたり)じーっとながめるような目つきをした。
ふう、と息を吐いて上を(屋根がわりのビニールシートにあいた穴から、濃いすみれ色の空が見えているあたり)向き、また言った。
「松本は、いいなあぁ」
おーいおかわり、と店の奥に叫んでおいて、なぜだか目をとじて首をゆするような動作をした。酔いがまわるだろうに。
「松本と、飲みたいなあぁー」
などと言う。教師のせりふだろうか。
理貴ちゃんはあきれたらしく、こりゃだめだ、聞いちゃあいない、帰ろう。と言って、さっさと歩きだす。
あたしもあわてて、理貴ちゃんのあとを追った。
背後ではまだコバ先生が、まつもとーはいーいなあ、まつもとーはいーいなあ、と調子をとりながら歌っている。
「だめだなあ、酔っぱらいなんだから」
理貴ちゃんがふふ、と笑いながら言う。
そうだね、とあいづちをうちながらあたしは、コバ先生がひとりきりで飲んでいたことを、テーブルには他にだれも同席した気配がなかったことを、なんとなく思い返していた。
理貴ちゃんは、そうは見えないくせに、ものすごく運動ができる。
ひじょうに不公平なことだ、とあたしは思う。
理貴ちゃんはどう見てもおしとやかなのだ。日本人形みたいにつやつやした髪を、肩口でスパッといさぎよく切り下げている。顔だっておひなさまだ。断言してもいいが、十二ひとえがよく似合う(なかなか着る機会はないだろうが)。
体育の授業のときは基本的にめんどくさそうな顔をしているけれど、いざ自分のところにボールが飛んできたり、トラックを走ったりするだんになると、そりゃあ鮮やかだ。ブルマー履いたピューマみたい。遠くでコバ先生が口をあけて見ていたりする。
松本のおじさんは、琉球なんとか武技という、古武術の師範をしている。理貴ちゃんの運動神経がいいのは、そういうお父さんに、ちいさいころから技を習っているからかもしれない。
あたしもいっぺん、松本のおじさんの道場に、レッスンを受けに行ってみたことがある。
長い棒をふりまわすやつ。軽いほうの捧だから女の子でもできるよと師範代の玉手さんに言われたけれど、どういうわけか、その日は捧の調子がわるかったのか、あたしの調子がわるかったのか、窓ガラスを三枚も割ってしまった。窓ガラスの調子がわるかったのかもしれない。
ともかく、それ以来、あたしは道場には行っていない。
こういうあたしのほうが、見た目では運動ができそうに思われるなんて、世の中はまったく不公平にできているのだ。
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