16・たくさんの涙、長い長い冬


 動物園の匂い。

 暗く、雑然とした室内。小型の竜巻が通り過ぎた後のように様々なものがなぎ倒され、壊れている。割れた鏡。踏みつけられた食べ物。私は靴を脱がずに部屋に上がり、すり足で静かに歩を進めた。右手奥に薄ぼんやりと明かり。耳を澄ますと、二階からごつっ、ごつっという奇妙な物音と、はあはあ荒く息をつく気配が聞こえた。

 私は階段を見つける。

 壊れていなければ洒落ていたと思われる、チューリップ型の照明に照らされた階段。上から下まで、雑誌が雪崩になって滑り落ちている。週刊コミックファンファン。表紙にはどぎつい色彩で、大人気連載テーミス、という大きな文字が躍っている。

「小泉君」

 私は階段の下に立って、上の方に呼びかけた。荒々しい息づかいが、ぴたっ、と聞こえなくなる。

「小泉君、私。同級生の松本。おぼえてる?」

 返事はない。

「聞こえてるよね? 怖がらないで。呪いなんかじゃないんだよ」
 足元の雑誌を注意深く除けながら、私は手すりをしっかりつかみ、一段ずつ階段を上った。
「すごく怖くて、不安だったでしょう。そんなに苦しんでいるの、知らなくてごめん」

 言葉は返ってこないが、ずっ、ずっ、と物を引きずるような、かすかな音が降ってくる。
「小泉君のお父さんに会って、話を聞いたの。大変だったんだね。自分が変わっていくなんて、私だったら怖ろしくて認められない。やっぱり呪いだと考えると思う」

 がつーん、と、何かが何かに当たる音。呻き声。怒っているのかもしれない。苦しい発作でパニックかもしれない。私が誰なのかまったくわからないかもしれない。クラスメイトをすべて恨んでいるかもしれない。

 階段の中ほどで私は立ち止まり、考えた。
 進むべきか。引くべきか。
 答えはとうに出ていた。
「臆病であってはいけないっ」父の声。
「ゴーサインが出たら、迷わずぶつかれ」コバ先生の声。

 私はまた進んだ。階段の上には暗い廊下があり、左手の方に伸びているらしい。どこに小泉君がいるのか、まだ見当もつかない。

「だけど、コバ先生はこう言った。それは、脳の下垂体というところの、とても稀な病気だって。放っておくと、小泉君の命が危ないかもしれない。危険な発作で苦しむかもしれない。だから、それを伝えに来たの」

 階段の一番上の段に立ち、私は息をついた。一瞬、足元が消失するようなものすごい恐怖が胸を突き抜ける。もしかすると次の瞬間、私はこの階段の下に突き落とされているかもしれない。
 でも。
「小泉君」私はまた呼びかけた。
「今、二階に上がるところ。そこにいるんだったら、もし、見られたくないのだったら、姿は隠して」
 一歩、足を踏み出した。

 雑誌や食物の残骸が山と積まれた廊下。すえた匂いと、熊の檻の前のような重い悪臭が、壁紙に染み付いている。
 私はゆっくりと左側を向き、廊下の行方に目を凝らそうとした。
 黒々とした大きなかたまり。

 ほんのすぐそこだった。二、三歩踏み出せば触れられるぐらい近くに、小泉君は立っていた。

「松本さん」

 大きく変形した顎が動き、聞いたこともないほど低い声が、ごろごろと転がるように吐き出される。

「ぼく、こんなふうになっちゃった」

 のしかかるように膨れ、伸びた体。せり出した巨大な額の下に、小さく孤独な目が光っている。小泉君の目。

 何秒か、何分かわからないが、私はどうしようもなくその目を見ていた。考えても、考えても、何を言ったらいいのか思いつかない。

 それで、右手を差し出した。

 小泉君の、腫れたような頬の上を、水滴がつるりと滑るのが見えた。

「大丈夫。あとは、みんなにまかせて」私はようやく言った。「つらかったね」

 暗い廊下に立つ、巨人のように大きな足の甲に、ぽとぽとと小さな涙がいくつもいくつも滴った。


 コバ先生が二階に駆け上がってきた時、私はしゃがみ込んだ小泉君の頭からすっぽり毛布をかぶせて、小山のように膨れた背中を静かにさすっているところだった。それが小泉君の望みだったのだ。

 美弓に話を聞いたらしいちびっこチームが、ぼろぼろに泣きながら階段を登ってきた。家に上がらないように、と、下で止めても止めても無駄だったのだ。ちびっ子部隊は警戒網を突破して上がりこみ、盛大に洟を垂らしながら小泉君を取り囲み、その巨大な掌をつかみながら泣いていた。どういう涙なのか、本人たちもよくわかっていなかったに違いない。再会なのか別れなのか、恐怖なのか安堵なのか。臭いをものともしていないことだけは確かだった。

 小泉君は、まだ彼らに姿を見られたくない、と願った。それで、ずっと毛布をかぶったまま、到着した救急車に乗せられて運ばれていった。階段から落ちて頭を怪我したお母さんと、付き添いのお父さんも一緒に。


 こうして小泉君は閉ざされた場所を出た。



 とても長い冬になった。

 小学生の時までは、クリスマスと冬休みとお正月が同時にやってきて、はしゃいだり退屈がったりしているうちに、時間はどんどん過ぎ去っていった。私はただ、受身でいるだけで構わなかったのだ。
 この冬は忙しい。
 まず期末テストというものがあった。一学期の期末とはレベルが全然違う。苦心惨憺したあげく、冷や汗の出る通知表を貰うはめになった。

 クリスマスにはケーキを焼いた。味はまあまあ、見た目は奇怪。たしかに精進の必要はある。

 お正月が明けてから、美弓と一緒に変わった旅行をした。電車を乗り継いで山梨に行き、小泉君のお父さんが働いている、情報誌の編集部を訪ねたのだ。

 そこは普通のマンションの一室のような会社で、大きなビルを予想していた私にはちょっと意外だった。
 『ぷらっつ』甲信・東海版、という雑誌のバックナンバーを見せて貰い、美弓を二人でじっくり記事をチェックした。予測どおり、去年の八月から何度かに渡って、ハムスター差し上げますという投稿記事が載っている。地域は山梨県内だ。
 記事を見た人が編集部に連絡し、それから電話番号や住所を伝え合うシステムになっているので、それに応募した人を探し出すことは可能だった。本来だったら外部には明かしてはいけない情報なのだが、小泉のおじさんはこっそりその連絡先を教えてくれた。会社と同じ市内だ。

 私たちは編集部からすぐに電話をかけてみた。
「よくなつく、しつけのいいハムスターです、なんて嘘じゃない」歯に衣着せぬ物言いの、そのおばさんはそう言った。「全然なつかないし、かわいくないわ。うちの子ももう飽きちゃってねー。捨てるわけにも、返すわけにもいかないから、ちょうど困ってたとこよ」
 私たちは小泉のおじさんに車で送って貰い、急いでその家に駆けつけた。

 たしかにピートらしかった。
 ケージがそのままなので見当がついたのだが、不機嫌に丸まったままで灰色に汚れ、毛並みも荒れている。ハムスターだけ見たとしたら、まったく判別がつかなかっただろう。
 私たちはその気の毒なハムスターを引き取り、その最寄りから一区間だけ電車に乗り、駅で草也と待ち合わせた。
 ピートは、草也の家から一駅だけ離れたところにいたのだ。

 ものすごい再会だった。

 愛らしい小動物とけなげな少年の物語なんて、あまりにお涙頂戴にすぎるから、ここでは語らないでおこう。美弓は目玉が落ちるほどもらい泣きしていた。そのことをからかうと、理貴ちゃんだってと反論されたが、なに、心温まる再会は、どんな人間の涙腺だってゆるくするものだ。
 通子おばさん以外の人間は、ということだが。

 ピートは今、美弓の家にいる。草也のところにいた時と負けず劣らず、溺愛され、なつき、陽気に肥え太っていると保証しておこう。
 草也も私も、正面突破で通子おばさんを説得する構えだ。絶対引かない。もう少しでおばさんは陥落する。私たちは元気になったピートを、喜んで草也のもとに送り届けるだろう。

 小泉君。
 私たちは……というのは、私と美弓とちびっこチームとコバ先生とクラスの全員、ということだが、本当にちょくちょくお見舞いにいく。看護婦さんに笑われるぐらいに頻繁に。
 小泉君は、冬のうちに大きな手術を二回もした。口の中から脳の腫瘍を切る、すごく大変な手術だったらしい。治療も時間がかかり、まだ入院中だ。
 まだまだ大きな姿だけれど、痛々しく腫れていた部分が元に戻ってきたので、穏やかな表情が見られるようになってきた。最近ではちびっこチームも、今の兄ちゃんのほうが前よりカッコいいよ、などと言っている。彼らは本当に病室に入りびたりで、小泉君もすごく楽しそうだ。

 彼のお母さんの方は、頭の怪我はごく軽いもので済んだそうだ。あとは痛めてしまった神経の治療を、ゆっくり静養しながら行なっていくらしい。生き方を変えるのだもの、きっと時間とエネルギーが必要だ。

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