15・理貴ちゃんがダライ・ラマに電話をかけに行っちゃった


 ぽつぽつと、雨が落ちはじめる。ようしゃのないつめたい風。おりたたみ傘を出して理貴ちゃんと自分の上にさしかけたけど、たちまち手がかじかんでしまう。理貴ちゃんが手をそえて傘をささえてくれた。
 コバ先生は傘もささず、大またにざかざかと歩いていく。小泉君のおとうさんも、つかれているだろうに異様にはやい足どりで、先生のあとを追っていく。

 きょうはテニスコートからもにぎやかな声はきこえない。ひょうう、というするどい風が、金あみをゆるがして渡っていくだけだ。

 小泉君の家のあるブロックに近づくと、あきらかにふつうではない気配とざわめきが立ちのぼっていた。近所の家のドアがひらき、心配そうな顔の人がようすを見に出てくる。二人、三人とあつまりはじめる人々。
 コバ先生とおじさんが顔を見あわせ、走りだした。あたしたちも傘をたたんで追いかける。

 さわぎは小泉君の家の中からきこえていた。
 どす、どす、どす、とにぶい連続的な音がしたかと思うと、なにかを突きぬけたようながしゃっという破壊音。ぱーん、とかんだかい音をたてて、うすくかたいものがはじける音。あたしはびくっとした。
 ひとつの家のなかの音が、こんなにひびくものだろうか。誰かが走りまわり、なんどもドサリと倒れるような音もきこえてくる。

「あっ、ラビットだ」「バンビさん」
 イーグルとシャーク、それにパンダがいた。三人ともうす手のセーターにズボンだけで、寒そうにくっつきあってふるえている。さわぎを察して、あわてて家から飛びだしてきたのだろう。

 しゃーん、と金属的な音響のあとにどすっ、と重くひびく音がして、あたしたちはなにごとかと目を見はった。
 いすだった。勉強机の前におくような、キャスターつきのしっかりしたいすである。それが二階の窓を突きやぶって飛びだし、歩道に落ちたのだ。窓の木わくが折れてぶらぶら揺れ、そこからはずれたガラス片ががしゃがしゃと降ってくる。
 あぶない、近よるな、とコバ先生が叫んでいる。それでも寄りあつまってくる人々。小泉君のおとうさんが工事現場の人形のように、やたらおおきく腕を振りまわしている。

 雨脚はよわまったが、あたりはまるでまっくらだ。夕方と夜のあいだ。あかりがともるいっしゅん手前の、めったに出会うことのない町の暗やみ。

 ばん、とドアがひらいて、大きな犬のようなものが転がりだしてきた。小泉家のポーチからつんのめるように落ちて、七面鳥のまるやきのように道にうずくまってしまう。ばさばさした髪をこめかみあたりにもつれさせた、女のひとだった。
 見ていた人はみんな、いっしゅん、はっ、と凍った息を吐いてすくみあがった。それから、ようやく悲鳴をあげたり、おくさん、小泉さん、とか、警察、救急車、とさまざまに言いかわし、走りまわりはじめる。
 小泉君のおかあさんの、髪の毛の内がわからとろりと血が盛りあがり、首すじを伝って道にしたたっていた。

 あたしはびっくりして自分の口をおさえ、どうしよう、どうしよう、と無意味につぶやいた。
 理貴ちゃんはと言えば、ただちに状況を見てとったらしい。瞬時にひざをたわめ、走りだそうとする。誰にも追いつけないはやさで、行動を開始したことはわかった。いつか見た夢の中の、スペシャルな運動神経でパニックを駆けぬける理貴ちゃん。

「理貴ちゃんっ、どこ行くの、どうするのっ」あたしは追いかけようとして転びそうになる。ぱっと振りむいた理貴ちゃんは、あたしの肩をささえて立てなおしてくれた。

「ダライ・ラマに電話をかけてくる」

 そういう声と、ごく小さな笑みをのこして、理貴ちゃんは跳んだ。
 あけっぱなしになっている玄関までほんの数ステップ。激流をわたる野生動物のように、的確なポイントを経てすらりと踏みこえていく。
 あたしがまるで動けず、声も発せずにいるうちに、理貴ちゃんは玄関口ですばやく中をうかがい、すっと吸いこまれるようにその中に消えた。ドアがばたんと閉じる。

 あたしは絶叫した。

 叫びつくしたように思えた数秒後、気がついてみるとあたしの口からはまるで声が出ていないのだった。悪夢みたいだ。
 みんなおかあさんのケガに気をとられていて、理貴ちゃんが家に入ったことに気づいていない。脚ががくがくする。
 ぱしっ、とつめたい雨つぶが、理性そのもののようにあたしのおでこに当たった。あたしは走りだす。
「コバ先生!」大声で呼びかける。こんどは声が出た。先生は小泉君のおかあさんのケガをしらべている。おかあさんは身を起こし、いまは歩道にぺたんと座っている。ぼう然としてはいるが、大ケガではなさそうだ。おじさんがその正面にかがみこみ、いっしょけんめいなにかを話しかけている。
「コバ先生! 理貴ちゃんが!」
「おお、浜田あ、ここはあぶないぞ、松本といっしょに家に戻りなさいい!」
「ちがうの、理貴ちゃんが!」
 自分でも、顔から血の気が引ききっているのがわかった。先生がそのようすを見て取って、こちらに走ってくる。
「松本がどうした!」
「理貴ちゃんが、ダライ・ラマに電話をかけに行っちゃった」
 先生が口をあけたまま固まった。あたしの目の中を、心配そうに見る。
「そうじゃなくて、ダライ・ラマっていうのはあたしたちの暗号で、先生、理貴ちゃんが、理貴ちゃんが、小泉君ちの中に入ってっちゃった!」

 先生の髪の毛がいっせいにさかだつのが見えた。玄関口を見て、あたりを見わたして、また玄関を見て、だしぬけに了解して突進していく。
 玄関のポーチに飛びのり、ノブをつかんでがたがたと乱暴にドアをゆすぶる。あかない。左のこぶしでどんどんドアを叩きながら、がちゃがちゃとノブをまわす。開かない。鍵がかかっているのだ。

「まつもとおおおおおお!」

 ほえるみたいに叫ぶ。
 どん、どんどん。両手で激しくドアを叩く。

「まつもとおお! あけなさい! あけてくれ! オレだ! まつもとおおおお!」

 二階のこわれた窓から、まだガラス片がちゃりんちゃりんと落ちてきているのだが、先生はもうそんなことなんとも思っていないらしい。
 あたしはどういうわけだか、泣きそうな気持ちになった。かなしいわけじゃない。
 先生はドアに体当たりを始めている。必死、というのはこういうことなのだろう。

「おおおおい! まつもとおおおお!」

「あの」
 声をかけにくそうにしながら、小泉君のお父さんが、コバ先生のたけりくるった背中をつつく。
 汗だくで振りかえった先生の目の前に、おじさんがちいさな銀色のものを差しだした。
「鍵」
 ん、と鍵を見た先生は、いっしゅん天をあおぎ、自分の額をぱーん、としたたか叩いたあと、すばやく鍵を受けとってドアをひらき、中に突入して行った。

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