10・最高にクールな煮物、コバ先生はモテモテです


 長葱は四、五センチほどの“筒切り”。火にかけた鍋で“素焼き”して、全体に焦げ目をつける。
 葱をいったんお皿に取って、空いた鍋に油を引き、鳥モモ肉を“一口大”に切ったものを投入し、“中火”で炒める。
 “焼き色”がついたら酒と味醂を入れて煮立て、煮あがったら味を見ながら醤油を入れて、最後に焼き葱を混ぜて出来上がり。

「で、いいんだよね?」

 復唱しながら煮物を小鉢に移す。なかなかおいしそうな匂いだ。初めて作ったにしては上出来だ、と私は自分を賞賛した。

「盛り付けも味のうちです、中央が高くなるように、見栄えよく置きましょう」

 玉手さんのチェックが入る。道場で武術を教わる時と、ほぼ同じ感覚だ。
 そういえば、“筒切り”とか“素焼き”というのも、技の名前のように聞こえる。にんじんを上段突きして塩コショウで腕ひしぎ。仕上げにパセリを乱取りします。
「これ、てっぺんに何か飾らないの。ミントの葉とか」
 玉手さんが絶望的に呆れた顔をした。
「ふつう、和食にミントは添えません……」冷蔵庫の野菜室から、パック入りの小さな葉っぱを出してくる。「木の芽、とかでしょう」
「木の芽。ふうん。見たまんま」
 それを菜箸で鶏煮の山の頂上に飾り、最高にクールな煮物を演出していたら、電話が鳴った。
 玉手さんが台所の壁についている子機を取る。
「はい。松本でございます。……ああ、はいはいはい、おりますよ、おります、お待ちくださいませ」
 誰、と目で訊くと、送話口を掌で押さえた玉手さんが、口パクで「草也君です」と伝えた。
 私は菜箸を流しに放り込み、電話を取る。

「もしもし。理貴ちゃん」
 従弟の声だ。ひどく心細く頼りなく響く。
「あのね携帯からだけど、少ししか話せないんだ。ママが後で通話時間チェックするから。あのね、ピートいなくなったんだ」
「えっ?」私は台所の柱の根方に、脚を投げ出してぺたんと座った。玉手さんが小言を言う口つきをするが、無視して子機を抱え込む。
「ハムスター、逃げたの?」
「違うんだ、ママが他所にやっちゃったんだ。これから勉強忙しくなるから、世話するのが手間になるって。ひどくない?」
「ひどい、それはすごくひどいよ。あんなに草也と仲良かったのに」
「そうだよね、ひどいよね」言葉じりがぶるぶると震えた。たちまち水気の多い声になる。「今日、塾から帰ってきたら、もういなかったんだよう……」
 ふうーっ、と息を吐きながら泣き声を抑えているのが聞こえる。私の目と喉からも熱い空気がこみ上げてきて、前歯が外れそうに痛くなった。痛いのを我慢していたら猛然と腹が立ってきた。通子叔母さん! 草也の気持ちぜんぜんわかっていない!
「どこに、どこにやっちゃったって?」感情を抑え抑え、従弟に訊いた。
「わかんない……欲しいっていう人がいたから、取りに来てもらって、ケージごと渡したって。可愛がってくれる人だから大丈夫よって、言うけど……。嘘かも……」喉の奥できしむような音。押し消された嗚咽。

「探そう」

私はきっぱり言い切った。後先など、とりあえず何も考えず。
「えっ?」今度は草也の方がびっくりした声を出した。「探せるの? どうやって?」

「大丈夫。まかせておきなさい」と言いながら何も考えていない。
「なんとかなる」

 受話器の向こうで、かちゃかちゃという小さな音がした。涙をぬぐう拍子に眼鏡が鼻から跳ね上がったのだろう。
「うん」従弟は答えた。「何かわかったら、携帯にメールして。学校にいる時間なら大丈夫。一度読んだら、すぐ消去しちゃうけど」
 可哀そうな草也。メールまでチェックされているらしい。
「大丈夫。絶対またピートに会えるから」

 私はそう言って電話を切った。ふう、とため息をついてずるずると床にのびてしまう。大言壮語したものの、何をどうしたらいいのかまるで見当がつかない。
「ほら、床に寝たりしないでちゃんと立って」
 玉手さんの小言が飛んでくる。はあーい、とだるく応じて、ぐにゃぐにゃと立ち上がる。
 それを見ている謹厳な師範代の顔が、なぜか妙に緩んでいた。
「なあに。何かおかしいの」
 すごむと、玉手さんの鼻の穴が広がり、口の端が震える。何事もないように湯呑みを揃えてお盆に乗せているが、噴き出す一歩手前という感じだ。
「『まかせておきなさい、なんとかなる』って言った時の、理貴ちゃん」手を止めて、ついに笑い出した。
「師匠に、お父さんにまるで、そ、そ、そっくり! 生き写し!」
 ひゃらひゃらと笑いながらお盆を運んで行ってしまった。私は一人、憮然とする。


 物事というのは待っていると起こらない。期待すると逃げていく。どうしてだかそういうものだ。
 私は運命の神様をだますのが上手い方だと思う。自分でも何を期待しているのか忘れてしまうほど、空々しく気持ちを逸らすことができるのだ。
 だから、この商店街にやたらと多い古着屋や古本屋の店先をひやかしながら歩いているうちに、当初の目的をきれいに忘れてしまっていた。「サムライたこ焼き」の店先にコバ先生の姿を見つけた時には、何でこんなところにいるのだ、という軽い怒りすら感じたぐらいだ。

 黙って目の前に座ると、先生はおっ、と言って腰を浮かせた。それから私だということに気づくと、座りなおして、いらっしゃいませー一名様よろこんでー、と奥に向かって言う。カウンターの向こうから、店員のさくちゃんがひょいと顔を出す。
 私はじっと、コバ先生の顔を眺めた。
「お酒、飲んでないよ」先生はテーブルの上の、マグに入ったコーヒーとたこ焼きの食べ残しを示す。手にしていた煙草とライターに気付き、慌ててそれを隣のテーブルに放り投げる。「煙草、吸ってもいない」両手をあげてホールドアップされたポーズ。
 私はわざわざ立って行って、放られたラッキーストライクと、さぼてんの形をしたおもちゃっぽいライターを拾った。返しながら言う。「飲んでいいですよ」
 ん、う、う、とコバ先生は言葉に詰まる。そっぽを向いてコーヒーを口に運びながら、慌てたように言う。
「あー、なんだ。制服を着た、明らかに学校帰りの生徒を前にして、その担任が酒を呑むのはだな、いかがなものかと思われる」

 今さら、いきなり、何を言い出すのかこの人は。

 しかしそう言うなら、と私は、かもめ色のマフラーをはずしてブレザーの上着を脱いだ。背負っていたジムバッグの中をごそごそ探る。

「あー、そしてだなぁ、学校帰りに、私服に着替えた生徒を前にして、その担任が酒を呑むのもだな、いかがなものかと思われる」

 私はバッグからクリーニング屋の袋を出し、白い上着を取り出した。
 通学用シャツとニットのベストの上にそれをはおり、茶色い帯をビシッと締める。

「ど、道着か……」コバ先生はへなへなと、テーブルのおもてに崩れ伏した。
「いいでしょう」空手着に有段者のベルトを光らせて私が言うと、「ああ、いいねえぇ」とやけくそ気味の声が応え、カウンターに向かってビールをオーダーする。

「松本は、何にする」
「ホットウーロン茶ともちたこ」

 先生はそのオーダーを店の奥に通し、それから私の周囲半径一メートルを、不思議そうに見回した。
「お。お神酒徳利はどうした」
「オミキドックリって何ですか?」
「いつも二つ一組で、同じような様子をして並んでいるもののこと。浜田は? 喧嘩でもしたか?」
 私は少しばかりふくれ面を装って、ゆっくり首を振った。
「ふられたのか」
「そう。美弓は他の誰かと忙しくしてるみたい」
「めずらしい事態だな」

 さくちゃんがビールとウーロン茶のジョッキを持ってきて置いた。白ペンキ塗りのテーブルががたがたと揺れる。私たちは、冷たいものと温かいものでとりあえず乾杯をした。

「先生は?」
 熱いせいか、ずいぶん味が濃く感じられるウーロン茶を一口飲み、私はそう尋ねる。
「むむん? 何がだ?」ぱくりと食べるようにビールを口に流し込み、鼻の下に泡の髭をくっつけた先生が聞き返す。
「ふられた?」
 コバ先生は一瞬目をみはり、ある種の鳥のようにひょこんと首を突き出した。たちまち笑み崩れる。目の端に小さな皺が躍る。
「なにいぃ? ふられたかだってぇ? 先生がぁ? はっはっは、そぉんなことあるわけないじゃないかあぁ。こう見えても、コバ先生モテモテだぞおう。巣鴨の商店街歩いてたらオバアチャンの集団にナンパされちゃうんだぞおう」
 巣鴨云々は本当かもしれない、とも思いながら、私は言った。

「機関車ひろば」

 ん、と言って先生はちょっと黙った。
「そうか。見てたか」
 私はうなずいた。鏡で見なくても、自分がまじめな顔をしているとわかる。
「ごめんね。先生。見るつもりじゃなかったんだけれど。美弓が付き合ってくれないから、仕方なく一人でポニーを見に行ったんです。そうしたら、偶然」

 うんうん、とコバ先生は首を動かして、微妙に気まずそうにしながらまたビールを飲んだ。

「黙っていようと思ったんですけど。その方が、思いやりあるのかなって。逆に、それって水くさくて冷たい態度かも、とも思った。わかんなくなったんです。それで、賭けしました」
「賭け?」
「はい。今日ここに来て、コバ先生がいたら見かけたこと言おうって。いなかったら、一生黙っておこうって決めて。どっちが正しいのか、本当に私まだ、全然わかんないのだけれど」
 先生はいつもの感じで笑った。はっはっは、と目を細めて。

「それはなあ、松本。どっちもどっち。どっちだってよかったんだ。人生、マルバツ問題ばっかりじゃないぞう」

 よくわからないので首を傾げた。がたがたと床を軋ませるさくちゃんの足音がして、餅入りのたこ焼きがテーブルにやってくる。

「ある人の個人的な事情を、誰かが偶然知る。気まずいものを見て取って、胸に秘めておくのは思いやりだ。だが、くだんの人物がそれを知った時、憐れまれたと思ってショックを受けるかもしれない。逆に、そのナイーブな心遣いに感謝するかもしれない。どっちになるかはわからない。タイミングと性格とその場の問題、ってのが関わってくる」

 珍しく饒舌にまともなことを先生が喋っている。これはネタ振りで後からオチがつくのだろうか。

「見たこと、思ったことを遠慮会釈なしに発言したとして、だ。それを聞いた相手が怒ったり傷ついたりすることもあるし、逆に、スカッとしてて気分がいいと感じることもある。これもまた、場の問題だ。正解はない」ごびごびと元気にジョッキを空けた。

「正解がないのだったら、どうやって自分の行動を決めていったらいいの」

 私は訊いた。それを訊いておかなけりゃ、この先どういうふうにして大人になっていったらいいのか、見当もつかない。
 コバ先生はまた、ははっと笑った。先生の目がこんなに明るい色をしているとは、今までまったく気付かなかった。カラーコンタクトみたいなブラウンの目。
「松本みたいにするのがいいんだよ」手首を返し、ジョッキの中の残りのビールをぐるぐる回す。
「コインを投げてゴーかストップかを決めたら、自分の気持ちもきっちりそれに決める。ゴーサインが出たら、迷わずぶつかる。それが一番からっとしてる」
 回転ビールを止めて、川面みたいに光る目を私に向けた。
「松本、すまなかったなあ。気まずかっただろう」

 どういうわけか私は狼狽して、やみくもにたこ焼きを突つき始める。中からとろけたお餅が現れて、悪夢のように箸にからまる。

「松本にそんな心遣いしてもらえて、オレは嬉しいよ」
 耳慣れない一人称にもどぎまぎした瞬間、お餅に支配されて悪となった割り箸が、私の中指にささくれを突き立てた。猛然と腹が立つ。話を逸らされているのだ。
「で、誰なんです? あのご婦人とお嬢さんは」
 切り下げた前髪越しに、横一直線の視線を走らせた。有効。今度はコバ先生が慌てる番だ。
「あー……。もとの妻と、娘だ。去年、別れた」ぽつぽつ言って、ジョッキの残りを流し込む。
「離婚したんですか?」
 私は驚いて訊いてしまう。もしかしたら、と思ってはいたが、目の前にいる実物の先生と、離婚という言葉がうまく結びつかなかったのだ。

「ああ。松本が入学する前だな。娘が生まれた頃から、オレは学校で担任を持つようになって、そっちのほうにばかり夢中になってしまったんだな。カミサンがどんなに心細いか、わかりもしなかった。赤ん坊とべったり、仲良くしてるからいいんだろう、って。母親は母親で、やるべきことがあるんだろうって。放ったらかしておいた。その結果、こんなことになった」
 二杯目のビールをさくちゃんに貰いながら、先生は少し早口で淡々と語る。また饒舌になっているようだ。

「娘はオレにまったくなつかない。当たり前だ。いつも学校、学校で家にいたためしのないオトウサンだ。帰ってくると酔っ払ってママを泣かせるし、ってな。カミサンには好きな男ができた。子供を可愛がってくれる、理解あるダンセイなんだそうだ」
 酔っているわけではないようだ。私の方を見ずに、口で笑って目の端で怒りながら喋っている。

 私はもちたこをクリアしようとしてあきらめ、ねばつく箸を投げ出した。

「先生」

「……んっ」

 一瞬のタイムラグがあり、コバ先生は個人的な物思いから現実に復帰した。私を見てどういうわけか息を呑み、目をみはった。そこにいるのを忘れていたようだ。

「自分自身を怒ることに、酔ってちゃ駄目だよ」

 ぽかんとした。あっけにとられた。うろがきた。どれでもいいが、コバ先生は一瞬だけ空白になり、私を見すえたまま爆発的に笑い出した。どうしようもなく。

「うわあ……やられたなあ、さすが松本だ、先生まったく完敗だあ……うわ、うわあ、言われたなあ。離婚以来こんなにスカッとしたの初めてかもしれないなあ、はーっはっはっはっはあ。……やっぱり、まつもとーはいーいなあ、まつもとーはいーいなあ」

「歌ってごまかすの、禁止」
 私はきっちりと釘をさした。

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