二十歳のころに書いたオハナシを発掘しました。
たしか、友達に三つお題を貰って、その場ですぐ短編を書く、という遊びに興じていたときのものです。
お題がひどくて
「1・主人公は貞造という名前 2・定年 3・イヌフグリ」という、
イジメとしか思えないようなものでした。
読み返してみて、もちろん稚拙なんだけれど、今よりもまるで普遍的なモノを書いてるんじゃないかオレ・・・どこで道をまちがって、奇矯なものばかり書くようになったのやら。
自戒のために載せました。もしや、い、今書いているものよりマシですか?
花の名前
冷えた、色ばかりの茶をひと口飲んで、貞造は立ち上がった。
椅子の鳴る音を耳聡く聞きつけて、課員の浜口が顔を上げる。
「嶋さん。今日はもうお帰りですか」
肯いて、ゆっくりとロッカーに向かう貞造の背に、浜口の不自然なほど屈託ない声が飛んでくる。
「明日の晩、『日の屋』で送別会ですから。お疲れ様でしたあ」
貞造は資材課のドアを開けて廊下に出た。
定刻通りに退勤するOLたちに混じってエレベーターを降り、外に出る。
外はまだ、かなり明るい。早春とは言え、冬に比べれば随分と陽が長くなった。
貞造は明日、定年を迎える。
都心の本社で、万年課長のまま任期を満了し、この郊外の子会社に移り、あっという間の五年間だった。
あとは永い永い、何もない老後が待っている。
妻は最近、呼びかけてもすぐに返事をしないことが多くなった。子どもは、ついに授からなかった。これといった趣味もなく、水の流れるように暮らしてきた。
貞造は、暮れ方の雑踏に流されて歩いている。
駅に向かう途中で、ふと気が変わった。
公園に足が向く。
会社の近くにある、動物園や博物館のある大きな公園には、それがあるということは知りながらも、一度も入ったことがなかった。
退職してしまえば二度と来る機会はないだろうと、不意に思ったのである。
春はじめの公園は、水鳥のいる池を囲んで、ひっそりと静まりかえっていた。
人影はまばらだ。
「結構、寒いな」貞造は独りごとを言ってみた。
次第に薄暮に落ちていく梢の影が、うそ寒い風に吹かれて揺れている。
誰かの投げるパンくずの餌に集まる鳥が立てる、密やかな水音。
貞造は、池のまわりをひと巡りすることにした。
自転車が二台、貞造を追い越して走っていく。
公演の管理人なのか、まったく同じ濃紺の制服を着て、同じ色に塗られた自転車に乗り、似たような身のこなしで並んで走っていく。
その姿が妙に可笑しくて、貞造は声を立てずに少し笑った。
橋を渡る。
塾に行くのか、手提げを持った子どもとすれ違った。
水鳥が急に飛び立ち、貞造の上に冷たいしぶきが降ってきた。
端の向こう岸。ベンチの足もとや、池の柵の下に、見覚えのある花が咲いているのが目に入る。
立ち止まり、顔を近づけてみる。
紫色の小さな花が、二つ三つと可憐に寄り添って咲いている。
昔はこの花が、どこにでも咲いていたような気がした。久しく見ていない。
何だったろうな、この花の名前は。
歩き出しながら貞造は思った。名前が思い出せない。
ぼんやり、考えながら歩いていると、前から来た男に声をかけられた。
「あの、ちょっと済みません」
男は三十代位か、カメラと大きな鞄を下げている。
「お勤め帰りですか」
貞造はあいまいに首を振って、いや、急いでいるので、と、口の中でもぐもぐ言い、足早にそこを離れた。
年の離れた人間と話すのは苦手だった。何を考えているのか分からないし、腹の底では馬鹿にされているような気がしてしまう。
そんなだから部下の受けも悪かった。
出世せずに終わったのも、それが大きな原因かもしれない。
貞造は池のぐるりを歩いて回った。
ひと巡りしたのだから、最初入ってきた公園の入り口に出る筈だったが、気がつくと貞造は一度歩いた場所にいた。
通り過ぎてしまったらしい。
苦笑して、ひき返してみた。が、妙なことに、いくら探しても入り口が見つからない。
おかしいな、と、貞造はひとりごちた。
まあいい。池の向こうからも、外に出られるかもしれない。
最初に渡った橋の所に戻ると、二台の自転車がまた貞造を追い越していった。
先ほど見た管理人たちである。ぐるぐる回っているらしい。
橋を渡りかけると、手提げの子どもとすれ違った。先刻の子どもとそっくりだった。
水鳥が飛びたち、しずくを散らす。
何もかも先刻と同じである。
向こう岸に出た貞造は、またカメラの男に声をかけられた。
「あの、ちょっと済みません。お勤め帰りですか」
貞造はやや呆然として男の顔を見た。
「僕は、『タウンむさしの』という雑誌の取材で、写真撮ってたんですが……」
貞造は慌てて首を振った。
「いや、ちょっと分からんので」
またも足早に立ち去る。先ほど、急いでいると言って逃げたのに、また会ってしまった気まずさで頭がいっぱいだった。
早く帰ろう、そう思い、見当をつけた脇道に踏み入る。
そこは、最初に渡った橋の前だった。
それからが大変だった。
貞造がどこをどう歩いても、最初の橋の前に出てしまう。
池から遠ざかり、もう公園の外だろうと思っても、元の場所に出る。
橋を渡れば、二台の自転車が追い越し、子どもとすれ違い、水鳥が飛びたち、カメラの男に声をかけられ、何もかも同じことが繰り返される。
陽はいつまでたっても暮れず、薄闇のまま。
貞造は走り、転び、また走り、池のまわりを何周も巡った。
そしてとうとう疲れ果て、くたくたになり、ベンチに腰を下ろした。
こんな公園で迷うなんて。いや、同じ人間と何度もすれ違うなんて。ぼけでも来たか。
貞造はがっくりと頭を落とした。
その足もとに、あの名前の思い出せない紫色の花が咲いていた。
「あの、ちょっと済みません」
何度も聞いた声がした。
貞造はもう逃げる気力もなかった。
「『タウンむさしの』という雑誌の取材で……」
貞造は顔を上げて男を見た。
「そこに、ほら、紫色の花が咲いているでしょう」
「え?」貞造は驚いて、花を見直した。
「今日、写真を撮っていて、その花が沢山あるのを見つけましてね。昔はどこにでもあったような気がするけれど、最近めずらしいでしょう。写真を撮ったんで、載せる時、説明を付けたいんですが。その花の名前、御存知ないですか」
貞造は小さな花をじっと見つめた。
まだそこかしこに原っぱがあった頃、春になると一斉に姿を現した紫色の花。
「あ、これはね……」
貞造の記憶の、さびていた辺りに一瞬ぱっとあかりが灯った。
「イヌフグリの花だよ」
「あ、そうか。そうですよね」
男は躍り上がるような身振りをした。
「雑草なんですけど、こういう花はいいですね。目立たないけれど、見つけると心が和みますね」
貞造は大きく肯いていた。
礼を言って立ち去ろうとする男に、貞造は声をかけた。
「あ、君……」
「はあ?」
「あ、ここ……この公園ね、駅に出るには、どう行ったらいいかね」
「I駅だったら、ここからが近いでしょう」
背後を指さされて振り返ると、貞造の座っていたベンチの後ろに、今まで見えなかった出口があった。
貞造はほんの数歩で外に出ることができた。
薄暮はようやく色調を変え、濃青色の夜が空を包み始めていた。
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