スクールメイツのみおちゃん



 さくらの花にすごく似てた。

 咲きはじめはどきどきと期待して、満開のタイミングに合わせて動けるかどうかにすべてかかっていて、
 いざ花のもとに来てしまえば日常すべて忘れて、ふわふわ白い雲に囲まれたとくべつな空間ではしゃいで、子どもみたいに、
 すべて許されてるみたいに安心して馬鹿をやって。時を共有して。
 でも散りはじめるともう時間は駆け足、ある日の嵐とともに花びらも地面から消えて。
 気がつくと何もなかったような平常、たんたんと過ぎる日々に戻り、数日ですっかり記憶も薄れてしまう。
 瞬間の想いだけが残ってる、でも手のひらの中にはもう何もない、すべり落ちていった春の光。暖かさだけはたしかに。

 そういう恋をした。


 埃っぽい風に煙草、先があかく焼けついて、ちりちりエイシ君の親指を焦がしてる。
 灰が飛んでくるからわたしは風上に立って、花壇からながく突き出た棒、の先でまるく時をきざむ時計を見てた。午後三時。
 病院の前庭は、ささやかな車まわしを兼ねてドーナツ型。真ん中にパンジーの花壇と背の高い時計。院名をきざんだ石のプレート。
 エイシ君のだぼだぼの黒いシャツがはためく。袖口からすこし刺青がみえる。鎖のもようのトライバル。
 あち、って短くなった煙草なげ捨てようとするから、だめ、ってわたし携帯灰皿オープンして差し出す。銀色の円筒、日差しぴかり映す。
 すこし汗ばんだ鼻先ごしにわたしを見る目、うなずいて、ていねいに吸いさしを灰皿に入れる。いつもの、唇の端だけのがんばった微笑み。
 エイシ君おおきく息をついた。ほぼ深呼吸。目を閉じて、浅黒い顔あお向けて空を吸うみたいに。耳から下がったクロスのシルバーがゆらり揺れる。
 じゃ、と口の中で言って病院の入り口を体で示す。行こう。
 歩き出しかけたナイキ・ズームエディションの足、ぴたり止まって振り返る。まともにわたしの顔のぞき込む目の色、怯えにちかい。
 ほんとうに? 本当にゆきさんはあいつに会ってくれるの?
 そう心で言ってるのわかるから、わたし力こめて微笑んだ。もちろん。
 わたし、エイシ君のだいじな人に会ってみたい。
 仏頂面にみえて気持ちすべて顔に出るエイシ君、俯いてまばたき五回した。口の端がまたがんばって微笑む。
 わたしたち黙ってゆっくり歩いて入院病棟に向かう。
 会いに行く。
 わたしの知らない女の子がねむる、病室に。
 スクールメイツのみおちゃんに。


 ハニーズというピザ屋だった。
 ガラス張り、昼間は陽光、十人も入ればいっぱいになるお店はリトルイタリアン街を模した雰囲気で、モツァレラと蜂蜜のピザが名物。住宅街近くのささやかな店舗。
 さくさく歩いて家から十五分、のところにあるお店、気まぐれな夜中の散歩のわたし、十二時近くにまだ灯りつけてる様子に気づいて近づいて。
 カクテル記した黒板が入り口に。深夜のバー営業も始めたんだ、知らなかった。
 何気なく入って小さいマルガリータとグラスのサングリア、カウンターに頼んでふくふく赤い布地のソファ、座って雑誌みてたら、
「あ」
 降ってくる声、ピザもってきた大きな影見上げてわたし目が丸くなってしまう。
 緑のエプロンがまるでそぐわない金髪突き立てて、両耳にがちゃがちゃ派手なピアス、鼻にもスタッド入った男の子。知らない種類のコロンがきつく匂う、食べ物のお店なのに。
「あの、ゆきさん、っすよね」
 言われて記憶はっきりリターン。そうだお花見のときの。
「ああ、エイシ君、だったよね? なぁに、こんな近所で働いてたの?」
 つめたい風の記憶が頬に戻ってくる。


「咲き初めない桜をアテにお酒をのみます・おヒマなら来てよね♪」
 そんなメールが携帯に入ったのが午後七時。ちかくの街で買い物してたわたし、帰るつもりがきびすを返して公園に。
 音楽サイトで知り合った、未だ会ったこともないひとからのお誘いだった。のどかなメールの文面と、いつもBBSにいる仲間も来てます、って言葉につられて。
 つめたい地べたにビニールシート敷いた酔客が三々五々、な花見名所の公園、
 ぶおうふお、とディジリドゥの音、とんかかと太鼓のリズムが響いてくる方向だと見当つけて歩いていったらどんぴしゃり。
 持ち寄った楽器鳴らしながら、七輪で羊肉じりじり焼いてる民族系な集いの皆さん、みごとに正体と国籍と年齢が不詳で。
 それでもサイトつながりの気安さで、ライターのゆきさんです、って紹介されて喋ってるうちに同化。すっかり。
 気楽で突発的な外飲みにまぎれて自由をふかぶか吸っていたら、視線と声。
 エイシ君です、うちの最年少、って主宰のボヨさんに紹介されて会釈する彼は今どきめずらしいほどの一見ヤンキー系で。
 不自然な金髪にピアスごろごろで目線もきつい、がニヤリ口の端まげて笑うから、
 うわぁ怖い怖い、威嚇? 思って引きかけてよく見たら、
 ちがった。
 いっしょけんめい微笑もうとしてるんだ。
 すこし安心して、なぜか両手かじかみがちにビールもって隣に来るエイシ君、に話しかけてみたら、寒いのに汗ばんだ鼻さき指で子どもみたいにこすりながら、
「あの。ライターって。どんな仕事するんすか」
 がんばって笑顔にしながら飾りのない声、ぼんと投げてくる様子、見たこともないほどまじめで必死で。
「ん、いろいろ取材して記事をまとめる仕事よ」
 答えるけどエイシ君は話がうまくない。そうすか、言って黙ってしまう。でも顔あげて口でぎこちなく笑みをつくる。
 ああ、この子なんだかすごくいい人だな。
 吹きさらしの夜宴でそう思って笑ったら前歯が凍りそうになった。袖口にのぞくタトゥー見て、
「そのトライバル、すごくきれいに入ってるね。他にも入れてるの?」
 尋ねたらエイシ君一分ほど口むすんで沈黙する。何度か首をひねるようにして、自分の手のひら、見つめてからそっと、
「ここ……」
 左肩を押さえる。痛いみたいにそっと。
「洋彫りすけど、色で。入ってます」
 見たい、言うわたしに驚いたような顔むけて、
「や、今はちょっと……」
 服の下だものね、すこし色っぽいモードで言ってみるわたしに怒ったような眉の気配が飛んでくる。
 あ、ごめん馴れ馴れしかったね、口に指先当てるわたしにエイシ君、解せない視線なんどか細切れに飛ばして、
「……あんまり、これは人に見せないんす」
 低くつぶれた声で言った。


 それきり、新参者としてはやばや辞したプレ花見、すっかり忘れていたエイシ君がピザとカクテルもって突っ立っている。
「あの」
 言うなり暴れるみたいに身をよじって、何をするのか、と思ったら緑のエプロン丸めてむしり取った。
「おれ今からまかない、なんす。厨房ん中で食べても、こっち、席でもいいんすけど……」
 このひと鼻が高いのに先がまるくてかわいいな、そのてっぺんにうっすら浮かぶ汗見えてわたし、いいなあ、と思って、
「じゃあエイシ君、ここに座って一緒に食べましょう」
 言ってしまっていた。ハイ、答えて口の端でがんばって微笑んでそくそくカウンターの奥に消える背中、それもいいなあ、って
 唐突だけれど真剣に、思い始めてた。


 なぜかコンビニ弁当とコーラ、をテーブルに置いてその不自然さ気にする様子もなくて、いいなあ、ってわたし三度目思ってた。
 豪快に、でも下品にならないラインの速度で食べながら、話へたなエイシ君、ぱっと顔上げてわたし見て、目を広げて二秒ほどみて、口の端でがんばって微笑んで。またうつむいてお弁当に集中する。
 すごくいいなあ、四度目、わたし思う。
「あの。ゆきさん、前おれの、ここのタトゥー、のこと、訊きましたよね」
 左肩おさえて、ようやく言う。わたしマルガリータのびるチーズを唇からひっぱってうん、とうなずく。
「見てほしいんす」
 なんで、と言うひまもなくエイシ君パイルの毛羽立ったシャツ、襟首ひっぱって肩を露出させる。
 ピザお皿に置いてそしてしっかり見る。黒光りする肌の肩、すごくセクシーだ。まいった。そこに、
 ハートを貫く矢、まとわりつくリボン、そこにはっきりとアルファベット、
「MIO」
 克明に。
 見て全身のちからがピザ屋の床に落ちるわたし、自分に驚いて。
 あ、女の子の、彼女の名前。リアル見せられてこんなに指先しびれて。あ、まずい。
 わたしエイシ君かなり本気ですきなんじゃないの。
 頭の中でがちゃがちゃ考え暴れる数秒、でも悲しむ筋合いじゃない。
 あとで、ゆっくり落ちこもう。
 なんだか、瞬時に恋して瞬時にふられたよ。
「ラインがブレずに入ってる、いい彫り師だったんだ。それ、エイシ君の彼女の名前?」
 エイシ君まるで夜明けでも来たみたいな顔色、輝かせてシャツの襟首もどして、
「ゆきさん、なんかわかってくれる気がしたんす……」
 なにがかしら? わたし彼女の名前見せられてけっこう心底へこみそうなんですけど。
「みお、付き合って、た……彼女、なんすけど……」
 えっ前カノ? って身を乗り出すわたし浅ましい。
「ジコ、で……」
 自己? いや、事故? なぁに?
「今、病院、いるんす」
 え。背すじ正すわたしにエイシ君、もう口の両端で笑みを、がんばって。
「あの。昏睡状態。ずっと。二年前から。……意識、戻るのか、治るのか、ぜんぜん、わからないんす」
 コンビニ弁当に顔を向けて目を苦しくゆがめるエイシ君、に、
 わたし声かけることもできない。


 聞いた。とにかく聴いた。エイシ君が肌に刻んだみおちゃん、の、事故のこと。
 スクールメイツだったんす、って言うから、ええ? って身を乗り出して。チアガールめいて全開の笑顔でおどる少女の姿、目に浮かんでくる。
 十八歳、オーディションに合格して。エイシ君と同じ、古本屋のアルバイトから巣立つ決心固めてレッスン、ぎりぎり時間つかって通って。あまりにも明るく夢見て。
「すごい頑張ってて、バイトいっぱいやってレッスンもぜんぶ出て、こんどテレビ出れるっていう話ですごく喜んでて……」
 バイトで仲良くなったエイシ君とは付き合い始めたばかり。はじめての彼女彼氏で、思いやりどう出すか二人とも間合い取りかねる初々しい、そんな日々。たぶん。
「青山に事務所あって、そこに行くんですごい急いで表参道、走ってて……」
 車高たかくずんずん音鳴らすアメトラ、角をするどく曲がりすぎて。
 走っていたみおちゃんの体を飾りのバンパーが引っ掛けて投げ上げてそしてくるくる回る、
 小柄な女の子を六メートルもさきに飛ばしてそこに、
 タクシーが突っ込んできた。
「タクシーの人、すげぇ可哀そう……。みおをはねたのはアメトラなのに、警察とかいろいろ来てタクシーの、せいになって。……運転手さん、みおの見舞いになんども来た、んすよ……」
 そう、そうなの、訊くわたしもうピザの味がわからない。
「アメトラの馬鹿は無罪になって、タクシーの人が懲役。……小さい子どもいる、いいおじさんだったのに……。判決の次の、日、首、つって死んで……」
 わたしエイシ君に惹かれた理由どんどんわかってくる、この人この歳でありえない苦労とこの世の裏側、きっちり感じてて。
 言葉を続けられなくなった沈黙、ふたりして聴いた。エイシ君が浅くみじかく息をする音、同じリズムに鼓動あわせてずっと聴いた。
 ようやく顔を上げる気配、見たら目も口もまたがんばって笑ってる。こっちが泣きそうになる。
「はじめて、おれ人に言いました、このこと」
 そう、っていっしょけんめい微笑む癖、わたしにも伝染した。


 おれ、つぎバイト、明日の八時から二時までなんす、言う言葉きっちり聞いて、
「じゃあ、わたしその時間にまた来るわ」
 ほんと? って見返す視線、
 ほんと。 って唇で返して、
 じゃあね、去っていく夜の底ガラスに反射した灯りにずっとこっち見てるエイシ君の目、
 とても痛い。


 夢に満ちて表参道を走る十八歳のかわいい女の子のすがた、何度も脳裏をよぎる。
 みおちゃん。スクールメイツの、みおちゃん。
 エイシ君のつややかな肩とそこに刻まれた名前、けんめいな笑みが何度も、消しても消しても浮かんでくる。
 仕事に身が入らなくて、パソコンで文章うわの空で打ちながら、思わずああー、って叫んでた。うっかり。
 同居人がなに、ってわたしの部屋をのぞきこむ。驚いてる顔に手のひら振って、ごめんごめん、なんでもない。って、
 なさけなく呟いた。


 なんて馬鹿なんだろう、思いながらつぎの夜、日付けかわる頃みはからってハニーズにてくてく向かうわたし。夜の道を歩む一歩につき鼓動がふたつほどはね上がる。心底どうかしてる。
 路地をぬけて通りを渡って、って、行き交う車の音ひびくところで勇気すこし。まっすぐ前みたら、
 こまった。ハニーズの灯り、ガラス扉の内側でもうこっち体ごと向いて、
 エイシ君突っ立ってまっすぐ視線ビームみたいに飛ばしてる。そんなの、仕事にならなくて店長に怒られるだろうに。
 目を合わせたまま通りを渡った。
 ふたりともがんばって微笑んで。


 二時間お店にいて、こわもての容姿できびきび働くエイシ君の背中、紅茶のみながら見てた。そっと。
 あからさまに見るとすぐ振り向いてこっちに微笑むから大変、営業妨害だ。わたしは。
 あの笑み、きっと。
 わたし想像する。
 たぶん仏頂面のほうがデフォルトのエイシ君、そういうキャラだ、でも伝染したんだ、きっと、
 スクールメイツのみおちゃんから。
 すきな人の癖やふるまい、かならず、自分を染めていくものだから。


 仕事を終えたエイシ君、を店の外で待って。
 まだ息が白くなる四月の花冷え、もこもこしたコートに着膨れて、自転車おして歩くエイシ君と歩調あわせて、わたし家とは反対方向だけれど、送っていくつもりで。歩く。
 ぽつぽつと話す。エイシ君の言葉は急に饒舌になったり、ふと止んだり。アンバランスだけど気持ちそのまま映してすなおだ。
 話題はほぼすべてみおちゃんのこと。みおちゃんが言ったこと、したこと。事故の前と後。口に出せないような苦しいことがたくさんあった、と。
 エイシ君の歩調も気持ちのままだ。とつぜん足取りが遅くなり、ほぼ止まってるような一歩、二歩。眉しかめて見るようすで、すぐそこが家なんだとわかる。手すりのさびた小さなアパート。
 いくら歩を抑えても、じきに着いてしまうエイシ君の自宅。アパートの階段下で自転車ハンドル両手にぎったまま、押し黙る。
「ゆきさん仕事とか、すげぇ忙しいっすよね……」
 そんなことない今干されてて超ヒマ。素早くひと息で言うわたしに光もどった視線、きちんと来て、
「あ、おれ明日休み……、あの、時間ある? どっか、行ったりとか」
 いいわよぅじゃぁ明日、んー、迎えに来る! 何時? 軽薄なほど口早にぽんぽん言ってるわたしにエイシ君はじめての本音の笑顔だ、目もと口もとくしゃくしゃになって皺がよる。子どもとおっさんを合わせたような、たぶん素の表情とても愛しくなって。
「じゃあね、じゃあ、新宿行こう! 五時! いいっすか?」
 迎えに来るね、言ってわたし手を振る。嬉しいばいばい。
 ずっと自転車ごと立ち尽くして顔の真ん中から笑ってるエイシ君、振り向いてなんども手を振って、
 わたし4キロの道のり歩いて帰った。


 いつもイヤで避けている人ごみももうどうでもよくて。
 となりにいる人の大きな体温と声しかわからない。でも触れず、近づきすぎず節度を保って。
 話はずっとみおちゃんのこと。めぐる西新宿のお店、ここはみおと来た、みおは苺のパフェ食べた、こんなことがあった、おれはこうして。
 きっと嫉妬する局面、だけど嫉妬のへたなわたしはエイシ君が嬉しそうなだけで嬉しくてたまらない。
 東新宿にまわって、またみおちゃんの話をする。今ここにみおいたら、きっとこんなこと言う、こうする、そう言うエイシ君の本気で本音で嬉しそうなすがた、すべて、
 わたし幸せでぜんぶ呑みこんだ。たぶんわたしも、みおちゃんが好き。
 エイシ君がすきな人だから。もっと訊きたい。
 夜に暮れて寒くなっていく歩道橋の上、夜景ながめてやっぱりみおちゃんの話をして。
 エイシ君は喋るたびに確かめるようにわたしの顔をのぞき込む。あのね、みおはね。ゆきさん、どう思う?
 わたし奇妙に的確にみおちゃんに関しての質問、ツボおさえて話し上手になってきてる、それでみおちゃんはどうしたの?
「あ、きっとみおは、言うと思うんす。ここで……」
 緑色に光る都庁を指さす。
「エイシまた来ようね、メイツで成功してもみおは、エイシとここで、一緒にあのビルを見上げていたいな、とか」
 言った言葉がリアルにリターンしたのかエイシ君なみだ少し浮いた目で夜空見上げて、ぱちぱちと四回まばたきする。
 そうね。みおちゃん戻ってきて、ほんとうにそうなったら。最高だね。


 ほぼ毎晩、ハニーズに通った。
 行くと言った時間にもう仁王立ち、ガラス戸にくっつくみたいに通りを眺めて待ってるエイシ君。だめよ、仕事にならないでしょう。いちおう言っては、みたけれど。
 浅黒い顔を電灯みたいに光らせて、わたしを目線で迎えるエイシ君に勝てない。すがた見えた瞬間に表情筋がもうどうしようもなく動く。ああ、って言ってるのが見える。仔犬じゃ、ないんだから。
 ゆきさん、ゆきさん、ってまとわりつく。仕事もちゃんとしなくなる。それは叱る対象。エイシ君だめ、あとで自転車おして帰るときにいっぱい話しましょう。
 スクールメイツのみおちゃんのことを。


 春先の夜、ほぼ夜中、毎日エイシ君と話すことはすべて、ほとんどそれに限られて。
 わたしむちゃくちゃにみおちゃんに詳しくなった。
 靴のサイズは23センチ。ブルーのチェック柄と動物のプリントがすき。ご両親は離婚してお母さんとお婆ちゃんとで住んでる、お兄さんは家出して行方不明。国語と家庭科と体育が得意。高校の部活はラクロス。白いフェレットを飼ってて名前はムク、「夢」が「来」ると漢字で書いてムク。
 縫い物もうまくておれのこういう服、ぜんぶみおがやってくれて、
 服ひっぱって言うエイシ君、がすごくありのままで、
「ほんとに素敵な女の子なんだね、みおちゃんは」
 わたし本気で言うしかない。だからこそエイシ君がだいすきで。
 そう、そうなんす、うなずいて常に泣きかけてるみたいなエイシ君、あんまり愛しくて触れることもできなくて。
 ゆきさん、って時に近づく視線をそっと押し戻す。エイシ君すきよ、だからみおちゃんのことすきなあなたのままでいて。
 困って、そしてがんばった笑み、で毎晩アパートの前でさよならと清潔に手を振る。
 よれたジャージに刺青とピアスもいっぱいのエイシ君。きょうも清潔なままで、そのままで。おやすみなさい。
 すごく愛してる。


 愛って痛みだ、エイシ君に借りた自転車ですいすい街を走りながら思う。
 あの人がすきで。そしてあの人がすきな人のことをすきになって。
 スクールメイツのみおちゃん。
 十八歳で人生を断ち切られたすてきな女の子が昏睡のまま成人式を迎え、
 そしてエイシ君のどうしようもない想いを受けたまま、
 こんこんと病室で眠り続けている。


「病院?」
 ハニーズの木目のテーブルはさんで、わたし杏ジュースのストロー口から放して言う。ここではもうお酒はのまない。自分をコントロールできなくなるから。
「会ってやって、ほしいんす」
 緑のエプロンぐちゃぐちゃに丸めて背中にはね上げたまま、エイシ君その頬をかたくして言う。今日もコロンがつよく匂う。
 会う。
 もしかすると、永遠に、魔法がとけるまで、
 ねむり続けるお姫様のような、
 スクールメイツのみおちゃんに。
 わたし二秒ほど数えて、うん、とうなずいた。


 渋谷の手前の駅で電車を降りて、
 繁華街から遠ざかる方向にゆっくり歩く。
 風がつよく、わたし髪をまとめてこなかったこと後悔してる。ばらばらに飛んで口に入る、だらしない乱れ髪。
 エイシ君の耳からちりちり長いピアスが後方なびくけれど、コロンの香りはない。
 今日はお喋りもあまりない。
 湿度のたかい風がばんと飛んで、わたしの髪の先思いきり目をたたく。もう、ってうるさい髪を束ねようとする両手に、ふっと大きな手が伸びて、
 右手のばしたエイシ君、の指先が止まって、小さく震えるほど迷って、
 温度だけが髪の表面を撫でて、ゆっくり引き戻される。
 悲しいのと嬉しいのが半々にブレンドされた気持ち、それが、
 たぶん切ないってことなんだろう。


 廊下にわたしはいる。病院の匂い、リノリウムの床と消毒と。薬品やエタノールよりも建物そのものが匂う、よく知っている匂い。
 わたしの母は四年間昏睡していた。病気で。その夫であるわたしの父はほぼ毎日その病室に通って。
「ミヅキちゃん、今日はどう。目は開くかな。おや、おもしろい口するねえ。かわいいな」
「ミヅキちゃん、看護婦さんにようく頼んでおいたからね。うちのママ粗末にしたらあかんぞぉ、言うておきましたからね」
 頑張った笑顔でむしろ楽しそうに、飽きもせず話しかけていた。毎日。
 それをわたしは黙ってみていた。
 今さらママをミヅキちゃん、なんて呼んでも。優しくしても。
 遅いのに。
 きっと今エイシ君も同じようにみおちゃんに話しかけてる。頑張って微笑んで。
 わたしが入れてもらえなかった、病室で。


 エイシ君は本気で暴れかけて、わたし全身むちゃくちゃに使ってそれを止めた。キレてしまったエイシ君は状況が見えなくなっていた、ようで。
「なんでこの人が病室に入ったらだめなんだよ!」
「家族だけって、おれも毎日きてんだろ! わかんねえ規則とかいきなり言うんじゃねえよ!」
 だめ、エイシ君しかたないことだもの、汗の匂いだけ飛ぶ大きくて強く動くからだ後ろから、関節もうねじって止めて。看護士さんをぶちそうだったから。
 肘があばらに入って本気痛かった、でもエイシ君落ち着かせるため背中をとにかく抱きしめて。はあはあ荒い息がナースセンターの受付を染める。
「ゆきさん、ごめん、でもおれやだ、こんなの。せっかく来たのに」
「エイシ君、みおちゃんだって、眠ってるところいきなり知らないわたしに見られたら、恥ずかしいかもしれないもの」
 乙女心がわからないの、だめだよ。ってあばら押さえてにっこりしてみる。
「だから、エイシ君が会ってきて。それで、わたしもお見舞いに来た、ってみおちゃんに伝えて。今日はまだ会えないけど、心配してはやく治ってほしいと思ってる人が、病院に来たよ、って」
 その時のエイシ君の顔はうまく説明ができない。
 でも強く呼吸して、肩をすっかり落として、でも瞬時つよく背中から全身を震わせて、
 冷たい目でおどおどしてる看護士さんに先導されて、
 黒いだぼシャツの姿が廊下のむこうに消えた。


 どれほどの時間がたったのかわからない。
 携帯は電源を切っているから時計がわりにならない。
 わたし廊下の隅、なつかしいピンク電話の横のスツールに座って、
 リノリウムの匂いの中ずっと、
 鮮やかなカラーの衣装つけたみおちゃん、もう想像の中ではっきり姿みえるみおちゃんが、華やかなポンポンを両手に、
 テレビの画面で軽快に飛び跳ねて、スターのまわりを賑やかに彩るすがた、その元気な手足、口の端と目じりを大きく動かすあかるい笑顔、
 現実以上にくっきり。思い浮かべていた。


 ぎゅ、と軋む足音もどってきて、エイシ君は顔を上げない。
 わたし立ち上がって、無視して通り過ぎるみたいな姿とにかく追う。
 階段をおりて。一歩ごとに身を落とすみたいな足取りのエイシ君、その背中わたし見て。目線でしかいたわることできない。
 ドアを開けて外に出てもとの前庭、ドーナツ型の丸いささやかなスペース、に立ったところでエイシ君ポケットから煙草取り出して、
 指にいっぽん白いのをはさんだ途端、口もとを曲げて、煙草を地面に取り落とし、
 その背中を大きく震わせた。


 触りたいけれど触れないわたしはそっと前に立って、差し伸べたい腕を手をもどかしく組み合わせる。見ることしかできない。
 エイシ君はでも泣いてはいない。むしろ枯れたようにかわいた目、うつむいて見開いて、かちかち震える歯をけんめいに舌の先でなだめている。
「のどに……」
 かすれた声が響く。エイシ君じぶんの首を絞めるみたいに手を当てて、言葉ようやくしぼり出す。
「みおの、歯。抜いてた……。痙攣で、奥歯、折っちゃって、それが喉につまって、呼吸が、できなくなると、危ないからって……」
 西日を浴びたエイシ君の金髪と表情がそぐわなくて怖い。
「歯、ぬいて。無理……、まだ、口のとこ、血……、それで喉、切開して呼吸器、いれて、もう」
 脚ががくがくしてくる日差しの午後。街はずれの病院に響く音はあまりにものんびり、唸る蜂の羽音みたいな遠い車の音。
「もう、みお、二度と、声が……」
 だめだ、エイシ君にシンクロしすぎて衝撃、ひどくて。わたし何もまともなことが言えない。
 いっしょの気持ちダイレクトに感じる以外になにもできない、情けない。
 気がつくとわたしたち花壇のもと、怯えた子どもみたいにしゃがみ込んでからだ小さく、丸めるようにして、
 世の中のむごさから逃げて隠れるしかすべがないように、息をころして。
 影だけを触れ合わせて、叫んでしまいそうな気持ちに耐えていた。


 何秒。何分。何時間。
 わからない。でもエイシ君がゆっくり立ち上がるまで、すごく間があって。
 わたしも遅れて立ち上がる。膝がぎしぎし痛む。
 ふくれたような愛しい唇、長い前髪の陰に見せていたエイシ君、がようやく、どうしても、
 また頑張って微笑むのが釘のようにわたしに刺さる。

「ゆきさん、みおに、会ってくれたら……」

 風がまた髪をはね上げて目を痛ませる。でもどうでもいい。わたしなんかもっと痛くなったほうがいい。

「何か、変わるような……」

 エイシ君言ったことば苦いように眉を苦しく。ひそめて、

「気が。してました」

 西日が爆弾のように膨らんで、大きくわたしに落ちてくる。


 脳裏につよく浮かぶのは、いつもの黒い自転車だらだら走るエイシ君、の背中にぴったりくっつくように、あかるく笑うみおちゃんの、はじけるような新鮮なすがた。


 今は目の前に立つエイシ君、その目が鼻が口が表情のすべてが髪が体が香りが雰囲気が。
 まっすぐわたしを刺している。

「ゆきさん」
 すっと腕がのびた。

 わたしも右手を伸ばし、ゆっくりと、しっかりと、その手とはじめて握手をする。
 熱くて、そして言わない情報がぜんぶ手のひらを通じてお互いの体をかけめぐる。
 ずっと、右手の先を握りあっていた。かたく。どうしようもなく。

 風が吹き、西日が傾き、世界は容赦なくまわる。
 病室で眠るみおちゃんを、止まった時間をものせて。

 ひどく時間がたつ。世界はもう薄闇に近づいている。

 眉の端で時計、長い棒の先の時計をちらり見るエイシ君、濃く声を出す。
「あと。あと五分。このままで。お願いします」
 骨が鳴るほどわたしうなずく。でも時計見てしまう。時間は酷薄に、でも。

「もう五分。五分お願いします」
 エイシ君はっきり強く言う。握った手がもうすべるほど、汗ばんで。

 五分がたつ。時計の針がそれを知らせる。

「あと五分……」

 エイシ君の声がにじみ始めていて、

 もうふたりして手がぶるぶる震えているけれど、

 これを放してしまったら、世の中にあと何が残っているというの。

 五分、言うエイシ君の言葉かさねて、みじかい針が二周まわるまで、

 わたしたちずっとお互いの手をつよく握っていた。



 嵐が吹き、地上に落ちた桜の花びらをすべてさらっていった。

 雷鳴と暴風の通り過ぎたあとの窓を開き、わたし夏に近づいた空気を顔に受けてみる。
 空から降る空気がむっと強い。今日は夏日だ。

 瞬間的に沸騰して心を本気で体験するのが恋なんだと思う、そこに計算や考えはまるでなくて。

 あれ以来、ハニーズには行っていない。
 エイシ君に、会っていない。

 ほんきだったの、呟いて夏っぽい空を見てみる、心がすこしだけ広がる。痛みがやわらかくなる。

 エイシ君。たぶん二度と会わない、エイシ君。
 すきだった。気がくるうほど。だから、
 あなたはずっとみおちゃんのこと、想っていてほしい。
 わたしなんかに、よそ見せずにね。

 だいすき。それ感じられるだけで、充分。

 いつか戻るスクールメイツのみおちゃんのこと、とてつもなく本気で、

 エイシ君とふたり自転車で走るところ、

 痛く痛く幸せに思い浮かべる。


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