氷原、飛んでそれは

・・・



 しろくまの足はすごくでかい、骨と筋肉の振動つたわる背中にみっしり、ちょっと毛皮だぶだぶするのに両手と腿のちからで無理無理しがみついて、どっすどっす走るのオレ振り落とされそう。

 ぴっしぴっしと凍った道でかい爪がこまかいひび入れて一瞬で跳んでまた着地、しろくまの毛は生ごみ焼くけむりみたいにくさい、握ってる指にぞろぞろ奇妙な虫、這い上がってくるけどオレどうでもいい。しろくまから離れない。ふな酔い、ちがったクマ酔いしそうな上下動もがまんして。がまんして。乗って。

 空はどうしようもない曇天、だって雪の国だ。ちょろっと見上げる目にしろくまの毛が鋭くささる。きっと神様ヘビースモーカー、空はたばこの息そっくりに濁って。

 オレ雪の国への国境こえて馬鹿みたいな冷気きっちり頬と手と目玉とに受けてちょっと凍ってる、でもしろくまの背はあたたかい。むっしり毛が詰まってそりゃ虫も住むよ。極寒の地の要塞みたいな乗りもの、オレのめざす場所への。

 北極星ひかる無限の夜空に吹っ飛ぶ風、とどこまでも目を回す規模の地平線、凍った、遠くにちいさい光。目じるし。
 きっとあれが雪の女王のすみか。

 ぱきり氷わる激烈な走りに耐えておれ片目で見つめる、そこに行く。絶対。



 きのう夕食の時間のあとにオトウサンに呼ばれてやっぱりオレ怒られた、庭のせんだんの木の根方に立たされて二時間。お説教。

 昼間の農作業にオレ行かなくてさぼって教室のぞいてたからってお説教。長い長い。

 だって教室のほうが面白いんだ、この施設の中にできた分校、地域の小学校から先生が来て理科とか理科とか理科とか、教えてくれるオレ理科がやってみたいんだ。

 いろいろ実験しててたのしそう、オレ窓に鼻と頬くっつけてずっと振り子の実験みてた。クミに告げぐちされるまで。

 クミやたらオレにかまう、保護者きどりの十二歳。児童自立支援施設の優等生。悪さして親もとにいられなくてここに来たのはオレと同じ、みんなと同じ。

 ちょっとちがうな、クミは純粋に捨てられっ子だ。ある日目がさめたらろくでもない親御さんは二人そろって雲隠れ、どこか楽しい責任ないパラダイスにバイバイ。小さい弟たちかかえて数ヶ月生きのびたクミ、あけっぱなしの近所の家から軒先忍び、どうぞとばかりに置いてあった果物と菓子かっぱらった。仏壇のお供え。通報されて。

 かたい顔色してやってきた施設ですぐ順応したクミ、なかなか世渡りうまい。オレ、そんなのだめで。

「カーくんどうして決められたことをちゃんとやらないの?」

 クミに怒られてもだめ、オレここでも駄々っ子で問題児。だって合わせたくない、オレはママの血が流れてるんだ。

 オレのママはとんでもない自由人、だれにもとらわれない無茶なやつ。アイスランドと日本のハーフ、歌をうたうのが生きがいで、歌いながらルーツさがして日本にやってきた。

 クラブで歌って、伴奏してた親父と出会ってオレを生んだ。そしてスピーディー離婚。理由は親父が女子どもをグーで殴るやつだったからって。早いよママ。なんでもかんでも。

 そしてママ、浮き流れて歌う生活、なんども強制送還そのたびにオレ施設。親にはふさわしくないって烙印ぺたぺた押されてもう大変、いくども引き離されてでも再会するたび力づくのハグ、オレと離れたくないんだってわかった。

 ママとのとぎれとぎれの生活、オレ思い出ぜんぶたのしい。だってめちゃくちゃなんだ。

「ねえカイト、今日は二人とも原始人の気分でやってみない?」

 ママにそう言われてオレ躍り上がる、うれしい気持ちで高揚して。そう言えばママは言葉も教えてくれた、それは「高揚」よ、とか、
「躍り上がる」ってこうするの、とか。

 オレたちうっほうっほ、猿人みたいにふるまってご飯手づかみで食べたり、食後すぐにげっぷして床に寝そべったりした。わくわく歌いながら。

 ママといると光がきちんと見える、よごれた窓からまだらにさしこむ光見て、ごみだらけのアパートの床にすかんと座ってしっかり息をして。差しこむ光線にちりちりほこりが躍ってた、背中から暖かく、て。

 だって抱きしめられてるから。

 ある時はママと一緒に魚ごっこ。アパートの床に水まいてきろきろ磨きながら、モップや雑巾もったオレたちも溺れそう、どしどし来る水流にきゃあ、大騒ぎしながら。
 すごく楽しい、でもその後すぐ近所のひと来るんだ目をしかめて。しわしわで。

「迷惑な大騒ぎはやめてくださいっ」

 怒られてママはオレの肩両手であったかくつかんだまま、うーんごめんなさい、口とがらせてやわらかい声で言う。ゴメンねですメイワクしました、気をつけます……

 でも、ねっ。オレを見るあおい瞳ぜんぜん反省してない。メッセージ。こんなうるさい世の中でわたしたち楽しくやっていきましょう。

 オレうんうん、ママにうなずいてうるさい世間にきつい目を飛ばす。ほっといてくれよ、オレたち楽しくやっていきたいんだ。



 でもそうはいかなかった、ママはまたしても登録や申告をきっちりやってなかったってことでお国に送致、チビのオレまたしても、施設、に。

 養護施設からなんども気軽に逃走して道ばた、空と風のあいだでのびのび息して、店さきのものパクって暮らすほうが楽しいオレはすぐ家裁。「不良行為をなし、またはなすおそれのある児童」って声ががつんと降ってきて十三歳、自立支援施設にこんにちは。



 ここの施設ってすげえんだ、みんなのため、世の中のためにマジメにしてないと殺される。いや殺されはしないか、オレがオレでいることを寮監のオトウサンに殺されそうって思ってるだけ。

 クミ言う。
「カーくんはすごく損だよ、いい子にしてれば学校も行かせてもらえるのに、なんで規則やぶるの? まじめにしてたらちゃんと授業出られるようになるんだよ?」

 必死必死の声で言ってくれるクミえらいんだろう、すごいんだろう。すごくすごいな。

 オレと違ってするどく黒い目のぱっきりボブに髪そろえたクミ、ある種の尊敬する。まともで、えらいな。

「カーくん何で規則って言われるとすぐキレちゃうの? 暴れるの? 決まったことはきちんとしたほうがみんなのためでしょう、どうして守らないの?」

 正論だよ、クミ。おまえが正しい。

 でもオレは正しいものなんていらないんだ。



 朝六時はーん、起床洗面おかたづけ。朝めし前にみんなで中庭ラジオ体操だよ、って、すがすがしくて涙が出てくる。みんな一緒一緒おそろいのジャージ着るだけでもオレはかなしいなあ。みんな気にしないのか。すげえ人間できてるな。

 んなわけない、オレと似てぐだぐだなのも何人もいる、入ってきたばかりのやつなんかとくにそう。目じりがハサミになってるみたいにぎちぎち、周囲を切りさいてにらみつけるザ・ひねまがり。

 でも施設のオトウサンにこんこん説教されてオカアサンにどんどんケアされてるうちに丸くなる、ほとんどのやつ丸くなる、集団生活ばっちり適応してラララ良い子のできあがり。なんだかんだ言ったってたいていのやつは根っこがさみしいんだ。

 さみしいガキの来るとこだ、親もとや学校や生きてた場所からひとりはじかれて、巣から一羽だけ落ちたひな鳥みたいにぴいぴい狂ってたやつが来るとこだ。受け入れられて集団のなかまになったら顔がゆるむ。ひんやりこわばってた背中ほどけてくる。すすんでモップ持って宿舎の玄関先ごしごしみがいちゃいますよ? 何しろオレわたくし僕は社会に役立つうつくしい青少年。

 べつにかまわない、いいことだとおもう、ひとごとなら。

 社会不適応あるいは養育者が不適格で生きにくくって困っちゃう、子どもが施設に来て迎えられて育てられてああ安心、ダメダメだと思ってたボクがみなさんのおかげで一人前になりましたありがとう、では社会に貢献いたしマス! って巣立っていくのはパーフェクトに正しい、正しい、正しい。

 でも正しい、って。さ



 クミとキスした。施設の中庭。これって規則違反とかじゃないのか。キス、とか。

 暑い陽光降りしきる芝生の、洗濯したシーツはためく中庭の片隅、一瞬の隙を突いてやってみたかったこと。女の子とキス。

 カーくん、てまた文句言いつのるから、うるさくて可愛い顔とん、と寮舎の壁に突いて、前からやってみたかった通りに髪と頬に手をくっつけて、うん、て目を閉じたクミの唇に。

 してみた。それだけ。

 唇はすごく柔らかくてふねふねたゆたう。ふ、て吐いたクミの息が鼻に、柔らかく。

 いいんじゃん。なかなか。

 思って立ち去る背中に声、

「ね、これでもう、恋人だよ、ね……」

 これで。それで。

 オレぷつっと背中の毛穴が開いてあせって、まずった、何か本気で。



 クミもはや恋人きどり、オレにいちいちうるさくかまう。

 恋人ってのはあれか、何でも面倒みる親と何でも言うこときく犬とがいっしょになったやつか? とりあえずクミにとっては。

 ってことはオレの夢とか、理想とかも聞いてくれますよね、って言ってみても

 ぐんぐん首振って
「カーくんわかってない」

「クミの言うこと、なんできいてくれないの?」

 おっそろしい。まじめなクミ、きっと正しい。



 めずらしい客、保護司とか里親希望とか見学とかじゃない、なんと卒園生。

 ドリル学習の時間オレすばやくぬけ出して前庭、寮の入りぐちから見えないでかいとちの木のかげに座ってちいさく鼻唄。地面ぴやっと冷たくて秋っぽい。湿った葉っぱのにおい。

 漢字ドリルなんで決められただけやらなきゃいけないのかわからない、オレはママに習って日本語ならそうとうにできる、なのに強制ドリル、むっつり座って一時間こつこつやれってさ。なんで。

「きみ、入園生?」

 いきなり声おちてオレ尻から飛びあがる、ひくい観音開きの門の上に顔にゅっとつき出して、気弱な笑顔。知らないおっさん。

「なつかしいな。ぼくもよく、そこに座って日課をサボったもんだよ」

 てことは先輩。オレ立ち上がって尻はたいてぼやけた丸顔みつめた。

 よく見ると若い、でも肩ちぢこめる疲れた姿勢と、やぼったいズボンにだぶりとたるんだ体のせいでおっさんぽく見える。汚れたドタ靴なんだか地面にめりこみそう。

「ぼくがインターホン押す前に、きみ、寮に戻ったほうがいいんじゃないかな」

 そりゃそうだ。オレ無言だけどいちおう頭下げてさっさと身をひるがえす。オトウサン出てくる前にすがた消して。

 窓からつるんと宿舎の廊下に忍びこみながら、おっさんみたいな先輩、のやけに力ない様子、やたら頭のすみに引っかかって。



 勉強室に戻ったオレ見て目を三角にとがらせるクミに喋るな、って合図なげつけて、ドリルやる気はしない、作りつけた戸棚の上にざあと積まれた寄付の本、てきとうに取ったらへんな童話、アンデルセンか。ママ話してくれたことある、確かめたくってページぱらぱら繰る。雪の女王。

 記憶にある話とぜんぜんちがってた。

 まじめにドリルやってる同じ宿舎の八人クミ以外は全員オレを無視。まいど規則やぶるオレ関わっても自分が損するだけ、見えないものとしてきれいさっぱり黙殺してくれてる。

 生きかたうまいな、おまえらも。



 で結局またオトウサンに怒られるオレはまるで学習しないアホの子、指導室で高らかにお説教かなでる向こうに先輩、さっきの、丸々したからだに小さい目、落ちた肩とふとい体がなさけないクマみたい。

「白井くんからも何か言ってやってくれ」
 きょときょと聞いちゃいないオレに苦々しいオトウサン、先輩に話とばす。めずらしいアドリブ。

「やりたくないドリルをさぼって、本を読んでいたんだってね、きみは」

 外にいたこと言わないでくれてるクマ先輩、白井さんか。いい人っぽいよ。

「ぼくはね、こういう子のほうが、外の世界で生きやすいと思います」

 おいおいなに言いだすんだ、思ったのオトウサンも同じようで、目まるくしてふり向く。

「ルールに合わせるのはたしかに大切ですよ。ぼくはここでそれを学びました。でもね、世界はそれだけでやっていける場所じゃない……」

 ちょっと、オトウサンがアクションでかく発言さえぎり、クマ先輩の肩を抱くようにして向こうむく。

 白井くんきみが今なやんでいるのはわかるけど……とか、会社でハイセキされるのはそれはね……とか、いろいろ言うオトウサン犬の子追いはらうみたいに手をふってオレを部屋から出す。クマ先輩、の目、にぶく光ってずっとオレを見てて。

 わかんないけどお説教中止になったオレ、やほー、と側転でもしたい気持ちで寮の廊下かける。



 昼めしの席にひとり残ってオレ待ってたクミ、冷えた玉子丼に鼻さきつっ込むオレにはい、と紙きれ渡す。米つぶが気管に詰まりそうになった。

 クミ書いたオレの人生の設計図。まるい小さなエンピツ文字で組み立てられた青写真。

 オレはこれから規則をぜんぶまもって分校で勉強できるようになり、小中学校の卒業の資格をとる。そして十六歳でここを出て、特待生になって高校に行きそれから大学や職業訓練校にいく。そうしたらクミと結婚して仕事について活躍してえらい人になる。クミは奥さんになって子どもは三人うんで幸せな家庭をつくる。

「なんだよ、これ」
 オレ口から飯つぶ飛ぶ。くしゃみが出る。

「カー君はこういうふうにしたら幸せになれると思ったの」

 言ってるクミ真剣だ。迷いもなにもない目してきらきら、顔じゅう底から輝いて、これ信じてる人の顔だ。すげえ。

 クミ、これオレじゃないよ。言いたいけどやわらかい罠にはまってずるずる正しい世界に引きずりこまれそう。まずい、けど正しい、オレ考え止まってするんとそっちに呑まれそう。



 すごいことになった。

 翌朝いちばんに目をさましてラジオ体操のセッティング、中庭でた園生がせんだんの木で首つってるクマ先輩みつけた。青むらさきの顔と白々ひえた体、ぶらり揺れて足先から尿、したたって。悲鳴。

 オレ予感と気配でぴりっと飛び起きて顔も洗わずつっ走ってった。のでちょっと見た、ぐにゃりになって口から黄色いよだれ吐く死にたての人の体。

 汚いものみたいに隠されて遠ざけられてクマ先輩、警察がきて園生パニックで泣く子吐く子、たいへんで。

 昼すぎにようやくオトウサンの演説。
「……白井くんは、悩んでいた。仕事に行きづまり、将来が見えなくなって、きのう、なつかしいこの場所を訪ねたんだね。話しあったが、悩みは深いようだった。衝動的に、死を選んだのだろう。みんなは、白井くんのように、かんたんに生きることをあきらめてはいけないよ」

 泣きながらうなずいてる八十八人の児童みながらオレたぶんひとりしらけて逆に憤り。

 絶対ちがうだろ、クマ先輩、わかんなくなって自分の根っこさがしに来て、ここでがっかりして死んだんだ。

 あした、ってやつを見失って。



 もうぐずぐずできない、ってオレは宿舎の三段ベッドで思う、だってクミ来た、泣きながら。

「亡くなった白井さん、ってカーくんみたい、ここにいる時も勝手な態度だったって……だから世の中に出て、わがままして会社クビになって死んだのよ。カーくん早くちゃんとしないと。カーくん死んだらクミ生きてられない」

 うん、ちゃんとしたカーくんなんてオレじゃないな。それから、だれかいないと生きてられない人間なんてオレはいやだな。

 薄い寝床にひっくり返ってオレ思う、クマ先輩のさいごの目つき思いだす。

 自由に、なれなければ、ほんとのあしたなんて、ない。

 そして自由はむずかしい。迷宮や雪の国をひとり生きていくことにも、似てて。

 とろとろ眠った。あしたどうしよう、思いながら。

 夢の入り口にどすどす音立てて、しろくまがやってきた。先輩、そっくり。あんたクマになったのか。

「雪の女王がお待ちです。一緒にいきましょう、カイトくん」

 行くよ、ひと言でその背にしがみつくオレ。童話のカイは雪の女王に連れ去られて、正しい心をなくしてまっくろになっちゃったんだって。でもそれは正しいヒロインのゲルダから見たら。

 雪の女王がどうしてカイを連れてったか、お話には書いてない。でもママが話してくれた。

「カイには自由にあしたを生きよう、って気持ちがあったの。でもゲルダとその背後の世界は、カイをもっと正しくしたかったのね。何も考えずにすむ、この世の中の決まりごとのために」

 オレ宿舎なんかしろくまのひと蹴りでぬけ出してひゃっほう! って、どすどす地を蹴る巨体の背中にしがみついてる。

 雪の女王、むちゃくちゃだ。すきなようにしなさい、って自由がオレを待ってる。それはきっときつい。でも。

 オレしろくまに身をあずけて、きっと、たぶんママの顔したその女王のもとに寒風のなかを夢の中をつよく強く向かってる。

 雪の国、氷の国の宮殿が見えてくる強く、一点だけ暗闇に光って。おれがおれに戻れる世界、きっときつくてきっとぎっちり微笑むしかない、タイトに冴えた世界。おれは決めごとぜんぶ裏切って生きるよ、

 なまぬるい世間のセオリーにさよなら。

 闇に冴えた光芒。

 おれ、氷原。飛んでそれは。


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