パイン・ツリーに雪


 パイン・ツリーに雪。

 そうだパインだ、ごつく身をよじるみたいな幹から長い黒い腕突き出して。みっしりと湿った雪。枝たわんでもなかなか落ちない、ぴんぴん棘を立てる濃い緑の葉の間にも粒が光る積もりたての雪。

 それが最後の光景だ、平和、ってタイトルつけて壁の一番いいところに飾っておいてもいい俺の風景。

 パイン・ツリーを知らないのか。クリスマスの樅じゃないぜ、俺のもと居たメインではよく見た、男の木と女の木があって、葉っぱが鋭い針金みたいにぱちっと空に突き出してる。わからないか。あんたどこの生まれだ。そうか。ここは砂漠の州だもんな。

 そう言えばこっちに来てから雪もあまり見ていない。そんなものがあることすら忘れてたよ。

 なんだって? いや、違う。パイン・ツリーに雪が積もるのを見たのはメインじゃない。あそこには冬までいなかった。もし長くいたら、もしそんな景色を見ていたら、俺のやることもだいぶ変わっていたかもしれない。

 おふくろはひとつところに長く住むことがなかった。男がチェンジすれば場所もチェンジするんだ。そして長続きはしない。そしてどんどん質は悪くなっていく。男の。あるいは、おふくろも。

 弟のウィルは二度目の男が連れて行った。けっこういい街のけっこういい男だったから、ウィルはそこそこ幸せにやってるんだろうと思う。牛乳、いろんなフレーバーの牛乳を瓶詰めして運ぶトラックの運転をやっている男で、週末には俺たちとフットボールをやってくれるぐらい気分のいい男だった。俺はチョコレート味の牛乳が好きだった。ウィルはうまくやっているだろう、少なくとも俺みたいにはなっていないはずだ。

 ウィルなんて本名じゃない。本名は何とか言ったはずだが忘れた。俺も本当はアークじゃない。最初の名前はもううまく発音できない。おふくろだってスーズなんて名前じゃない。ミサヨだろう。

 そう、俺は日本で生まれた。パイン・ツリーに雪が積もるのを見たのはそこでだ。他のことは今はあまり思い出せない。ただ、ひとり姉がいた。

 姉貴の顔も名前も思い出せない。三つ年上で、最初の離婚でオヤジのほうについていった。永の別れだ。永遠になったか。はにかみ屋でどの写真もどの写真も両手で顔を覆っていて、見てもろくろく思い出せない。

 おふくろ、ミサヨは子供の写真だけはずっと持っていた。オヤジの写真はなかった、と思う。財布を探って金を持ち出すようになった時に調べたけれど、六枚入ってた日本での写真は全部が子供のものだった。姉貴、どれも顔を覆い隠して。

 そうだパイン・ツリー、枝の下でしんしん落ちてくる雪を見て空は灰色だな、とか思ってた俺に、赤いミトンですくった白い雪差し出して。姉貴は俺の腫れたほっぺたに。

 セイちゃんこれお食べなさい悲しいのが引くから。

 姉貴の顔も腫れてたっけな。目もミトンと似て真っ赤。

 俺は雪を食べたよ。冷たくてほろほろ溶けてうまかった。じんじん来る顔と頭の痛みがたしかに消えた。あれはうまかった。たぶんチョコレート・ミルクより。

 セイちゃん、セイちゃんセイちゃんああ思い出せない、きっと俺の本当の名前はそういうのなんだろう。

 思い出せないし思い出したくないのは、セイ、何とかっ! って叫んでおふくろが掌で俺の顔を打つのが、必ず酒の匂いと一緒でおふくろも悲しんでるようでどうしてもやりきれなかったから。

 最初の家の親父はどんなやつだったっけ。それも思い出せない。今さら思い出しても何も変わるわけじゃないんだろうな。

 パイン・ツリーのある、大きな家だった。よくウィルとその前庭でキャッチボールをした。子供は悲しいことがあってもすぐに忘れちゃうんだ。犬ころみたいに、夏の青草や冬の雪の中を走り回ったっけ。姉貴もよく遊びに混じってはにかみながらも笑って。そうだ、よく本を読んでいた。日差しの向こうに座って膝に厚い絵本抱えて時々こっちを見てにっ、と笑って。歯が白く陽や雪に光って。

 それを見ると安心して俺とウィルはますますふざけて遊んだ。とっくみ合いしたり。転げて。

 おふくろがそんな昼間から家の中で酒を飲んでいつまでも果てない愚痴をぶつぶつ言っていても、親父が帰らない薄ら寒い夜がちょくちょくあっても、遊んでいたな。俺たち。

 こっちの国に来てから、最初はウィルと俺と交代で、ウィルがいなくなってからは俺だけで、おふくろの用のために嘘ついて薬屋に行くのはすごくきついことだった。ヴェイリウム。後ではメサドン。いんちきな処方箋をカウンターに出してじろじろ見られながら、それでもおふくろが一秒だけ笑ってくれるから。俺は薬局に行ったんだったな。そこで悲しむのは恥ずかしいと思って。タフに、マッチョに。してないとおふくろがぐずぐずに崩れておかしくなるから。

 今ここに姉貴いたらな、って何度か思って、すぐに止めて、忘れたんだった。もう思い出さないようにしたんだった。

 なんて名前だっけ、姉貴。

 もう思い出せない。わかならい。考えようとすると頭ががちがちに痛くなってくる。

 おふくろはきっと可哀そうな女だったんだって思う。今では。俺の心を潰してマッチョな親父代わりに育てつつ、場所を変われば変わるほど愚痴と異様な理想が大きくなって、もう誰かが止めないと自分の人生もストップできないほどに潰れていた。働けなくも、なって。

 そういうおふくろからの俺の自立もかなり間違っていたみたいだ。マチズモひけらかしてゴミっぽい仲間に君臨。車上荒らし、強盗、でカネはとにかく手に入るんだから。

 スノー、って言われてる粉末の使用とメサドンでのリハビリ治療を順繰りに繰り返すおふくろ、スーズって名のってまだつく客がいるんだから凄いよな、アジアのしおたれた女を売ってまだ夢見てぼろぼろで。

 見てらんなかった、からダチから借りた銃をわざわざおふくろの目につくところに置いた俺に罪があるんだろう。

 それは聖書に宣誓した。本当のことだ。

 パイン・ツリーに雪。今のこれが嘘だったら、記憶のそこからやり直せたらいいんだろうけどな。

 おふくろが自分の頭を下手に撃って、その後のことはたぶん家族にしかわからないことだ。

 俺が見つけて、そしてなすべきことをした。異常でも異様でもそれはどうしようもない、起きてしまった現実だから。

 最後に日本語で言われた俺の名前を俺は思い出せない。仕方ない、そういうものなんだ。

 あんた、気が長いな、こんな語りずっとそこに座って聞いててさ、なんでそんなに体傾いて、そんな、うつむいてるんだよ。もしかして気分悪くなったのか。そんなに、目を押さえて。

 わかったよ、俺がちゃんと答えないから参ってるんだろう、悪かったよ。本当のこと言おうと思うとすごく時間とエネルギー使っちまうもんだから、つい。悪かったよ。

 うん、じゃあチーズバーガーと大盛りのバニラ・アイスとホット・アップルパイにする。スタンダードだろ?

 本当は。

 本当は、あの雪の日に姉貴がミトンでくれた、パイン・ツリーに積もった雪が最期に食べたいんだけれど。

 最期のメニュー。

 ここじゃ、無理だよな。

 砂漠の州だし。

 今は、真夏だし。

 ありがとうな、聞いてくれて。一応、でも。

 だけど、あの遠い日の姉貴の雪のひとすくいを食ったら、いつだって、どこだって、俺はそこで変われたような気がするんだよな……。

 もう、遠すぎる。

 パイン・ツリーに雪。









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