ハコネ

 とつぜんのお別れでした。

 箱根のお山のてっぺんで、恋人にふられた人というのはどれくらいいるのでしょうか。

「もう、ぼく達の仲は終わりにしよう」

 その言葉はそよそよと吹く心地のよい春風に乗って、のんびりとわたしの耳に届きました。
 桜はまだですが、お山はもう薄みどりの衣をまとい、芽吹くちからと清涼な風に彩られておりました。まっすぐ射す透明な日光は、わたしたちの影を足元に小さくまとめています。

 わたしは訊きかえそうとしましたが、誰かに両肩を押さえて止められているような気がして、何も言えませんでした。
 うつむいて目と口をかみしめている彼の様子を見れば、その言葉が一時の衝動から出たものではなく、言わねばならない決定事項であることは明らかでしたから。

 それにしても、彼はいったいどういう人なのでしょう。最初から別れを告げるつもりで、この小旅行を計画したのでしょうか。
 昨日の晩の甘さを思い出しました。彼はそれが最後になるということを、もうすでに自分の中では決めていたのでしょうか。だとすると、とても勝手です。白く煙をあげる硫黄の谷に突き落としてやりたい。

 それに、今日をどうするのでしょう。昼食もまだです。最後の言葉を言った後で顔をつき合わせてランチするなんて、おかしなものです。今晩泊まるはずだった旧い遺跡のようなホテル。予約はキャンセルでしょうか。せっかく、ロケーションに似合うクラシカルなお嬢様風の装いをしてきたのに。髪もくるくる巻きました。彼の目に愛らしく映るように。

 もしかすると、彼はタイミングをはずしまくってしまったのかもしれません。言いそびれ、くじけ、弱気になり、ようやくその言葉がすっと出てきたのが、今だったのでしょうか。
 うらうらと広がる山の景色を見たら、ロープウェーを降りて涼しい風を受けたら、胸が開いてぽんと言葉が出てしまったのかもしれません。そういうところのある人です。

 わたしが黙っているので、彼は言葉を継ぎました。「急に言い出してすまない。続けてはいけない関係なんだ。苦しいけれど気持ちをこらえて、終わりにしよう」

 頼みこむような声。なんとなく情けなくなりました。
 束ねた色紙を横に引き破るような気持ち。胸の中で何かがばりばりと裂けています。雷みたいに。

 でも、わたしは(口もとに微笑みすら浮かべて)言います。「いいわよ。別れてあげる。旅行の残りの予約は、全部キャンセルしてね。わたしはここから一人で帰るから」

 バイバイ、と小さく手を振りますが、彼はうなだれたままでした。
 去り際、わたしは最後の質問を彼に投げかけます。

「ねえ、どうして別れると決めたの? ほかに好きな人ができたから? 疲れたから? それとも、わたしが男だから? 」

 返事はありません。わたしはくるりと背中を向け、ロープウェーの乗り口に向かいました。

 ばりばり鳴る胸の雷は、登山電車をくだり、ロマンスカーで帰京し、中央線でアパートに戻るさなかに静かに止んでいきました。

 幻想を食べて育つ愛は、鏡面によく似ています。お互いに映しあって、フラッシュをたくときれいで、ハンマーを振るうとものの見事に砕け散ります。跡形もなく。

 帰ったら、サルタンみたいな格好してターバン巻いて踊りに行こう。

 ひらひら躍るお嬢様服のすその向こうに、これまでとはまったく別の自分が潜んでいる予感がしました。

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