座敷


 とつぜん、私は古い座敷にいる。

 湿った畳と闇の粒を含んだ空気。覆いのかかった鏡台が奇妙にねじれて見える。ねっとりとたわんだ天井が、今にも頭の上に垂れ下がってきそうだ。

 襖の間から首を突き出して、隣の部屋を覗いてみる。

 そこはタイル敷きの古めかしい台所。風呂のように深いシンクのある流し台。その横で二つのガスコンロがこうこうと青い火を吹き上げている。鍋もフライパンもない。対象のない炎。

 隣の和室では女性編集長が原稿を執筆している。その筆の進みをじりじりとして待つ人々の気配。誰も見えないが最終回を期待するざわめき。
 最終回が近いのだ。

 それを悟った私は、急に突き上げてくる焦燥を感じる。ここにいることはできない。編集長が最終回を書き上げたら、台所の左手奥に見える玄関のドアが大きく開いて、一族郎党、或いは見知らぬ他者が大勢なだれ込んでくるだろう。その時に、私がここにいることを気付かれてはならない。見つかってはいけない。

 私は座敷の暗みのほうに歩む。気が急いてつんのめるように。奥の奥に窓がある。人一人がようやくくぐれる程度に小さな窓。
 釘を引っ掛けるだけのささやかな鍵を外して、私は外に出た。焦りに突き動かされて。

 地上十八階。目は眩むが、私は構わず身を投げる。急速落下、ではなく、
 私はどんどん上に昇っていく。上昇気流にのったように、竜巻にまかれたように錐揉みしながら、ひたすら浮上、空に足をすくわれ上方に飛んでいく。

 少し驚いているが狼狽はない。空の果てはどうなっているのか見たい気持ちもある。私は雲を突き抜けて登り続ける。

 うすく甘く冷たい雲を抜けて眼下に見下ろしても上昇は止まらない。地図のような街を道を地形を遥かに眺め、周囲に透明な闇が迫り彼方に弧を描く地平線を見ても、さらに上がっていく。

 耳がさまざまなノイズを受信し始めた。電離層というのはうるさいものだ。各国語。次第にクリアになる音声。音楽。音。ものの立てる音。動物の鳴き声やしゅうしゅう響く火花。エンジンが唸り巨大な機械が回る音。地球上のあらゆるサウンド。すべての人の声と呼吸と心音と考えと。

 限界を越えて聴こえ始めた。蝸牛を引きちぎり鼓膜を破って直接脳内に侵入し意識を掻き回す暴力的な情報の群れ。無限に増殖するニュース、生まれ来る赤子の叫び、とめどなく喋り考え言葉を撒き散らし続ける人間達。

 うるさい、うるさい、聞きたくない! 私は高速回転する体を二つに折って叫ぶ。こんなのが私の役割ならお断りだ! 地上に戻せ! 

 意外なほどあっさりと願いは聞き届けられて私の体はするすると滑らかに下方に落ちていく。喧しい情報の渦の下へ。大気のある空をふうわりと泳いで雲の下へ。地上へ。見覚えのある景色が眼下に迫り近付き暖かくどっしりと迎える地がそこに来て。とん、と足が地面を踏んだ。

 気がつくと私はもとの座敷に横たわっている。

 ぐっしょりと汗に濡れ畳ごとじとじとと湿っている。夢、と息をついて起き上がり、剥き出しの膝小僧を両手でつかんだ。ぐみりという奇妙な感触。

 五本の指の下で、大きく隆起したような皮がぶるぶると震えている。そのふちにまっすぐな強い毛が並んで生え揃っている気配。掌には明らかに、ねっとりとした、生ものの触覚。粘りつつぐりぐりと動く。

 そっと手をどけた。

 両方の膝を裂いて、大きく開いた人間の目。血走った白目をぐんと動かして、その意志ある瞳が私をまっすぐに睨んだ。

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