リスク


 午前中にリハーサルがあって、それから慌しく出前のお昼ご飯。今日のは、今日のも、幕の内。花形に抜いたご飯と、冷たい静かなエビフライ。メイクを済ませ、衣装も最初のを着付けて、だいたいそこでぽかんと時間があいてしまう。

 あたしはいつも、この時間になると同じ地点に帰っていく気がする。世界はせわしなく、だけど揺るぎない安定感を持って動いていて、あたしは心細く、今にも消えてしまいそうな気持ち。子供の頃の気持ち。

 誰かに見つめられていないと、空気に溶け消えてしまいそうだった。自分で自分を見る目線は、あまりに頼りなく懐疑に満ちたものだったから。

 モデルの控え室は、クローゼット兼メイク室。壁際に並んだ五枚の鏡。三種類に切り替えられる光源。ばらばら置かれた化粧品。ブラシ。紅に汚れたカット綿。

 掘り炬燵のある控え室、というのに出会ったことがある。たしか雑誌の撮影の時。出版社の自社ビル内にある、年季の入ったスタジオだった。十二月だというのに、春霞、と言うテーマのスチールだったので、衣装は軽くて薄くてふわふわ、とんでもなく寒い思いをしていたから、炬燵は有難かったけれど。

 ばちばちと光度のチェックをしているカメラマンと、スタッフの作業を眺めながら、ひとりで掘り炬燵に入っているのは不思議な気分だった。あの時も、ふと同じ気配。同じ思い。世間は忙しく働いていて、子供である自分は、炬燵から心細くそれを眺めている……。

 大人になれば、そういう気分とは無縁になるのだと、なんとなく信じていた。十代の頃。仕事を始めた頃。

 実際は逆だった。大人になればなるほど、年齢も経験も積み重なるほど、心許ない瞬間は鋭くはっきりとやってくるようになった。落ち着き、場慣れし、余裕を感じていればいるほど極端に……。

 突然、ノックなしにかちゃんとドアが開いて、クリップで前髪を挟んだままのモデルが笑いながら入ってきた。キャアすみません、ミハルさんいたんだ、ねえ聞いてくださいよ今コマさんが……。

 ゲイのメイクさんに聞いたジョークを話し始める。化粧したてのぴかぴかの顔。小麦色の長い手足。明るい子。若い子。この仕事に就いていることを心から楽しんでいる。

 あたしも自分の仕事が好きだけれど、この子のように曇りない満足とはかけ離れている気がする。視線を受けること、他者の目で良きもの、興味深きものと規定される安心感。ペルソナ。他者の目になって自分を見つめる充足感。自分の目で自分の内側を眺める焦燥感。。

 三十の声を聞こうかという歳になって、まだ仕事を続けていられる幸運には感謝している。衰えないこと。健康であること。でもあたしは早く、シニアのモデルになりたい。

 琴田ミハルは変わったモデルだ、とよく言われる。どこにも属さない。フリーになって新しいことを始めるのかと思いきや、こつこつと今まで通りの活動を続けている。真面目にオーディション通い。地味なショー。おとなしい撮影。出世には関心がない。誠実で確実。琴田は職人だ。信用できる。

 こうした評価のほとんどは、あたしの小心さを良い方に解釈してくれている。若いうちにパッと売れて、歌手や女優に転身したいと願っている、野心に燃えた多くのモデルたちには、あたしの望みはわからないだろう。聞いたとしたら、野暮ったいものに思うだろう。


 一生、この仕事を続けるためには、一歩でも抜きん出ることは禁物なのだ。

 チャンスにはリスクが伴う。チャンスをつかんだ瞬間に、代償として何十年分もの時間が支払われる。あたしはそう感じる。あたしはゆっくりと、実質のある時間を過ごしたい。視線を受ける仕事を続けながら。

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