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・・・・・・・・・・
ばん、とスイングドア開けて踏みこむ最上階のゲート。もう気のせいでも何でも、オレにはやばいところの匂いががんがん届く。通電して余計に速度アップしたみたいだ、同じもの見えてるフキがどでかい脱兎、明かりの消えた通路にまっしぐら。
「トビオさん、たぶんあと五分ほどで保安課の先遣隊が到着します! 急いで!」
急げ急げってうるせぇよ、エミョン、ぼやきながら疾走するA8、7、6通路。曲がってバイオファーマDDS、と表記のある分岐に突っこみ、先を越すフキの走りにつんのめりながら駆けてひたすら進む。
レシチン化SOD、レシチン化BDNF、とプレートの光る同じような扉の前。フキが急停止。オレはすべって厚い背中に顔面をぶつける。
BDNF、の方のドア脇の小さなくぼみに、フキは右手の親指を押しつける。ふいん。
小さな音が鳴って、ドアが素早くスライドした。これって指紋のキーなのか? フキの指紋照合がまだ効いてるってことか? それともエミョンが細工してくれた?
わからないままオレは、でかい背中の後について冷やりと広い室内に歩を踏みこんだ。
煌々たる照明の列、に照らされて、ずらり広がる静かなデスクのひとつにすとんと白い、ひとりの後ろ姿。
「なかなか、やるわねディク。ずっとモニターで見ていたわ」
女? オレは目をこらして白衣をサーチする。
「若い子、連れて。このラボに復讐にでも来たのかしら」
き、と椅子を回して振り返る手もとががっちり黒い。小さくても重そうな短銃にオレの意識は集中する。おいおいチャカかよ。これはずるいんじゃねぇのか。
す、と立った姿を見てオレは驚愕。白衣の肩口に漆黒のストレートヘアを流した女科学者さんか。笑みを作った口もとが細く、紅い。どこまでも長そうな睫毛が目元を彩って、白黒赤の三色でプリントした美人画みたい。おい、あんた綺麗すぎないか。
少し揺れるみたいに笑う上半身を閃かせて、きつく視界に屹立する女。これはずるい。オレは本能的に固まって反応がどしどし遅れまくる。
そのまま見惚れていたらオレはさくっと撃たれてしまったかもしれない。
会話に救われた。
「cp6ptr6リコリ・スドウ」
もとの課長のスドウ・リコリだ。
「w4eps3」
へえ、すごい美人だな。
会話に耳をそばだてて、注意の散った美しき課長の上空にオレはさすまたを投げつけた。ぐぁん、鳴る空気に弾け飛ぶ天井の蛍光灯。
振ってくる破片にリコリが焦って銃の引き金を引いた瞬間、オレとフキは双方向に散る。すげぇ怖ぇ、はずだけど気が張りつめてて時間も感情も消えてる。遠くの窓ガラスが無駄に弾ける。誤射。一瞬で位置を詰めて退路を断ちつつ美女の両脇をとにかく丸抱え。発射の反動で腕の痺れた課長さんは顔を歪めながらも何か叫び、バック転しながら細いきびすをオレのこめかみに叩きこもうとする、すげぇ。
がっちり捉えた細い腕と脚にオレはけっこうクラクラする。危険な動物、扱ってるって知りながら。気分はもうエージェントの007だ。凄い美人って、魔力がある。これじゃ天才スパイでもどうにかなるよな。
両側からロックされたリコリはきりきり音が鳴りそうなまなじりをオレたちに突き刺した。本気に怖くて本気で一生見惚れていたいパワー。殺されても、気持ちいいかも。神様、なんでオレたち野郎はこんなに美しい女に弱いんだ。なんでこんなに常識超えたフォルムの人間がいるんだ。
「あなたたち、どうするつもり」
そう聞こえた。かすれて深く熱い声。
「オレらエピスコの薬害つぶす。そんで来た。おとなしくしてくれよ」
頭悪い台詞を無理に吐き出すオレ。もうちょっと気のきいたこと言いたいよ。
リコリはぎりぎりに上げた腕につかんだままの銃口をオレ達に向けようともがく。いや、それごめん。撃たれんの、イヤなんで。オレとフキはすごい重心移動でその危機を避ける。
「もとから決まっていた、筋書きなのね……」
意味わかんないことをリコリは呟き、
ふっ、っと、
全身の力を一気に抜いたあげく、
ちら、と底の深い目を瞬時オレたちに向けた。
あまりにも、唐突に潔く急激に自分の顔面に向けて、真紅の唇を大きく開いて薄いまぶたの目を閉じて、肩から緊張の力が走って指先が収縮した。
ご、と生暖かいしぶきがオレの腕に飛ぶ。
え、わかんない、どうして、
リコリは、手の中の銃の引き金を指で、ためらいなく引いて、
信じられねぇ、この凄まじい女課長は自分の口の中に銃弾を発射したんだ。
ぐね、と傾くたおやかな身体が何度か縦横にびくびく動いて、オレたちの腕にどうどうと血と白っぽい何かを噴出していく。嘘。何でこんなことになってるんだ。いや、冗談だよな死なねぇよな、ぬらぬらピンクに滑る腕からずるずる崩れる人体を抱えようとするが、なすすべなく無限にどろどろ吹いて物体になっていく温度が下がっていく、嘘だ、嫌だいやだ人が死ぬのか? 女の人が。恐怖で頭がつんと痺れてるがオレの鼻は狂ったみたいに濃い匂いをぐんぐん嗅いでいる、どうなってんだオレも。ついに壊れたのか? こんな凄惨な現場の目の前の匂いで無茶苦茶に興奮してる。腕に人の脳を乗せたのなんてそりゃはじめてだよ。
一瞬前まで生きてた凄く美しいケモノ。敵で意味不明で格好良すぎるリコリの顔がぐらりと仰向き、その薄い耳朶がどんどん青く染まっていく。ずるんと抜けて床に潰れる。びしゃっと濡れた音。死? うそ。なんてこった。
「フキ、何なんだこりゃ、何が起こってんだ今。どうしたらいいんだ」
ショックで思考のブレるオレはヤケクソ気味の音声をフキに放つ。人が死んだ? 嘘だあ、と喚いて何度でも覗きこんで見たい嗅ぎたい確かめたい、普通じゃないよ、呼吸がどんどんアップして息を吐き出せなくなる。視界がすぼまる。背中がさあああと寒くなって足もとの感覚が消失する。落ちる。見えなくなる。魂が破裂する。オレのまわりはもう真っ白で立つべき場所がない、拡散してこのままオレは消える。オレが無くなるんだ。怖い怖い怖い。
パニックの底でオレは自分を見失う。
耳鳴りが果てしなく高く鋭くなる閉じたトンネルの向こうに声。声、目、目が、見える知ってるよ懐かしいものだ動じない一点。
「トビオ」
聴こえた飛びつく、虚無の向こうにもがき出る、見えるフキの目だフキの顔だオレを見ているああそうだオレは存在してるよ。
「ぐあいでもわるいのかおいだいじょうぶか」
いつかどこかでオレが言った台詞がここでリターン、オレは一気に白いトンネルを抜けて飛び出した。足もとがずるりと血ですべって直進、オレはでかい胴体に正面から当て身くらわせてしまう。
どっしり抱き止められた。フキがいた。
はあああ、と息をついて現状認識アゲイン。やばかった持っていかれるところだった、汗とリコリの体内成分でオレはぐちゃぐちゃだ、どうしたって現実見失うすれすれの怖さ。
どこまでも空気染める血と奇妙な柑橘みたいな体液の鋭い臭気の向こう、フキの汗と確信の匂いがした。甘ったれみたいにくっついてた自分の体をぐいと引き剥がして見上げる。夏の空の色の目を見上げる。
「ca1」
言うと即答、「pa1」続けてフキ語連打。リコリはライムのプロジェクトの責任者の一人、しかし今はこの異様な事態を追求していられない、残された時間で計画を遂行しよう。
おうよ、とオレはぎりぎり叫んでその場を駆け出す。どこか魂の一部が欠けたまま。なんで、どうして、リコリって何なんだ、どうして、いきなり会った瞬間こんなことになるんだ。まるでわからない。悲しみとか驚愕とか感じてる暇がない、足裏がひどく粘ってすべってスケート状態。人の血なんか生足で踏みたくないよ。
リコリの体を振り返ろうとする首をぐいと前に向け、オレはフキと走って走ってフロアの奥の保管庫を目指す。
「どうなってんだっ」
一瞬の認識の後でオレは叫ぶ。保管庫とやらでフキの記憶とつき合わせて書類探し出して実験中の培養組織をゲットしてパソコンからデータ抜き出して……って、漠然と思ってた。そのためにきっとこの亢進したへんなパワーが使えるんじゃないかと。
とんでもねぇ、どうぞお持ち帰りください状態だ。薄いライトの光る部屋の入り口すぐのデスクに山積みの、分厚いファイルとナノディスクと試験管に入った検体。細胞っぽいものとか黄色い液体とか、壊れないようにエアホルダーでパッキンしてある。わざわざ揃えて並べて置いてある。ご丁寧に大事に。フキが端から確認して驚愕の匂いをばしばし発散させる。
「おい、フキこれ罠じゃないのか、……w3s7s5r?」
「wrd21pa1」すべて本物だ。
どういうことだ……瞬時考えた意識をはっと理解が吹っ飛んでいく。リコリ、もしかしてこれ全部用意して覚悟の自決かよ。
あんた最後のところでエピスコに反旗翻したのか? 命、捨てて賭けに出て。
フキを見る。同じ認識がばしんと額から放たれる。
オレたちは驚きすぎて尻がむず痒くなるほどだが、ふざけてもたもたしてる場合じゃない。
証拠の山を端からつかみ、検体とディスクはオレの軍隊ズボンに詰めこんだ。どさっとファイルをフキがかっさらい、ターンしてフロアに駆け出していく。
床をどす赤く染める非日常な物体になったリコリを、オレは放っておくことができない。一秒も無駄にならないのはわかってるが、証拠なんて残しちゃいけないのもわかってるが、それでも無理だ、オレは熱の消えたリコリの横に膝をつく。
膝ポケットの中から村山槐多の詩集を引っ張り出し、何度も読んでページに開きぐせのついてる部分を開ける。破る。美しい死者の手もとに置く。手が震えて、でも急いで。オレ、オレは、やんなきゃなんないことがある。だけど。
活字に血が染みるまでを見ずにオレは立ち上がってフキの方に駆けた。なんとも言えない表情で振りかえって立ち止まってるフキ。悪ぃな、ほら行くぞ。
一番すきな言葉をオレはリコリに置いていく。槐多の遺言。
白いコスモス、飛行船のもの憂き光。
だあああ、とひたすら勢いで下りの非常階段を踏破、踏破してるが地上がいっこうに近付かない奇妙な焦り。浮き足立つってこういうことか。駆けても宙に浮くばかりで先に進まない焦燥。
「エミョン、証拠とった取ったと思う、とにかくそっちも脱出だいいかトラックの場所わかってるなゲート開いてるかっ」
「トビオさんやばいです、正面出口からもうセキュリティ隊が突入してきます、非常階段出口へっ」
うわああああ。オレはポケットの検体が飛び出さないようにおかしな姿勢で階段をびょんびょん飛ばす。フキが息を切らしてる、オレだって、オレだって。
一階だ一階に着く地べたに一番近い階に着いてオレは一瞬通路を見失って。どっちだ非常階段出口、知るかわかるかああああ向かってくる大勢の組織的足音靴の駆ける音セキュリティ来ちゃったのねえええ。
やみくもに突破する暗い通路の脇からどっとハイな汗の匂いが突き抜けてきて「トビオおっ」リンタロの声エミョンの息切れとケンズの足音が合流してとにかくオレら一致、走って道越えてだかだかと背後から圧倒的なオトナの部隊が詰めてくる限界の臨界のピンチ。
「エミョ、み、道どっちだ」
「わからな、すいませ、トビさ、僕この通路まったく……」
だめじゃんエミョン振り切れてパニック、オレもわかんないしどっちなんだ出口、怖ぇどうするんだここまででオレら終わっちゃうのか。どうしよういっちゃん、フキ、母ちゃん、誰でもいいからどっかのオトナの人教えてくれ。だめだだめだ、オレが責任もってこいつらを、少なくとも脱出、させなくちゃ。
ぱ、と通路の右奥の分岐点が白くなった。明かりじゃない。ただ白く内部から発光するみたいな淡い色。雪の夜の底光りみたいな。オレは迷わずそっちに駆けて右折する。
ぼうと深くにじむ白さの奥に細い薄い消えそうな女の姿。誰だよお前何なんだよ、疑問はともかくついていく、駆けるマシーン化したオレと後続する友だちの荒い息。
普通に歩いてるのに一足で何メートルもすっ飛んで掻き消えそうになる女はゆったり体にまつわる白いドレスで神話の中の人みたいだ。誰だよ、幽霊かよ、メルキオリスカとかいうオレの母ちゃんなのかよ、でもその顔はどう見てもリコリだ。凄まじい非現実感。
待ってくれリコリあるいは母ちゃん、そっち道か、そうなのか、すいすい順路曲がる道が次々白く発光する。何も考えずに追って走るしかない。背後のざわめきに威嚇の銃声が混じってるって気のせいか。気のせいじゃねぇなエミョンが悲鳴あげてるもんな。
ざ、とコーナー曲がって前を見たら女はかすれてぼやける姿で道の奥を指し示している。劇的な腕のライン。
出口っ、と残り十メートルばかりを直進して駆け抜けて扉、あかあか開かねぇそりゃそうだ、ロック。
「どいてっ」エミョンが肘でオレを小突き回すみたいに進んでドアの上部にばん、とジャンプしてよくわからない球体をくっつけこっち向いて手を振り回しながら「下がって伏せて耳覆って口開けてっ」
何で口開けるのか知らないが全員言われたとおりにトビウオみたいにすっ飛んで床。
どむ、と床通じて腹を持ち上げる怖い圧力と危険感たっぷりの焦げた薬品臭にびびりながらもエミョンに続いて立ち上がってドアに特攻、煙むんむん来る向こうからさあ、とクリアな風、吹き飛んだ天井のセンサーと鍵。
駆け出ると外に駆け出すと赤っぽく暮れた夜の空気にだだっ広くつながる歩道と車道と緑地のライン。どっちだどっちに進んだら警備避けられる、トラックの置き場所に行ける、一瞬迷う目の先にまた白い服の非現実な女。
ふわふわ透けて霧みたいな腕を直線に伸ばして指す。示す。オレは地面にめり込みそうな脚の筋肉をぐうと持ち上げてそっちに方向を曲げてオイお前らついて来いよ叫びながら突進。迷いのないオレにつられて引っぱられてダチ全員わあ、うわああ、意味ない声をぼろぼろ漏らして倒れそうな限界ランニング。
緑地を横に突破したらすぐにトラックは見つかった、いた、オレたちの影を見るなりエンジンかけ始めるジェニーと後部を開けながら炸裂しそうな顔色になってるステヴァン。オレを見るなりどういうわけか棒を呑んだように固まって胸もとで十字を切った。
あああああ、喚きながら荷台によじ登るオレたちを積んで速攻で発進、おいおいステヴァン落っことしていくなよ、這ってずるずる奥に進み窓からジェニーに声をかける。
「トビ、まずいよ。区内全域にアラートが出ちまった。……ラボ襲撃のテロリストってことになって、道はどこも保安課の網だらけだ」
げえええ、勘弁してくれ。
倒れそうになる意識をふいと涼しい風が突き抜けてオレの目はフロントガラスの向こうに飛ぶ。緑地を迂回して道を探すトラックの前面、ガラスに顔をくっつけんばかりにひらりと閃く白い女の顔。浮いてるし飛んでる。白いドレスの裾をひるひる回して宙を進み、またその腕でひとつの方向を指し示す。さっきから何なんだあんたはいったい、幽霊か。天使とかなのか。もしかしてティンカー・ベルってやつか。
知らない言葉でステヴァンが高く叫び、バーテンの制服着たままの襟から十字架を引っ張り出した。じんと汗っぽくなって震えている。おい大丈夫か。
「トビちゃんに、精霊がついているよ。ほら、車の前に飛んでいる。皆、見えないカ」
怪訝な顔をするジェニーとへたれたまんまの友だちの様子で、オレには女の姿が他には見えないことを知る。て言うかステヴァンに見えてるほうがオレは恐怖。
「うわ、見えんのかステヴァン、いるよな、あいつがオレたち先導してラボから出してくれたんだ、きっと外の道も教えてくれるよ」
「良い精霊でも私はコワイヨ、なぜならあんなにはっきり見えます、はじめて見ました……」
おう、オレもだよ。
「ジェニー、道はオレが言うからとにかくそっち信じて走ってくれ。抜け道あるからわかるから。全速で頼むっ」
「ああ、ここまで来たら仕方ねえ、霊とか変なこと言ってないでしっかりナビしろよっ」
公道に抜けた先でリコリの顔した空飛ぶ女がひらりと身を翻す。底光りする微笑み。
びびるオレたちと信じないジェニーを積んだトラックは、精霊だか幽霊だかが次々さし示す道順を細かく曲がって、包囲網を突破して夜の底をぐんぐん駆け抜けていく。
本気で保安課をぎりぎり逸らして、時にびいびい迫ってくるサイレンに漏らしそうになりながらも、オレたちは六区抜けてただの陽気な配送トラックの顔して一区につながる街道を全力前進。ティンカー・ベルが腕を優雅に伸ばしてくるくると宙で回って躍ってすらん、と闇にいきなり姿を消した。
プラクティカの病院。戻って来れた病院、ここは変なことになってないだろうな、すでに手が回って降りた途端にジ・エンドなんて悲しすぎる。
数時間前に来たはずで既に遠い昔みたいな駐車場にごろごろ転げ出ると、非常口から背の高いしなやかな見慣れた影、スプリンターみたいに突っ走ってくる、ああ、何だか懐かしいほどだよ姉ちゃん。
「い、いっちゃんっ」持ってきた証拠をほらすぐに渡すからフキも持ってるから後はもうお願いだオレらけっこう限界までやったんだぜ、と言おうとした途端、
すん、と静寂があって、
き、と軋む音の後、
頭の後ろが強く重く収縮して、
がん、一気に炸裂した。
オレは走りかけた姿勢のまま片足でコマみたいにぐんと回って飛び散る風景目の端に見て
すうう、と風が吹きぬけるまま冷たく激痛に痺れた後頭部をぼんやり意識して
ああ撃たれたんだやられた死ぬのか
思って、
終わった。
目の前にでかい水の流れ。
いつか見た大河、ほとりに立ってオレは圧倒的な流れを見ている。ぴちぴちと飛ぶ冷たい水の粒子、裸足の足を濡らして。流れなりに沿って吹き抜ける寒いほどの風が、時にごん、とオレの頬に強く当たって。
足もとにごぶごぶと、濁流巻く濁った土混じりの渦。浮き、沈む白い点。ぐう、と持ち上がってそれは人の手の甲になる。ぎりぎり張りつめて、強情な草の根に指を絡ませている人間の手。
目を凝らすと、水面の一枚下にぼろぼろぼやける顔面が見える。親父。恐怖と驚愕と、もう一つ信じられないが諦念の目線。白っ茶けてもう半分終わりかけている人間の顔。
黙ってそれを見つめ、ゆっくり、考えるために時間使って、視線の先をちょっと動かす。
自分の裸足の足。
あれ、これオレの足かな。思ってたよりひと回りでかい。腱の強い、濃く日焼けしたオトナみたいな足だ。
もしも今、ごっ、と蹴ったら。岸のもろい土をこの足で蹴り飛ばしたら。草をつかむ細っこい指は一気に支えを失い、泥芥巻き上げて奔流を濁らせて一気に流れていくだろう。
さよなら親父。
ひと蹴りしたら、それでお別れだ。
呟いて、オレは拳を握りしめた。
ぐ、とかたい感触。
オレは驚いて手の中のさすまたを見た。
どううう、と強い風が吹きぬける。オレはあおられて髪を目に突き刺して痛ぇ、と顔を振って、
白くハレーションする周囲を見回す。
トビオ、トビちゃん、トビオさん、とわあわあ言う声が背後。
振り向くと、河原の土手にやたら陽気に腰掛けて、
いっちゃんだろ、ピーフケとリンタロ。ケンズにエミョン。弁当広げて何だお前らピクニックか。堤防沿いにディクテイター停めたフキがタンさんと話しながらこっちに手を振ってる、その向こうに行楽モードなオハナさん、テルミ、マナビちゃんとアソビちゃん。何をそんなに嬉しそうに笑ってるんだ。
いつの間にか春みたいに青草がぴかりと生い茂った斜面にジェニーとステヴァンが、店の秘蔵のバーボンあけて酌み交わしてるじゃないか。ずるいぞ。ああ、あれはナディだ、うまそうな湯気の立つ皿持って踊るステップで行く先にはテシュノとチフユちゃんとマツさん、ああ鼻毛の医者も魚っぽい看護婦も救急隊の色男もいちご牛乳くれた工員もいる。どうなってんだ、ピクニックどころかお前らまるでパーティーじゃないか。
焦って振り返る河の向こう岸、遠くかすれる向こうにはっきりと二人。誰だ、誰なんだよ。
一人はすぐにわかる、リコリの怜悧に冴えた顔。死なせちゃって、ごめんな。あんた精霊になって助けてくれたのか。悪魔みたいにきれいだな、生きて関わってみたかったよ、リコリ。ありがとう。
もう一人は誰なんだ、坊主頭に不恰好なメガネ掛けて迫力ある人相の。オレの知り合いにこんなヤツはいない。眉間にぎりっと深いしわの入った怖い顔、でも目がもの凄く美しい。
わかった、あんた村山槐多だろ。
そう思うと同時に二人はすっと頭を下げてでもそのまま上昇してふた筋の、飛行機雲みたいなラインになって螺旋を描きながら消えていく。おい、待ってくれよ。
踏み出しかける足もとでしずくがびしゃっと跳ねた。
オレは息を吸い、もう一度後ろを振り向き、連中のパーティーを目の端におさめて少しだけ考える。
風が吹く。
さすまたの先を突き出す。
震えすぎる指先が水中から伸びて鉄の先端をつかむ。握る。目。額。濡れた髪。
原初に戻ったみたいな表情で浮かび上がってくるギャロップの面をぎっちり見て、オレは空いた片手を伸ばし、
親父の濡れてすべる冷たい手を包むように握った。
ず、と勢いをつけて引き上げた。
どうどうどう、と水の流れ。
彼方へぶっちぎって吹いていく風。
風……すきだけど、流れる水も、どっしり支える地面も、燃えあがる火も、ぜんぶ、ぜんぶ悪くないかもしれないな。
閉じたまぶたがみしみし鳴るのを感じて、ゆっくり、瞬きながら目を開けた。
よく知ってる顔がすぐ近くにあった。ああ何となく安心したこんにちは、とオレは喋らず目でぱちぱち挨拶する。ちょっと今オレ、印象的な夢を見てたとこでさ。
「ビンゴ」
いっちゃんが言った。強気な微笑みの端っこに落ち込みやすい弱点もぶら下げて、すごく人間らしくオレの顔を見ている。何がビンゴなんだよ。
「医者は、あと数週間は目を覚まさないって言ったけれど……あたしの占断のほうが当たったな。今晩見に来てよかった」
はあ? 意味わからないオレはもぞもぞ体を動かす。なんだか繭にでも入ってるみたいにぼやぼやしてうまく動かないんですけど。
視線だけ回して周囲を確かめた。頭の下の白い枕やシーツ、いっちゃんの背後のグリーンのカーテン。パネル張りの暗い天井。何だここ、病院なのか。
「あ、ピーフケどうした」
枯れて低い自分の声のがさつきに、オレは驚いてしまう。
どうなってるんだ。
「二ヶ月前にここを退院したよ」
へえ、と一瞬聞き逃しかけて、オレは跳ね起きそうになる。けど体が動かない。変に遠くで自分の足ががさがさシーツをまさぐってる。二ヶ月前?
「オレ、病院いるのか? どうしたんだっけ……撃たれたのか、なあ」
髪の束がばさ、と目の前にかぶさってくる。うわ、何だか異様に伸びてないか? いっちゃんが指先で前髪をすくって耳の後ろにかき上げてくれた。
「違うよ。撃たれたりしていない。簡単に言えば……脳を使いすぎて、ブレーカーが落ちたんだよ。あの晩、トビオ、もの凄い活躍したのを思い出せる? ライムのせいなのか何なのか、神経速度がとんでもなくアップして、最後に限界を越しちゃったんだね」
二ヶ月前、とか。あの晩、って。
「オレ、寝てたの? どれぐらい? みんな、どうなったんだ。医療課とか、その……」
慌てるな、といっちゃんはオレの布団を肩までかけ直す。
「トビオ、今、十二月だよ」
まじで。
半年吹っ飛んだオレは対処に困って顔を歪める。その間に何がどうなったんだろ。頭がうまく動かない。ついさっきまで、すごい速さで考えがばしばし走ってたみたいだってのに。
「大きな怪我はなかった。右手ちょっと火傷してたけど、エレベーターで感電したんだろう。エミョンとフキに聞いたよ。まったく、無茶して」
エミョン。フキ。
「フ、フキは? フキどうした、あいつ無事なのか」
真剣に訊いてるのに、駄々っ子でもあやすみたいにぽんぽんオレの肩叩くいっちゃん。「フキは、トビオの示唆したトリプトファンの治療が効いて、オフの状態から抜け出せた。……治ったんだよ。本人もライム中毒の治療に携われるようになって……特効薬を開発した。お前が意識を取り戻したのは、その薬のおかげなんだよ。トビオだけじゃない、薬害の人が皆、それで命と人生を取り返した」
枕もとのテーブルに置いてあった手紙を一通、取り上げてオレの前にかざす。「なあ、言っておくけどトビオの回復を、誰より心待ちにしてるのはフキだよ。知らせたらすぐに、空を越えて駆けつけてくるだろうね」
空を、って。
どういうこと。まだ全然わからないオレは苛立つほどに遅い理解の速度で、じわじわいっちゃんの言葉を噛みしめる。
「科学者に戻れたフキは、研究の続きをするために本国に国籍を戻した。……マナビさんとテルミ、ご両親も連れて、先月帰国したんだよ。それができる世の中になったんだ。ぎりぎりまでお前の側についてたフキは、この手紙を託してとりあえず国に帰った。トビオが意識戻ったら、この手紙を渡してくれって。……なんだ、どうしたの」
オレは黙ってしまって、すねた態度で寝返りをうちそうになる。首だけしか動かない。
「どうした、トビオ」
また言われてオレは鼻をすする。格好悪い。
「フキが、フキも、オレを、置いていった、ってこと、だろ」
一瞬ぴりりと沈黙したいっちゃんが、重く優しく息をつく。
「バカ。……トビオは本当に、寂しがり屋だな。誰もお前を、置いて行ったりはしない。フキはすぐに来るよ。毎日、どうしてるってメールで訊いてきて、うるさいぐらいなんだ」
「だけど、それ、フキじゃない……」
懸命に言葉吐き出すオレ。いっちゃんはわかってくれるだろうか。
フキは、無条件の仲間だった。何も言わずにオレについてきてくれる、友だちだった。
オレがどんな無茶で勝手なガキでも気にせずに。
「そんな、手紙とか書いたり、家族連れて国で研究してるようなヤツ、オレの知ってるフキじゃない。それは、ミランっていう人だろ。……フキは、消えたんだ」
自分で言った言葉にびっくりして胸が寒くなる。
なにも言わないいっちゃんをふり返ると、張りつめた顔面をハンマーで叩き割られたみたいな表情をしていた。しまった。
ヘンなこと、言い過ぎた、か。
わりぃ、と呟くと、無理な笑顔でかぶりをふる。
「悲しい、感じがするものだよね……。人との関係が変わってしまう時には。……フキ、可愛かったもの。面白い、人だったもの。まともになって、悲しむなんて筋違いだけど……あたしも実は、……かなり、寂しかったんだ」
わかってもらえたんなら、いい。思いながらシーツの端を、ちぎれるぐらいに握りしめる。
いっちゃんが湿っぽい。似合わない。オレはドライでいようと頑張る。
ふたりして、同じ気持ち隠して、呼吸と表情のコントロールに苦心する真夜中。ばかみたい。でも。
変化を受け入れるのって、力が要る。
「さてと、医者を呼ばなきゃな」
オトナの表情を取り戻したいっちゃんが、きっちり微笑んでオレを見下ろす。
オレだってガキの負けん気を取り戻して、猫科の目をしていっちゃんをにらむ。
「まってよ、事情、まだ訊いてねぇよ。……何もかも、どうなったんだ」
立ち上がりかけたいっちゃんが、再びすとんと腰を落とす。
「うん、ライムの実験資料は、すぐにオハラが公表した。……あの証拠があれば、なにもプラクティカやデリバリーが日陰に甘んじている意味もない。たしかにまだ、エピスコはこの国で偉そうな顔をしているし、アデプタスの存在もはっきりしないままだけど……ライムの薬害は絶たれた。被害に遭っていた側ってことで、遺棄児童や外国人労働者への風当たりは格段に良くなった。今、トビオたちは局地的に人気者になってるぞ。巨悪に立ち向かった少年たち、みたいな書きかたで、ネットにいくつか好意的な記事が流れたんだ。すごいもんだよ、無力とか言ってたのに……まるでヒーローだ」
へ、じゃあオレもてるかなぁ、と言ってみたら、いつものクールな顔で小突かれた。
「ああ、それとは別に、やたら坤神会のヤクザさんが病院に見舞いに来るのには参るけどね。……トビオが意識戻して動いてくれないと、組としちゃ困るってさんざん押し寄せて。馬鹿でかい花環を病院の前に立てまわそうとしたり、いったいどうなってるの。お前、なにか組と交渉したのか」
そうだった。オジキ。じゃあオレ元気になったら速攻でギャロップ面会に行ってネタをつかまなきゃいけないな。約束だから。
親父。
なんでだかもう少しも怖くねぇ。
ぐっと行ってがっと顔見て訊いてやろう。分の悪いギャロップに。強気に落ちついて。にっかり笑って。よう、メルキオリスカっていったい誰なんだ?
へへえ、と、けっこうぎりぎりの笑みを鼻に集めていっちゃんに歯をむいて見せる。また小突かれる。
「ああ、そうだ。あの家のトビオの部屋、エミョンとケンズが使ってるけど構わないかな。退院したら、連中の新しいアパートでも探そうと思ってるけど」
いや、そのままそこに居ろっつーの。
「全員がぞろぞろ並んで、プラクティカのスクールに通う姿はけっこう見ものだよ。トビオも早く来いって、チフユが待ってる」
そうでした。行かなきゃな。チフユちゃんコマすんだ。
「じゃ、とりあえず今日はこんなところにしておこう。明日、オハラやオハナさんやバーテンさんたちや、仲間連中がみんなして病室に集まる予定になってるし……。気になることは、直接みんなに訊けばいい。タイミングよく目が覚めてラッキーだったね」
「あ? なんでみんな来るの?」
クリスマスだから、らしいね。といっちゃんは再び立ち上がる。「トビオの枕もとにプレゼント並べておいて、意識戻った時にびっくりさせようってつもりらしい。……目覚めてないふりして、突然起き上がって驚かせてやったらどう」人の悪い提案をしてくつくつ笑う。
なんだよ、それは。
みんな、いったいどうなってるんだよ。
半年分の興味と生意気がごごっと胸にのぼってくる。
よく見ると、いっちゃんが着てるのはピーフケのジャージだ。ナチュラルすぎて今までまるで気がつかなかった。
それじゃ、医者呼んでくるよ、と立ち去りかけたいっちゃんをオレは引き止める。
「待って。あのさ。窓、ちょっとでいいから開けてくれない」
十二月なんだぞ、寒い空気なんか入れたらだめじゃない。しぶるいっちゃんに散々ごねて、医者が来るまでの間ほんの一センチほど、窓ガラスを開けてもらった。
風の出入り口。
去っていく快活な足音を聞きながら、ようやく動くようになってきた腕を持ち上げてみる。骨ばってやせてるが、何だか長い。腕そのものが、思ってたよりもちょっと長い。
オレ、たぶん成長した。
ひゅう、と笛のように窓の隙間を鳴らす風が、冷たくするどく指の間を通り抜ける。オレの体温を冷やして、ってことは、風はオレにちょっと暖められて。
ふん、と吐息をついて、腕をぱたんとシーツに下げて、オレはひとりでちいさく笑う。
さあ、これからどうしようかな。
激しく吹き荒れて飛び去る外の風を思う。
そこに乗って彼方まで突き抜けていく内なる風を思う
動こう。
飛ぼう。
好きなように吹き荒れてやろう。
オレが風なんだ。
(了)
→exit
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