Peaky Cheeky Boy
・
風はいい。風は情報を含んでいる。オレは風がすきだ。
真正面からぶつかってくるところがいい。なしくずしに物事をぶっ飛ばすところがいい。吹き過ぎて残らないところがいい。
オレは風がすきだ。
吹きだまりにいる時以外は。
いくら風がすきだと言っても、吹きさらしで目を覚ますのは嬉しいものじゃない。
ざら、と手足を動かした感触でわかった。どこか地べたで寝ている。ほこりっぽいコンクリート。肘や膝の関節がごつごつと痛む。ほとんど皮下脂肪のついてない体にこの仕打ちはきつい。
右腕の先と脚がちりちり痛い。怪我か? ちがう。熱いのだ。日光直撃でオレ無防備に日焼け中。
右の頬がひなたくさい地面に押しつけられていて、ぬらりと濡れてる気配。よだれか。げろか。
血じゃなきゃいいなあ、とぼんやり思って身を起こす。昼下がりの背筋運動。ぐ、と手を突いてそり返り、ふり向くと、自分のやせたケツが見えた。
オレは裸だ。
見まわすと、ぺらぺら軽そうなアルミのフェンス、用途不明に転がったレンガ、死んだ植木鉢などの様子で、ベランダにいるとわかった。オレの家の二階にちゃちく付いているベランダ。家というと偉そうだが、倒壊寸前のきたない小屋である。そこを何人かでシェアしながら住んでいる。棲んでいる。
立ちあがり、腹や腿にこびりついたほこりを払う。血は出ていない。失禁もしていない。喜ばしいんだかなんだか、まだよくわからない。昨日はなにがあったんだ。
ちんちんを揺すぶり、とりあえず階下に向けて小便をする。ブロック塀の内側にやたらため込まれ積みあげられたがらくたに飛沫が躍る。西日になりかかった日差しを受けて黄色い放物線がきらきら輝く。酸味のきつい匂い。おぼえてないが昨晩すっぱいもの、やったな。
ふり返り、自分の部屋の中をすかし見る。カーテン代わりにぶら下げた梱包用エアパッキンのシートのむこう。ごしゃごしゃしているのはわかるが、よく見えない。だれかいるのか。
ごろごろごろ、と不吉な響きを立ててすべる重いガラス戸を開き、エアパッキンをめくって部屋に首を突っこむ。燦然たるものだ。散々たるものとも言うが。床をおおう美しきゴミの群れ。そのへんでかっぱらってきた本を、読み終わるそばからぱっぱと床に放り投げた跡。ラッパ飲みした甘ぁいサザン・コンフォートのビンを、十本ならべて立てておき、拾ってきたべこべこのサッカーボールを転がす。がしゃあん。ばあんがらがら。ストライクー。そんなことをやって遊んだ残骸もそのままだ。鼻血がどっさり染みたトイレットペーパーのロール、さらって来たマネキン人形の下半身、焦げ焦げのアルミ箔。
ゴミの海に浮かぶ船のように、オレのベッドが壁ぎわに漂着している。拾ってきた骨組みに盗んできた布を詰めこんで作った創意と工夫のベッド。青い布の下のふくらみがもこりと動いた。
だれか寝てやがる。ピーフケか。リンタロか。オレはがすがすと芥を蹴ちらして寝台に近づき、のぞきこんだ。
女だ。
おどろいた。女連れてきたっけ。まったく憶えていない。裸の肩を丸めてもつれた髪を巻きこんですやすや眠る横顔。見たことない。知らない。すっぱいものでわけわからなくなってやっちゃったか。
オレは突っ立ったまま頭をごすごすと掻いた。昨日のこと。まるっきり思い出せないが、まあいいや。いつもこんなものだ。
自堕落モードでリラックスしたとたん、すさまじい勢いで空腹が襲ってきた。胃が真空になってきゅきゅきゅきゅと回転。腹へった。あわててそこらを見回す。食い物落ちてないか。落ちていない。オレは悲しくなった。
女を揺り起こす。
「オイ、オイオイおい、起きてくれ」
んー、と女は目を閉じたまま仰向けになり、熱くてやわらかい腕をオレに差し出してきた。うす目を開ける。
「なあにぃ……またするのぉ……元気ねぇ」くすりと笑ってから小さくあくび。太めの頬。陽気な鼻の穴。別嬪ではないが感じは悪くない。歳はオレの二倍くらいか。いや、もうちょっと上。おそらく。
あったかい餅みたいな腕を頭に巻きつけられて、オレは一瞬そんなら一発しようかな? という気になりかけたが、空腹がぎりぎりと下腹を締めつけ、それどころじゃないことを思い出させる。
「違うちがう、そうじゃなくて、腹へった! マジでおなかすいたっつーの。食い物持ってない? 持ってないよな、ふつう。食い物買いたい。金ある?」
女は目を閉じてほっほと笑い、めんどくさそうにまた毛布にもぐりこみながら、片手の親指で枕もとの椅子を指す。水色に塗られた爪。テーブル代わりに置いた黒い木の椅子の上に、モノグラム柄のバッグがだらしなく口を開けて座っていた。そういえば、この中をひっかき回してコンドームを取り出したような淡い記憶がある。オレが? 女が? よくわからない。今はまずとにかく早急に食物。
バッグの中に紫色の財布があった。引っぱり出して、中を見る。四ケタ程度しか入っていないが、とりあえず借りる。無期限で。
オレはベッドの下に落ちていた軍隊ズボンに足を突っこみ、そのままずるずると引っぱり上げて履いた。脱いだままの形で残っていたのだ。ズボンの下にパンツは履かない。そもそも持っていない。
ごついベルトをぐいと引っぱって締め、尻ポケットに財布を突っこむ。早くしないと残りすくない糖質を脳がぜんぶ使いきって、性格が凶暴になってしまう。脂肪がすべて燃焼されつくして、おなかの表面に毛が生えてきてしまう。飢えたオレはまるでオオカミ男だ。
がらくたがなだれる危険な階段をすべるようにおりる。
階下のちらかり方も上と似たような惨状だが、しんとしている。ピーフケもリンタロも留守のようだ。
オレは靴をはかずにそのまま外に出た。そもそも持っていない。裸の上に軍隊パンツいっちょ。これがデフォルト。標準服。
今日のアスファルトはふかふかしている。昼前からずいぶん気温が上がったのだろう。今はかなりすずしい風が吹き始めている。湿度は上がり気味。土や植物がぷつぷつ空気を吐くにおい。
家から三十秒のコンビニに飛び込んで、弁当の棚に直行した。炭水化物炭水化物。カーボンをロードしないと、狂った食欲がオレの蛋白質を攻撃し始めてしまいまあす。胃が自分を溶かしてそこから活性酸素が出てガンになってしまいまあす。
大盛りの赤いパスタと牛肉丼をチョイスした。大瓶のマンタローも。ちょっと考えて、女のぶんも何か買ってやることにする。オレは親切。オレは余裕。
女って何を食うんだ?
首をひねって考えてもわからなかったので、適当に棚に手をのばす。キーライムのパイと乳酸飲料。これでいいだろう。
レジの前に、雑誌売り場。ついでにこれも買わせてもらおう。
雑誌ナビのモニターでチェックすると、ひいきの作家の短編がリリースされていた。小原テシュノ、へんな名前。でもおもしろいからオレはファン。それとこの街のローカルニュースと、忘れちゃいけない壱子センセイの星占いもチョイスして、トータル三件の記事をプリントアウト。
ばさり、と十ページばかりの薄ぅい冊子が取り出し口に落ちてくる。
レジに運び、女の財布から金を払った。
アイドル歌手を崩して煤けさせたようなレジの女の子。ちょっと年上か。十六、七ぐらい。どうせ女と寝るんならこっちのほうがよかったなあ。
「お弁当、あたためますかァ」
「冷やしてください」
にこりともしない。冗談不発。オレはつめたい食い物の入ったリサイクル袋をぶらさげて、自分の根城にもどる。
女はまだ寝ていた。オレはかまわず、床にしゃがみこんで猛然と食。裸のランチ。
お米のつぶつぶもパスタの端きれも残さず胃の中に送りこんでしまうと、ようやく人心地ついて大きなためいき。青いミントのうす甘い飲料をごぶごぶと飲む。
雑誌をひらく。テシュノの小説はあとの楽しみに置いといて、まずニュース。一区内すべての大通りが、ヒートアイランド対策の「すずしい道路」に改造決定。ラッキー。オレのような裸足愛好家にはうれしい話だ。夏場のとろけた路面にはまったく辟易する。
ご禁制の薬物「ライム」あいかわらず蔓延。オレも時々シノがせてもらっている、すっぱいもの。切手みたいなペーパーがメジャーだが、グリーンの小さな錠剤も流通し始めている。角砂糖にしみこませたやつは「砂糖漬けライム」、塩の結晶に混ぜこんであるのは「塩漬けライム」。先生の目を盗んで学校で薬物を販売した児童、つかまる。とんだ若草物語だ。
『エピスコ』の環境課による、資源ゴミ不法投棄の取り締まり強化、と読んでオレはヤベー、と一人ごちる。今日は火曜日、めんどうな家事がひとつあった。
壱子センセイのページに視線を移す。
ここの星占いは変わっている。なになに座、ではなく、どの惑星の影響をいちばん強く受けているかで運勢を判断するのだ。オレはばりばりの水星人間。「今週の水星さん」。
『水星と金星が四十五度で見つめあう今週。うぬぼれと楽観主義には気をつけねばなりません。能力以上の仕事に手を出すのは危険です。自制心を働かせましょう。金星人間との出会いは、享楽的で場当たり的な関係に発展しがち。安易な快楽に溺れないように。アバンチュールにご用心!』
なんのことはない、いつも壱子センセイ、通称いっちゃんに、オレが面とむかって言われていることそのままだ。
ベッドで堂々たるいびきをかいている、だれだか思い出せない女に、何星人間かを訊くのはやめておこう。
雑誌を放り出し、絢爛たるちらかりを這いまわって空きビンと、空き缶と、ペットボトルを発掘しまくる。一週間でよくこれだけ飲んだものだ。
階段脇の、バスルームのなれの果てみたいな小部屋に運びこみ、蛇口をひねって適当にじゃかじゃか洗う。ボトルの蓋をはずして燃えないゴミの袋へ。ビンはビン、缶は缶に分けて適当な袋に突っこみ、美しき分別完了。まだだ。ペットボトルを潰さなければならない。
全体重をかけてもなかなかへこまないペットボトルに悪戦苦闘していると、起きてきた女がゆらりとオレの後ろに立った。あったかい肉の気配。
「なにしてるの。まあ資源ゴミの分別。えらいわあ」
エピスコにくだらない罰則をとられたくないからな、と言って振りむいてどっきり。裸のおっぱいが目の前にある。思わず見上げる。なんてでかい女だ。
白状すればオレはチビだ。百六十センチそこそこ。しかし言い訳めいてさらに白状すれば十四歳、これから伸びるってことで勘弁してもらおう。
チビでヤセだから基本的にナメられる。ただのガキだと思ってみんな油断する。しかしオレが猫型にキレた目玉を剥くとなかなか危険。その日暮らしに漂う人生でずるいバトルは得意。汚い勝負でも、オレが勝つか相手が負けるか話はそれだけ。やられたら後で五倍返し。叩きつぶす、オーライ。じゃないと生きられない。だから知ってる奴は、オレを番犬かなにかみたいに使う。
話がそれたが、たっぷりした体をまる出しにして嫣然と、バスルームの入り口で笑ってる女は百八十センチ以上はあった。たいしたものだ。こんな女とオレやっちゃったんだろか。昨日のオレ、勇気ありすぎだ。
「そのボトル潰れないの。かしてごらんなさいよ。ほら」
オレを押しのけて、やたら頑丈なペットボトルに大きな足を乗せる。ふん、と体重を乗せたと思ったら、ずほん! えらく大きな破裂音がして、飲み口のところから白い破片が飛んでいった。女はけらけら笑う。
「まあ……いやだ、蓋がつけっぱなしじゃないの。それじゃ、潰れないのも道理よ。あっははは、破裂させちゃったわね」
ぞおおお。この女は象か。ボトル踏み割ったぞ。ちんちん潰されなくてよかった。
キーライムのパイを、女は二口で食った。
オレの湿ったくさいベッドに腰かけて、肉厚の足の裏を見せながら、ゆったり時間をかけて煙草を吸っている。あんまりでかいんで、部屋の遠近が狂う。
「ねえ、昨日のことおぼえてる?」
来た、定番の質問。おぼえてるわけないじゃないか。
「多少。うん。ふたつばかり」
オレは言って、ドライシャンプーを頭にふりかける。ナノテクの力で毛髪クリーン! グリーンバナナの香りで毛根活性! 手櫛でがしゃがしゃと砂色の髪をかき回す。
「どんなこと?」
ぷーっ、と唇をつぼめて煙を吐き出すしぐさが玄人くさい。やばい筋のおねえさんかしらん? トビオ君もしかしてピンチかしらん?
「太陽が、東からのぼったことと」
女がじろんと目線を飛ばす。
「西に沈んだこと、かな」
片目を細めてオレの顔をにらんでいた女は、やがてくつくつと笑い出す。煙にむせる。
「しょうがないわねえ。おぼえちゃいないと思ったけれど」
ものわかりのいい大人の女って大好きさ。
「あたし五丁目で店をやってるの。癒しパブ。ごはんとお酒を出して、おはなし相手の男のコと女のコが何人かいて、それぞれアロマテラピーやヒプノセラピーのできる子たちなのよね。おもに勤め帰りの女の人が立ち寄る、健全な店よ。最近は疲れたオジサンのお客様も増えてきたけれど。癒しパブって、感じわかるかしら?」
オレは足の爪を鋏で切りながら、なんとなく。と答えた。インチキ癒しパブなら何軒か知っている。
「数ヶ月前から勤めているコで、パワーストーン・ヒーリングのできる姉妹がいたの。マナビちゃんとアソビちゃん。なかなか名コンビで、ひいきにしてるお客さんも多かったわ。姉のマナビちゃんがお客さんの相談を聴いて、ヒーリングに使う石をチョイスするのよ。そうしたらアソビちゃんがおもしろおかしいトークで、お客さんをリラックスさせながら感情のカタルシスを行なうのね。みごとなもんだったわ。ファンが多いのも、よくわかる」
女は鼻からもわりと煙を吐き、灰皿ある? と訊ねた。オレは空になった鎮咳除痰薬の缶を渡してやる。
「その姉妹がね、二週間ほど前に失踪しちゃったの。週給制のアルバイトだから、突然バックレる従業員なんてめずらしくないんだけれど、この二人の場合はちょっと心配なのよね」
ぽそぽそと缶に灰を落す。顔が陰になり、法令の線が濃くなる。思ったよりも年が上なのかもしれない。
「お給料も未払い分が残ってるし、なにより急に消えるようなコたちじゃなかった。あたしの印象だけれど、苦労が身についてるいいコたちよ。マナビちゃんのほうには子供がいて、その子供、あたしのところに預けたままなの」
オレはあきれて女を見る。その、預けられた子供はどうなってるんだ?
ふ、と渋い笑みを作って、女はオレを見返した。なんだか負ける。店をやってるとか子供を預かってるとか、ふらふらその日を生きてるオレには遠い話だ。
「子供……テルミ君はあたしの母親が面倒見てるわ。孫ができたみたいって喜んで、おんぶにだっこで世話しながら父親の介護に通ってる。おかしなものよね。うちの家計を立てるためにあたしが店をやって、逃げた従業員の子供を母親が預かって、ボケの来た父親のおむつをとりかえに行ってるんだから」
なんだか暗い話みたいだった。オレは横を向いてぺらぺら雑誌をめくる。小原テシュノが遺棄児童についてのたくましい短編を書いている。多いよな、本当に多い。遺棄児童。オレも含めて。
「で、姉妹が消えた直後から、うちの店のまわりをおかしな奴がうろうろしているの。古い壁のシミみたいに目立たないけれど、一度見ちゃうと気に障ってしょうがない、ってたぐいの男たち。気味悪くって。お店のコたちも、おびえているのよ」
話がじわじわ自分のほうに近づいてきた気がして、オレはさりげなぁく背中を向け、雑誌の短編に集中するふりをする。
「誰か用心棒になってくれる人はいないかしら、って訊ねまわったら、ある人があなたのこと教えてくれた。『BUK』でにらみをきかせているヒマな男のコが一人いるって。それで、昨日会いに行ってみたのよね」
立ち上がり、その辺に散らばった洋服をかき集める気配。ようやく巨大なおっぱいを布地に隠してくれる気になったらしい。
「まいったわね。ようやく見つけ出したそのコは、お酒とアシッドでさかりのついた猫みたいになっていて。半裸でしっとり汗かいた、キュートきわまりない坊や。あなた、『BUK』の鏡のカウンターに肘ついて、最初から最後まであたしの胸だけ見てたのよ」
さもありなん。オレは細切れのため息をつく。だってボクまだ十四歳のコドモだからでっかいおっぱいにはむしゃぶりつきたくなっちゃうんだよママァー。
「あたしのこと、オレの聖母だぜとか言ってここに連れこんだのよ。おぼえてる?」
ぼわぼわと燃えて赤くなった耳をピンと立ててしまう。大丈夫か昨日のオレ。象さんみたいに巨大な聖母さまをお持ち帰り。
「わりぃ、途中で気絶しちゃったからあんまりおぼえてなくて……」
そう言って眼の端をちらり飛ばすと、女は紫色の光るワンピースをつるりと着こみ、背中のジッパーを自分で上げているところだった。深い胸ぐりがこぼれそうに揺れる。
「気絶したあとで、四回もするのね」
まいった。
女は髪をふわりと整え、バッグから金色に光る口紅を出して鏡も見ずに引いた。
「今日、時間があったらお店に来てくれるかしら?」名刺らしきカードをベッドの上にすべらせる。
「ごはん食べにいらっしゃいな。毎晩だってごちそう出すわよ、トビオちゃん。ところであたしの名前は……」
しゅしゅぅ、とアトマイザーでコロンのミストを自分の首筋に吹きかけつつ、床に座ったオレの横をかすめる。
「オハナ。昨日も言ったけれどおぼえてないわよね。お店の名まえは、『オハナズ・ダイナー』。わかりやすいでしょ」
じゃ、またね、そう言うオハナ姐さんの尻あたりに、オレはよけいな一声をかける。
「なあ、惑星占いって知ってる?」
巨大な姐さんは振りかえりもせず言う。
「もちろん。あたしは、ほとんどのサインが金星に入ってる、超金星人間よぉ」ひらひらとでかい掌を振る。
土下座のような格好でひとり取り残されたオレはつぶやく。やっぱり。
日が暮れるのを待って、ふらりと外に出た。オレも精出してご出勤。
ぺたりぺたりと道を往く。ボロ家とコンビニのある路地を抜けて、街に続く大通りを裸足で。夕暮れの路面は皮一枚下からしずかな冷気を漂わせ始めている。ざうと吹き抜けるうすら冷たい風の感じからいくと、日付変わる頃からしょぼい小雨が降ったり止んだりするだろう。気圧がじわじわ下がっていくのが耳の奥に聴こえる。
六月の夜の都会の空、ということばが口をついて出た。なんだっけ、これ。
イナガキタルホか。モダーンな世界にあこがれて、極貧のペデ作家が書いた透明な遠い前世紀の文章。
残念ながら今世紀の六月の都会の空は今のところ、商業的に排出される精液と社会を担う強い女たちのぼやきと捨てられたガキどもの暴力で、どろどろに濁っておりまあす。
自虐気味につまらないことを考えながら、店や人ごみがみしみし密集してくる一区の中心地帯に足を踏み入れる。かまびすしい。歩きにくい。足もとは幾何学模様のくすんだタイル。目地に砂ぼこり。
ティッシュやチラシや割引券をくばる人、そんなトラップには目もくれずにせかせか行き過ぎる就業後の勤め人、完全に自分のリズムで歩いてるからやたら人とぶつかるヒマ人と若造と謎の外国人。カジノ・バーの前で猫耳ガールが飴をくばっていたので、ちょうだいと言って両手いっぱい杏ドロップをもらった。軍隊パンツの膝ポケットに詰めこむ。
オレの出勤先である「BUK」は、小さなアーケード街を半分ほど行ったあたり、リサイクル本屋の地下一階にある。
オレはいったん本屋のバックヤードにまわり、ひと気がないのを確かめてからするりと倉庫裏にすべり込む。
いつもそこには、リサイクルの回転から取り残された悲しき文庫本が大量に放置されているのだ。ざっと見渡し、てきとうに二、三冊ズボンの尻にねじ込む。今宵の読み分ゲット。
つるつると抜け出し、バイト先に急ぐ。
店のまんなかには棺桶がある。
その周囲をぐるりと取りまくスツールに座った客は、バーボンとかテキーラとかラムとか、そういった強い酒をてんでにオーダーする。なぜだか低ぅい声で。
カルーアミルクちょうだい、とか、ボクはチューハイ薄くしてネーブルをスクイーズしたいなァ、とかいう人は、この店には入って来れない。入ってきてもケツが落ちつかない。
ショットグラスに注がれた濃い酒を手にした客は、男ぶってそれをグッと一気に飲み干し、うう、とか、おお、とか男らしげなため息をつく。
やけに暗い、ブラックレザーとクロームで固められたバイカー・テーマパークみたいな店内。
グイッと一発スピリッツを飲み干した客は、そのグラスを持って店の中央に向きなおり、棺桶の中をめがけて思いきり投げつける。
がしゃあああああん。
気色のいい音を立てて、ショットグラスがこなごなに砕け散る。
すかっとするデモンストレーション。マッチョなスタイルのうっぷん晴らし。
棺桶の中には、そうして粉砕されたグラスがどっさり、ごっそり破片となって積もっている。
頃あいを見て、その棺桶の中身を片づけるのがオレのおもて向きの仕事だった。
「トビちゃん、遅いヨー」
チーフのステヴァンが棚のボトルを一本ずつ順番に磨きながら、いつものように声をかけてきた。オレが何時に来ようと必ずそう言うのだ。嬉しそうに。
アルゼンチンから来たステヴァンは律儀で気のいい男だ。あんまりひんぱんにオレに声をかけるので、最初はホモかと思ったら違った。
きっと子供にやさしいんだろう。
「カンオケ、たまってんだ。さっさと捨てろ」
冷凍カラマリをレンジに突っこみながらジェニーが低く言う。猪首で肩が盛り上がってるわりに、下半身の貧弱な愛想のないおっさん。ステヴァンと対照的に、子供にきびしいバーテンだ。まじり気なしの日本人だが、「ジェニカネの問題じゃねえんだよ」が口ぐせだから付いたあだ名。ジェニー。むかつくジェニー。
こんど一発ぶん殴ってあげよう、と思いながら、オレはフロアの中央に進み出る。
破片で重たくなった棺桶をずるずる引きずり、店の奥に。従業員控え室兼ストックルーム兼ゴミ置き場。
エピスコのマークが輝く、リサイクルゴミの回収袋をロッカーから一枚取り出し、でかいシャベルでざくざくとグラスのかけらを詰めこむ。
あらかた移し終えたら、よい、と力をこめて棺桶を垂直に立て、ゴミ袋の口めがけてざざざざー、と中身を投棄する。ビロードの内張りにくっついたこまかい破片や、粉になったものは手でざりざりと掻き出す。終了。
そんな荒ワザを使ってもオレの手にはかすり傷もつかない。なぜかって? そこにこの店の、せこい演出が隠されているからだ。
客が棺桶に叩きつけるショットグラスは、「BUK」のオリジナルだ。
一見ガラスだが、実は別物。アクション映画なんかの撮影で使われる、人間ががしゃーんと窓をぶち破って飛び出しても怪我しない、あの特殊な樹脂でできているのだ。
ゆえに、お客サマは安全。飛び散った破片でおててをおケガあそばされず、安全に無頼漢をきどることができる。グラス代込みの、お高いお酒をいっぱい呑んではがしゃーん。ストレス解消にがしゃーん。男っぽい気分を味わってがしゃーん。
あほらしい、と思いながらオレは、からっぽになった棺桶をまたフロアに引きずっていく。
安全を保障されたハードボイルド・ワールドで遊ぶ男きどりの男たち。
かなしいことだが、それがこの店のありがたい上得意様だ。
ひと晩に二、三回棺桶を空にしながら、オレはだいたいストックルームのベンチに寝そべって、かっぱらってきた文庫本を読む。バーテンのだれかが持ってきてくれる、まかない飯で飢えをしのぎつつ。
今日はジェニーがそっけない顔で飯をはこんできた。カラマリとチーズのざく切りが乗ったどんぶり飯。猫のエサじゃ、ないんだから。
まあ何でも食べるんだけど。
文庫本は、チェコの亡命作家が書いた復讐譚だった。暗いのと明るく狂ってるのが混じってて、けっこうおもしろい。
まだ日付も変わらないうちから、店の中から騒がしい怒声が響いてきた。仕事かなあ。
オレはのっそり起きて、ドアの向こうの音に耳を澄ます。
「るせえよっ、オラ」(がしゃーん)
「んだと、てめコラふざけんな」(がしゃーん)
仕事みたいだった。おお面倒くさい。オレは鼻からぷーと息を抜いて文庫本を閉じる。ロッカーから出したガムテープのロールを、裸の左腕にぽこんと嵌める。
ハードな感じのロケーションで、オレは男だムードが大いに盛り上がり、そして自分が絶対安全だとなると、人がなにをおっ始めるかご存知だろうか。
大抵は調子に乗る。手近な奴にちょっかいを出し始める。飲んでいるから加減がわからず、相手がキレるまでやる。ケンカになる。
アホにはオリジナリティがないから、必ず同じことをする。
やんわりドアを開くと、目の前に毎晩おなじみの光景が繰りひろげられていた。
ステヴァンの前に座った二人の男。六月だと言うのにニットキャップをかぶった、やたらモミアゲの長い若い男と、妙にてらてらしたパチ物アロハを着た小デブ。小デブは若ぶっているが、頬や腹のたるみがきっぱりと中年だ。
二人の肩口からさらさらと足もとに透明な破片。ショットグラスのかけらはあちこちに散って、別の席の客があきらかに白い目をぴしぴし向けている。
このグラス、当たっても怪我しねえんだよ、とか言いながら、連れにわざとぶつけて不興を買う客がしょっちゅういる。また、あっちの席からこっちにガンを飛ばした、あの野郎が気にくわねえからコップ投げつけてやったのよ、と息まく妄想狂も数多い。毎晩。
安全なグラスを投げ合ってケンカになるわけだけれど、あんまり盛り上がりすぎて店を壊されたり、お客サマ同士の障害沙汰に発展しても都合が悪い。
ので、僕トビちゃんことバイトの清掃ボウヤが個人的にトラブルシュートするのだ。
ごら、とか、なめんなオウ、とか、あまり堂に入っていない台詞を吐きながら睨み合う二人。オレはぺたぺたと近付いた。
ジェニーがさりげなぁくカウンターに置いたミネラルウォーターのペットボトル。中身は三分の一ほど抜いてある。すてきな手作り超反動ハンマーだ。オレはボトルの上部にしっかり指をからめ、握りしめる。
すたすたと連中に歩み寄り、にっこりしたままペットボトルをスイングさせ、まずはモミアゲ男の延髄を、続いて小デブオヤジの延髄を、ぼいいいん、ぼいいいん、と一発ずつ遠慮せずに殴った。
一瞬はげしく脳震盪、で判断の切れた二名様の頭を、すかさず両側からつかんでがっちんこ、とぶつけ合わせる。頭のかたい連中だ。もう二、三度がつんごつんと叩き合わせた。
いきなり裸足で現れた半裸のお子様に、脳みそをがすがす揺すぶられるわけだから、相当に年季の入ったお客様以外は虚をつかれる。
慌てて振り向こうとする見開いた目に、カウンターの上にあったコショウのびんをぱっぱとシェイク。直撃。
オレは腕輪にしていたガムテープのロールをびー、と引いて、まずは暴れかけている小デブの関節を逆にねじって腕をうしろに回し、手首をぐるぐる巻いてしまう。
それから、スツールから落ちかけたモミアゲの後ろ手もきっちりパッキンし、おまけにぺたり、ぺたりと双方の口にもガムテを張りつけた。たぶんこの一連のアクション百秒以内に完了。次は一分以内を目指そう。
無関係ぶって眺めていたお客様がたの目つきが一斉にぎらんと光る。うわさの暴力。この店ホントにこういうことが起こるんだ。すっげえマジ見た。あぶねー。
モミアゲの方はあきらめが早く、ずるずるとスツールからすべり落ちて床に膝をついてしまう。
小デブは懲りない。涙と洟を散らしながら肩をどすどすとオレの体に当て、つま先をむやみに振り回して蹴飛ばしてくる。めんどうなお人。
オレは右足引いて逃げ腰? と思わせて左脚、回し気味に瞬間はね上げる。び、と音がして小デブの頚動脈に深くヒット。めり込む感触。オレの足の裏はすごぉく硬いぞ。
ステヴァンががらがらと押してきた酒類運搬用大型カートに二人を蹴り上げながら乗せる。小デブはうるさいから足首もガムテで縛っちゃう。モミアゲも気の毒だけど道連れに、ぐるぐるテープで縛りつける。
オレは店内を見渡して、お客様方に一礼する。「おさわがせいたしました」そのままごろがらごろがらとカートを押し、ストックルームに運んでいく。重い。もはや呆然としたままの、元・客二名。
ストックルームの扉をばたんと閉じ、部屋を突っきって奥のカーテンのむこう、業務用エレベーターに運搬台車ごと乗っちゃう。すり切れた赤い内張りの布。一階へまいりまぁす。
ドアが開くと、本屋の倉庫の脇に出る。五階建てビルの裏口。そっけないポーチに夜の空気がしんと落ち、通りかかる人もない。
オレはそのまま、カートの上のものを地面に空けた。どさ、次いで、どさり。ガムテの向こうからぬう、とか、ぐう、とかうめく声。
二人をそのままポーチに転がしておいて、オレは低い段々に腰を下ろす。軍隊パンツの尻ポケットから、読みかけだった文庫本を出す。月明かりは弱いが、裏口の常夜灯が白々しい光を存分に投げかけている。じゅうぶんに文字が追える明るさだ。
小一時間も読んでいただろうか、ようやく思い出して二人を見ると、完全になにかをあきらめきった目つきをして静かにそこに転がっていた。
オレは本を閉じ、少しばかり怖ぁいお話をしてあげた。人生の選択を間違うとどうなるか、実例を含めたとてもためになるお話。
「BUK」でのタダ酒は、とても高くつく。
それから、モミアゲの方のガムテを解いてやる。立てるかー、と、気遣ってやりつつ。相当に膝に来ているが、なんとか立って歩けるようだ。
小デブの方もよいしょ、と立ててやる。これは暴れるからガムテは解かない。
街に放してやった。
ふらふら、よろよろ、それに支えられた小デブがぴょんこぴょんこ、跳ねながら遠ざかっていく様を、オレはポーチに立ったまま見送った。動物を森に返す少年のような風情で。
二人の姿が消えると、オレは文庫本をポケットに戻して店へと引き返した。
十二時を過ぎたので勤務をコウさんと交代した。びんびんにソリッドな目つきと体をした、二十代の中国人。オレはいちおう児童だから深夜勤務はしない。
そのまま店で遊んでいてもいいのだが、今晩のオレには行ってみたいところがあった。オハナ姐さんの癒しパブ。飯を食わせてくれるならどこでも行こうじゃないか。
タダ飯も結局高くつく、と言うことを、その時のオレはてんで予想しちゃいなかったんだ。
名刺にあった地図の記憶を頼りに、オレは五丁目にふねふねと歩を進めた。予想通り、ぱらぱらと雨が落ち始めている。アーケードの道を伝うようにして、象のような姐さんの店を探す。
案外かんたんに見つかった。何ヶ月持つかわからない極小の料理屋や、扉の幅だけしかないバーがちまちま並ぶ路地を抜けて、どんづまりのけっこう立派な店。ビルの一室なんかじゃなく、ちゃんと道に生えて立っている一軒の店だ。ちょっと恐れいりながら重い木の扉をひらく。
はっ、と息を詰めて振りむく目。の群れ。
すてきな癒しのサロン、という雰囲気じゃなかった。むしろ逆。緊張と恐怖と敵意がばしん、とオレの裸の胸にぶつかる。薄暗い店内、お香の煙の中に五、六人ばかりの人が突っ立っていて、きりきりと疑惑をこめたまなざしでオレをサーチした。
ん? 何かオレ間違った? 場違い? 営業時間外? Uターンして帰った方がいいのかしらん?
「トビオちゃん!」
オハナ姐さんの声。見覚えのある紫のワンピースに、相変わらずの胸元をゆらゆらさせて駆け寄ってくる。歓迎にしちゃずいぶん引きつれた声だ。
「あー……。ごはん食べにきたんだけど。なんかオレ、ヤバいとこ来た?」
オハナさんはでかい身体をすくめるようにしてオレの前に立ち、ぎゅうと両手を握り合わせた。眉間がもくもく動く。泣きそうなのか? なんで?
「……ええ、まあ、座って。みんなも座って。モモちゃん、おもての看板しまって、入り口の鍵かけちゃって」
神経質に指を組み合わせる。顔を見ると、唇の端がぷるぷると震え、夕方にはきれいに描いていたはずの紅がはみ出して汚れている。
「何かあったの?」
果敢に微笑もうとするオハナさんに、とりあえずオレは訊ねた。どうやらすんなりごはんが戴ける状況ではないらしい。
ちいさく呻いて、姐さんはソファに腰を落した。店のあちこちに、印象の違うテーブルや椅子がたくさんある。リクライニングチェアや、中華屋みたいな円卓に椅子。ポップなベンチ、ローテーブルにふわりとしたまるいソファ。それぞれ、いろんな癒しとやらをする場所なのだろう。
モモちゃんと呼ばれた若い女を含め、従業員らしい男女の目線がひとつところに集まっている。床に置かれた、やたら巨大な段ボール箱。不自然だ。
箱は動いている。
ひらかれた上蓋が、ゆすゆす、と揺れる。底が床にぶつかってかたかたと小さく鳴る。大きく軋む。ぎっこん。
ぽつ、と白い点が現れて、箱の上にむかってにゅうと伸びた。指。続いて、
漂白されたように血の気のない腕がふるふると、箱の中からゆっくりと突き出された。
寒い。
背中にすうすうと風の気配。湿ってつめたい空気の流れ。
ぶしっ、とくしゃみをして、オレは目を覚ました。毎度ながら頭はぼんやり。ああ生きて起きられたなあ、といつものことながら感心しつつ。
ノイズが聴こえる。しゃー、とざー、の混じりあった音源に、ばと、びしゃん、ぱらぱらと効果音が混じる。どこかで聞いたことがあるような音。よく知っている音。
ああ雨だ、オレは突っぷしていた頭を上げた。ひやりと冷気が頬をかすめる。窓、開けっ放し。そこから遠慮会釈ない大雨の音と湿り気がやってくる。
どうやら自分の部屋だった。なんでどうやって帰ったんだっけ。毎度ながら、思い出せない。
暗い。雨のなだれ込む引き戸の向こうは、陰気にくもって夜っぽい。オレは寝ころがったまま、履いたままの軍隊パンツをあちこち探り、ようやく脛ポケットから携帯電話を見つけ出した。
とりあえずナビを確認。人工衛星の画像から、地球の大写しがどんどん近づいて日本地図になり、雲を突きぬけて首都を目指し、オレの住むややこしい街の上空に近づいてくる画像がとてもすき。今日も地球に帰ってまいりました、ただいま! という気分になる。元気が出る。
ここはやっぱりオレの棲む、いつもの住所のいつもの部屋だった。よかったよかった。
ナビを切って時間を見る。午後五時十一分。わあ、おねぼうさん。いっぱつ大あくび。
携帯電話は壱子センセイに持たされたものだ。
「トビオがそういう、破滅に向かってまっしぐらなライフスタイルを追求したいなら何も言わないけど」
いっちゃんは寒ぅい口調で言い放ってくれた。「のたれ死にされると、身もとを引き受けているあたしが困るの。せめて緊急時には連絡できるようにしておきなさい」
つまりこの携帯は、そのへんの犬猫が条例で足に付けている、発信機付き鑑札リングみたいなものなんだろう。いっちゃんにとっては。
それはそれとして、異音。
雨の音に混じって、うがあー、とか、ぷすうー、とか、獣のうなり声めいた音が聞こえる。部屋の中から。オレのベッドから。
いやぁな予感。
オレはのっそり立ち上がった。暗い室内を見渡す。ごみとがらくたで埋められた床は、資源ゴミを回収に出した分だけ昨日よりましになっている。
廃物利用のオレの青ベッド。またしても大きな人がたに膨らんでいる。怪音が響くたびに膨張したり収縮したり。オハナ姐さんか。すごいいびきだな。
そおっ、とベッドを覗きこもうとしたら、だしぬけに毛布がばふっ! と襲ってきた。
「うわわっ、ひゃあ!」
情けない声で叫んで飛びのいてしまう。
青い毛布が吹っ飛んだあとに身を起こした人影。肩がでかい。一瞬で目を覚まして反射的に上半身を立てたのか。びりっという緊張感が空気を伝わり、オレの腕のうぶ毛を逆立てさせる。
もちろんオハナ姐さんではなかった。
そいつは、ぎらぎらするような視線で闇を透かし、オレの姿をじいいいっ、と見つめた。眉を寄せ目玉をぎんぎんに怒らせる気配。
いきなり、ふっ、と力が抜けた。ベッドに突き立てられていた、長すぎるような腕がふわりとたわむ。鼻からすっと息を抜いた。
がしゃがしゃ、というのは擬音として合っていないかもしれないが、そんな動作で慌ててベッドを抜け出した。巨大なポンコツロボット、起動。という印象。
ずたずたと長い脚を動かして、呼んでもいないのにオレのほうに歩いてくる。つんつるてんの灰色ジーンズに汚れた白いランニング。オレの横にぴったりくっついて立ち、じいいいっ、とその青い視線を上から降らす。
「お前か……」
オレは脱力して、そこにへたりと座り込んだ。一気に記憶が甦る。なんで毎日めんどうごと、持って帰るかな。昨日は大女で、今日はそれよりさらにでかい大男。
男はきょと、とオレの様子を見て、急いで真横にぺたりとしゃがんだ。無精ひげの生えた四角い顔を突き出すようにして、丸い目でオレを眺めている。
「なつくなよなぁ……」
オレは頭を抱える。
「オレはお前の親じゃ、ないんだからさ……」
皮肉満載で押し寄せる昨日のできごと。
オハナ姐さんの店のまんなかに、どかんと置かれたでかい段ボール箱。
ゆら、と突き出された白い腕は、ふらふらと何かを求めるように宙をさまよって、やがてやる気をなくしたようにぽそんと箱の中に吸いこまれた。みし、と段ボールが鳴る。
店の中に突っ立つだれもが、泣く寸前のように息を細かく吸いこみながら、びっしり固まってその様子を見つめていた。
「さっき、へんな男たちがいきなりその箱を持ちこんできたのよ」
背後に生暖かく立ち、水色の爪をくっとオレの肩に食い込ませたオハナさんがささやく。
「お届けものです、とか言いながら。この間から店のまわりをうろうろしてた変な奴らよ。ねえ、セージ君」
セージ君と呼ばれた若い男が、咳ばらいをしてからやっと、そうです、とつぶやく。ホストみたいな顔と髪型だけれど、服はシンプルに白Tシャツとジーンズ。
「四人、だったと思いますが。そこに置いて、あっという間に出て行ってしまったんです。お客さんたち、びっくりして。箱はなんだかガタガタ動いてるし、気味悪いですよ。しかたなく、お客さんには帰っていただいて」
セージ君はオレを見ずに、視線を箱に集中させたまま、腰を引き気味にしている。まるで、段ボールが跳躍して飛びかってくるんじゃないか、と思っているように。
「オレ、開けました。その箱。中に、ひ、人が……」
さっき手が出てたもんな。
「生きてるんだろ?」
オレは訊いてみる。セージ君はかくかくとうなずいた。
ぐちゃぐちゃで瀕死の状態のお知り合いでも入ってたんだろうか。オレは気になり、すたすたと箱に近づいた。
「ちょっと、トビオちゃん、あぶないわ」
オハナさんが言うが放っておく。箱の中身っていつも魅力的だ。いったい何が入ってるのか、すごく気になるじゃないか。
近付くと、きーんという感じで覚えのあるにおいが漂ってきた。恐怖のにおい。汗に含まれるある種の電解質。闘争と逃走の本能を刺激する物質の、ぷつぷつ飛び立つ極限のにおい。
オレが犬ならば、その時点でうー、と唸ってわんわん吠えていただろう。
しかし、好奇心猫を殺す。
オレは覗きこんだ。
膝を抱えてせま苦しく座りこむ姿、閉じた目。ずうずう、というような低い息づかい。色あせた小麦色のみじかい髪が、汗で湿ってべったりと頭皮にはりついている。うす汚れた白いランニングに包まれた、みっちり張った筋肉も汗だらけ。肩や手足が小刻みに震えている。
段ボール箱にびっちり詰まった、体格のいい男だった。若い、のぎりぎり端っこで、おじさんになる一瞬手前、だろうか。白人の年ってよくわからない。
むあっ、と立ちのぼる熱い湿気に、しんなり歪む段ボールの内側。震える汗。
「お。こいつ、具合でも悪いのか? おい、大丈夫か?」
思わず言った。それがまずかった。
と、悟るのはだいぶ後になってからだ。
男の目がぱちっ、と勢いよく開いた。電源がオンになったように。くん、と首を上げて、焦点の合わない目線をオレのほうに向ける。
ふらふらしたスチールブルーの眼が、オレの顔に向けてするすると絞りこまれた。
ばっちり視線が合ってしまう。
いきなり、男は立ち上がった。
直立不動の姿勢でまだオレを見ている。
おっ、とひるんで後ろに下がると、男はがたがたと長い手足を操り、あわてたような様子で箱から出てきた。巨大。
ひあぁ、という声のない悲鳴とともに、店内の連中もいっせいに後ろに下がる。
大男はオレの目の前にくっつかんばかりに立ち、何か言われるのを待っているかのような様子で首を傾け、真剣きわまりなくオレの目を覗きこんでいた。
敵意や悪意や危険な衝動はみじんも感じられない。そういうものは匂うのだ。
「おいおい、これは……」
オハナ姐さんたちを振りかえって訊く。
「どうしましょう?」
全員がゆっくりと、無表情に首を振った。
知らーん。
誰も、その男に心当たりがなかった。
詰めこまれていた段ボール箱を調べてみたが、何も手がかりなし。特徴なし。エピスコ謹製の、リサイクル材使用強化特大段ボールだ。
大男はそばにぴったりくっついて、オレが歩けばあとを追い、オレが止まればぴしんと直立して、オレの顔ばかりをぐんぐんと覗きこもうとする。されど問いかけても無言。反応なし。やりにくくてしょうがない。
それでも男がおとなしいことに安心したのか、きりきり来ていた店内に落ち着きが戻り始めていた。
「卵からかえったヒナが、最初に見たものを親だと思いこむ、アレみたいね」
オハナ姐さんが無責任なことを言いながら、カウンターの内側でばん、と強く冷蔵庫の扉を開ける音。何してるんだ。
「おまえ、名前はなんていうの」
無駄だと知りつつ問いかけてみる。灰青色の目玉がきょとんとオレの口もとを見つめている。人の口が動くのがそんなにおもしろいか。
「ガイジンさんでしょ、外国語とかで訊いてみたら?」モモちゃんが慎重に近寄ってきた。たのむわ、と言うと、男の方にそっと顔を近づけて、こわごわ呼びかける。英語で。韓国語で。タガログで。そして中国語らしきことばでも。
大男は二秒ほどモモちゃんの顔を見て、それからオレの顔に視線を戻した。
モモちゃんは嘆息し、引き下がった。ありがとう多言語対応の店員さん。その背後からオハナさんがずい、と、皿に乗ったパンケーキを突き出す。場違いに華やかな赤いベリーのソース。
「あ? オレの飯?」
違うのと首を振る。ふっくら豊かな指先で、オレの向こうの大男を指している。なんでだ。
受け取った皿を差し出してみたが、男は眉間にしわを寄せて鼻孔をひくひく動かすばかりで、手を出そうとしない。
もったいない、ので、オレは手づかみで一口かじった。甘い。うまい。
スチールブルーの目が見開かれたので、クリームをたっぷり塗ったやつを差し出してみる。あー、と口を開け、すなおに食った。
「うわっ、食べた!」
一心に見つめていたのか、皆から歓声が上がる。野生動物の餌付けを見るギャラリーみたいだ。
おいしい食べ物はいろんなことを救うのよ、と、オハナ姐さんが少し得意げにうなずいている。どんな理屈なんだ、それは。
めんどうになったのでまた皿を突き出すと、男は今度は手を出して受け取り、順調にぱくぱくやり始めた。腹がへっていたのか、次第にスピードアップしてきれいに平らげてしまう。
けふん、と神妙にげっぷをして突っ立っているその男、のことを、どうしたらいいのかだれにも見当がつかなかったのだが。
なぜだかその男が、オレの部屋にいる。
巨大な忠犬のように横に座り、指示でも待つような格好で首を突き出している。
うー、とオレはうめいて自分の頭を掻きむしった。なにがどうしてこうなったんだ。
オハナ姐さんの懇願する顔がぽうんと浮かぶ。
「お願い、トビオちゃん。今、うちの店に立ち入り調査とかあると本当にまずいのよ。マナビちゃんたち姉妹は消えたままだし、子供は預かってるし。エピスコの査察に入られたら、どんな難癖つけられるかわからないわ。今はそのコを、トビオちゃんのところに置いてもらえないかしら? そんなになついてて、おとなしくしてるんですもの。うちの店の問題は、必ずなんとかするから。今だけ。ね、お願いよ」
部屋の床に、昨日はなかったはずの、アスティ・スプマンテのマグナムボトルが転がっている。おいおい昨日のオレ、シャンパン一本でこんなお荷物を預かっちゃったのか?
「ごはんも食べさせてあげるし、この店のお酒も全部あげちゃうわ。なんでもしてあげちゃう。だから、お願い」
そんなことばが頭蓋骨の内側に鳴り響く。オレよ、OKしたのか?
大男が横にべったりしているのが、なによりの証拠みたいだった。ため息。腹が鳴る。またしても食欲。なんてめんどうな、もっか生存中のオレの本能。
食い物はもちろん部屋にはない。お金とかもらってないか、とポケットをひっくり返すと、金銭ではなく飴がごろごろ出てきた。
杏ドロップ。
オレは次々に飴を口の中に放りこむ。興味深げに見つめている男にも渡してやる。
大男はオレの口もとを見て、そして手の中の飴を眺める。やがて真似をして、杏ドロップを自分の口にこわごわ入れ、目玉をななめ上に寄せてばりばりと噛みくだいた。ごっくん。呑みこむ。
「なあ、おまえ……」
やりきれず語りかける。青い目玉がオレに集中する。
「名前は、なんていうんだ?」
無駄と知りつつまた訊いてみる。
間延びしたようにでかい白人は口をむぃ、といったんひねり、鼻をむずむずさせた後、
「フキッ」
と言った。
フキ。
くしゃみだったのかもしれないが、それでもいい。なんでもいい。
人間には名前があることが肝心なのだ。
「わかったよ、フキだな。おまえはフキだ」
オレは言って、さらに杏ドロップを口に放りこむ。
雨の日に出かけるのはきらいだ。足の裏がでろでろになる。道の感じがつかめない。
それでも仕方がなかった。オレはあるだけの杏ドロップをフキと分け合って食ってしまうと、水道の水をごくごく飲んで、ずぶぬれ覚悟で出かけることにした。傘なんか持っちゃいない。
引き戸ががたがた笑う玄関に立って、暗い夕暮れを見上げる。少しは運の良いことに、小降りになってきていた。街の光を受けていやな紫にかすむ空。
「ついてくるな、って言っても……」
潰れた茶色い革靴を三和土でごとごと鳴らしているフキを見る。そう言えばこのヒト靴履いたまま寝てた。
「ついてくるんだろうなあ」
家の一階は相変わらず無人の気配。ピーフケも、リンタロも、いつ帰っているんだか。
よいしょ、と、やぶれかぶれ気味に裸足を踏み出すと、道にたまったにごり水がびしゃんと大きくはね返った。
行ってみたらば「BUK」は第三水曜で休業日だった。オレはこういうスケジュールをまるで把握していないので、いつも無駄足を踏む。何回踏んでも学習しない。
シャッターにぺらんと翻る定休日のお知らせを見ながら、オレはさあどうしようと考えていた。正直、フキを背後にくっつけたまま店に出るのは憂鬱だったので、休みは休みでラッキーだ。
しかし飯。
腹を満たせる第一候補がこれで潰えてしまった。どうするか。飴ちゃんしか食ってないぞ。オハナさんとこ行くか。しかし預かったフキを引きつれて? 裏口で野良猫みたいにごはんだけ貰おうかしらん。
あ。ひらめいた。
ふり返って大男を見上げる。
気をつけ、の姿勢で立ったまま、丸い青目をひょこひょこと四方に動かしているフキは、オレと同じく頭から水滴を滴らせている。
「おい、フキ」
呼ぶとこっちの顔を見る。名前を理解しているのか。何か言われたから反射とか走性とかで振りむくだけか。
「別んとこ行くぞ」
無表情でオレを見返すフキの巨体を包んで、超能力者みたいに白いオーラが光っている、と思ったら湯気だった。ずぶぬれの服が、その高い体温ですでに乾き始め、雨と汗が蒸気となって立ちのぼっているらしい。
まったく変わった生き物だ。
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