魁!BDJ


男気溢れる画像提供・・・白ふくろう舎様 ゆわあ、白サマありがとうございますう!


<はじめに>

BDJとは何か。

それは、本(BOOK)をリミックスし、あたかもDJのように操る者のことである。
ビー・ディイ・ジェイッ! と、スカしたアクションでクールきわまりなく発音していただきたい。
非モテ感みなぎる文系オタクが、態度だけラップにカッコつけてるカッコ悪さをご想像いただければ幸いである。

もう、一冊の本では飽き足らない。自分流の読み方でその面白さを増幅したい。
BDJとは、そんな読書フェチの究極の到達点なのだ。

到達しないでよろしい、との善意のアドバイスはこの際きこえないふりをする。

さて、
一冊の本を、独自の解釈で再構築することも、広義のBDJテクに含められるであろう。
しかしそれは、創作における「カットアップ」に、ややもすると似てしまう。
あるいは単なる「誤読」、場合によっては「盗作」にもなりかねない。

よって、ここではBDJの仕事を
「複数の本を混ぜて読み、新たな意味、味わい、読後感を作ること」
に限定したい。
文章まぜまぜ。テクストまぜまぜ。そこから計算された偶然が立ち上がり、新種の感動が生まれる。
それがBDJの技である。

音楽におけるDJは、多岐に渡る音盤を熟知し、その原曲への愛を原動力にリミックスを生み出す。
BDJも同様である。
本を愛し、どうしようもないほどその世界にのめり込み、一冊の本の価値を深く理解してこそ他のものと混ぜる力を持つ。
決して、原典をバカにしているわけではない。
もっぺん言う。原典をなめているわけではない。
マスターレベルの「読み手」であって初めて到達する、本好き至上の境地と言えよう。

……文のマジックでむりやり説得力をかもし出してみたが、無理があった。

それでもとにかく、
ひきつる笑顔で、
さあ、次世代読書家への入り口、BDJの世界にようこそ!


<初級編>

ここでは、BDJたる者が備えるべき基本のアクションをご紹介しよう。
たとえば、

1:似た枠組みで混ぜる。

時と場所やキャラ設定の似たストーリーをリミックスする。

文体やテーマやイメージが違っても気にしない、とにかく混ぜる、という大雑把な態度(バカとも言う)が必要になる。

ここでは、今をときめく日本の大人気作家ふたりの著作をぐいぐいと混ぜてみる。どちらも2001年リリースのヒット作。
カリスマ作家の作品をいじることで非難をごうごう浴びそうな気がしますが、恐れずにBDJは突き進む。ゆ、勇気だ。がんばれ俺(泣きべそ)。


<基本テクスト>

江國香織「東京タワー」

2005年初頭現在、映画も公開されてばっちりキャッチー。
主人公は20歳のもの静かで謎めいた大学生、。はるかに年上の美しい女性、詩史さんと切ない恋をしている。
ワイルドで行動的な友人、耕二もまた年上の女性と情事を重ね、
同世代の可愛い女の子、由利や、不気味に迫り来る同級生、吉田もストーリーにからむ。
お洒落でリッチな物語の舞台は現代の東京。渋谷、芝。

石平衣良「娼年」

文庫も再版を重ねる人口に膾炙した話題作。
主人公は20歳のクールで厭世的な大学生、リョウ。はるかに年上の美しい女性、御堂静香のボーイズクラブで働き始める。
ワイルドで行動的な友人、シンヤはホストとして年上の女性を狩りまくり、
同世代の可愛い女の子、咲良や、おせっかいに迫り来る同級生、メグミもストーリーにからむ。
お洒落でリッチな物語の舞台は現代の東京。渋谷、麹町。

さて、この二作品を混ぜる。

無理。

そこで速攻投げないでほしい。
BDJならがんばるのだ。
この二作をとにかく読む。
どっちが先でも後でもかまわない。

「東京タワー」
感動したなー! なんて繊細で優雅なんだ。他の江國作品と同じように、食べた後で栄養の残る極上のお菓子みたい。

「娼年」
感動したなー! なんてセクシーでスタイリッシュなんだ。他の石田作品と同じように、切なくも最後に希望がもたらされる。

いや、感想はそれぞれのお気持ちでどうでもよろしい。
読後、少なくとも一ヶ月後。
ぼやん、と両方を思い出してみる。どんな話だっけ。

えーと、主人公はリョウ? ? ……リョウル
メインの年上の女性は、静香さん? 詩史さん? ……シフカさん

この時点で記憶がばっちり混じっていたらオッケーだ。
リョウル」と「シフカ」の、よくわからないラブストーリーが脳内展開され、他のキャラも混ぜて勝手な話が生成される。

えーと、「娼京タワー」っていう話は……。
主人公の大学生が、美しい年上女性に関わるせつない話だったよな。
それで友人の、シンジもたしか年上と情事を重ねるんだ。
で、同級生の吉田メグミがその関係にうざったく茶々を入れるんだっけ。

このぐらい混じっちゃったら成功だ。
BDJへの道を、一歩踏み出した証である。

ようするに記憶のあやふやな人のことをBDJと称するのですね? と、
直截にツっ込まないでいただきたい。

記憶と忘却との淡いライン上で展開される想起のマジシャン。BDJ。

その他、基本アクションとしては

2:キーワードで混ぜる(同じテーマの本をまとめて読む)。

3:形態で混ぜる(対談集を数冊同時読みするなど)。

などがある。
各自工夫の上、うまいこと混ぜていただきたい。

<中級編>

初級編では、日本語小説二本のリミックスに取り組んだ。
中級では一歩進んで、翻訳物を三冊混ぜるというテクをご紹介したい。

三冊。
いきなり難関である。
そのステップをゆるやかにするために、同作家の似た傾向の作品二本をベースに使い、もう一冊を効果的に割り込ませる手法に挑戦しよう。


<基本テクスト>

「晩秋」
「家族の名誉」

著者・ともに ロバート・B・パーカー


パーカーは、ネオハードボイルド・ミステリの作家である。
私立探偵スペンサー・シリーズを、七十年代からえんえんえんえんと書き続けている。
「もういいよ」と言われるほど多作していると思うのは、ミステリのジャンルに暗いわたしの偏見だろうか。

「強いアメリカ」に疲れ、タフで寡黙なハードボイルドに食傷した世代の空気を受け、スペンサーのキャラ設定はなかなかユニークだ。
とにかく饒舌。健康オタク。料理好き。マッチョなくせにフェミニズム理解が深い。人殺しが苦手。子供や女性を自立させることにこだわる。


「晩秋」は、シリーズ中の鬼っ子とも呼ばれる小説だが、この作品からスペンサー・ワールドに入ったわたしにとっては最愛の作だ。

俗物きわまりない両親の間で、物のように扱われる十五歳の少年、ポール。
事件に関わったことから次第にポールを捨て置けなくなり、親のように兄のように「生きること」をレクチャーし始めるスペンサー。
無気力で退廃的な子供が少しずつ、心を開き始めるさまは本当に感動的だ。

「どうしてぼくのことを放っておいてくれないんだ?」
私はまた彼の横に腰を下ろした。
「なぜなら、おまえさんが生まれた時からみんなが放ったらかしておいて、そのために今、おまえは最低の状態にあるからだ。おれはおまえをそのような状態から脱出させるつもりでいるんだ」
「どういう意味?」
「おまえが関心を抱く事柄が一つもない、という意味だ。誇りを抱けるようなことがまったくない。知りたいと思うことがない。おまえに何かを見せたり教えたりすることに時間を割いた人間が一人もいないし、自分を育ててくれた人々には、おまえが真似たいような点がひとつもないのを見ているからだ」
(本文より)


対して、「家族の名誉」は、パーカーが女性探偵モノにチャレンジした作品だ。しかしその通低音は同じである。

ボストンの女探偵、キュートでタフなブロンドのサニー・ランドル。
家出した女子高生ミリーの捜索を請け負い、うつろで自虐的なその少女を見て放っておけなくなる。
女性としての自立を教え、人生の進む道を姉のように母のように示していく様子はまったく感動的だ。


「腕立て伏せなんて、できてもできなくてもいいじゃない?」
「わたしは一般的な話をしてるのよ。いろんなことができれば選択の幅が広がるわ。選択の幅が広がれば、人生がより楽しくなるはずよ」
「腕立て伏せをすれば楽しい人生が送れるわけ?」
「ひ弱いよりたくましいほうがいいわ。それに、のろまより機敏なほうが。でも、あなたは馬鹿じゃないから、わたしの話がたんなるたとえだってわかるはずよ」
ミリセントはまた肩をすぼめ、リモコンを手に取ってテレビのチャンネルを変えた。
「ほんとうにわたしは馬鹿じゃないって思ってるの?」
(本文より)


つまり、この二作品は、よく似たダイナミズムを持つ男女相似形を描いているわけだ。

これを混ぜるのはかなり容易だと言えるだろう。


まずは「家族の名誉」を冒頭から読んでいく。
サニー・シリーズの第一作なので、導入の部分がこまかい。作品世界に入るゲートとして機能している。

第12章までいっきに読み、サニーの生き方と人間関係と気になるストーリーの行方がつかめてきたところで、出し抜けに本を置き「晩秋」を手に取る。
オフィスを引っ越したばかりのスペンサーが、もってまわった気障なセリフを連発するのを読んで「なんだこいつ」と思う。
依頼人の、鼻持ちならない金持ち美女の描写が、「家族の〜」のミリーの母親とそっくりなことを確認しつつ先に進む。

スペンサーが捜査を始める。
サニーも捜査を始めていた。
ボストン市内を車でぐるぐる回りつつ、時にうまいものを食べるふたりの私立探偵がイメージ内でリンクし始める。

ポールを発見する第3章までを読み、

「名はスペンサーだ。サーの綴りは、詩人と同じようにSだ。ボストンの電話帳に載ってるよ」「<タフ>という見出しの項にな」

というセリフを少なくとも五回はリフレインして腹をよじり、「家族の〜」の続きにとりかかる。

ここから先は、好きなテンポで交互に読み継いでいただきたい。
しかし、「家族の〜」のほうが圧倒的に文章量が多いので、最初に13章消化したとは言え、気持ち多めのページ数で読んでいくとよさそうだ。

さて、このあたりでそろそろ最後の一冊を混ぜる。
突如として、児童文学である。

パメラ・L・トラヴァースの「メアリー・ポピンズ」、シリーズ第一作を取り出す。
「ハードボイルドにも疲れてきたな」と思い始めるあたり、から自由に混ぜてくださって構わないのだが、
ピンポイントで言えば「家族の〜」第34章、

「落ち葉は風に吹き寄せられて、道路の両側に茶色い小山を作っている。」

のあたり、メイドが出てくるくだり。

このあたりで本を「メアリー・ポピンズ」に持ちかえ、第1章「東の風」を読んでいただきたい。
緊迫したミステリのムードがいきなり緩み、謎のお手伝いさんが降臨。

1章のあとは自由に推理小説に戻り、好きなペースで読み続けていこう。

「メアリー・ポピンズ」の第2〜11章までは、混ぜて読んでもいいし読まなくてもてんで構わない。
ただし、何章かでも読んでおいたほうがラストが盛り上がる。

スペンサーとポール、ソニーとミリセントがじわじわ打ち解けていくのを並行して読みながら、時にメアリー・ポピンズを混入。
各BDJの裁量が問われる配分となる。

だいじなのは、いちばん最後に読む章を、「晩秋」にするか、「家族の〜」にするか、である。
しんみりじわりと泣きに持っていきたいなら「晩秋」を、クール・ハッピーにセクシーにまとめたいなら「家族の〜」をおすすめする。

選んだ最終章の直前で、ぱたりと本を置き、上向いていくつか呼吸して「タメ」を作ったあと、「メアリー・ポピンズ」最終章「西の風」を読む。
メアリー・ポピンズ、行かないで! と切なくなったあとで、残しておいた最後のテクストを読む。

じわじわと、意識無意識双方向から襲ってくるラストの感動。

普通に読むよりも、二倍楽しくて、五倍疲れるはずだ。
え、て、だめじゃん。

<上級編>

さて、いよいよBDJもマスターレベルとなる。

ああ! おお! どんなにか超絶技巧的に素晴らしい技が繰りだされるのか!
と 思いきや(いや、すでに誰もそんなこと思わないか) えー、実にくだらない境地に踏みこむ。

ラスト・ミッション・・・「めちゃくちゃに混ぜる」

あっ、帰らないでくださいっ。

「めちゃくちゃ」とはたしかに、語感が悪い。
何も考えずに得手勝手する、みたいである。

しかし本当はそうではない。
思い浮かべていただきたい。

いけてるDJが、クラブのノリにシンクロしながら意外な音源を突然ぶち込み、フロアを煽り、意外性と必然とのぎりぎりラインをつないでミックスし続ける様を。
「そうきたか!」と思わせる、衝撃の展開。
それでも途切れることなく続く、踊り続けるためのエモーション。モチベーション。コンセントレーション。

BDJがその境地を目指すとき、一見めちゃくちゃな本のチョイスと、言葉やイメージの無茶なシンクロが生まれる。
そう、長く長く、ひたすらリンクしていく文字の群れ。
読み明かそうぜ、今夜は。いえー。夜が果てるまで。エビバリリードナウ。行くぜ、めちゃくちゃリミックス!


<導入テクスト>

「いさましいちびのトースター 火星に行く」 トーマス・M・ディッシュ (浅倉久志・訳)

キュートにポップに始まるミックス。SFメルヘンで今宵の読みはスタートするぜ。

1980年発表の、「いさましいちびのトースター」は各種SF文学賞をがっつり受賞、&でずにー映画にもなった名作。
主人公はやんちゃでかわいいトースター、仲間の電気器具とともに、別荘からご主人様を探してアドベンチャー! な快作。
今回のテクストはその続編。

とにかく、かわいい。この本は、お話はどうにもこうにも可愛いすぎる。
ジャケ、じゃないや、表紙を見てくださーい!

 絵本じゃないよ。ハヤカワ文庫だよ。

デザインもページも長崎訓子さんによる挿絵も、「ぴゃー!」と叫びたくなるくらいかわいい。
ポップ好きな人はぜひぜひ読んでくださいまし。

さて、新たなご主人様のもとで、平和に日々を送るトースター君と、それぞれキャラの立った掃除機さん、ラジオくん、電気毛布たんなどの仲間が、がらくたのように転がっていた補聴器氏に出会うところから話は始まる。
通電して、喋れるようになった補聴器はなんと! すごい人の制作したすごいメカ。


「彼の名前はきみたちも聞いたことがあると思う。当時はとても有名だった。彼の名前はアルバート・アインシュタインという」
きゅうにラジオがうたいはじめ、天井扇風機がものすごいスピードでまわりはじめました。掃除機のゴミ袋がとてつもない大きさにふくらみました。
この極度の興奮状態に加わらなかった電気器具は、家の中にひとつもありません。
なぜなら、アルバート・アインシュタインはこれまでに製造されたすべての電気器具が知っているとおり、二十世紀最高の、いや、おそらく史上最高の天才科学者だからです。

(本文より)


その補聴器の卓越した頭脳は、ラジオくんの受信した謎のCMソングを解析し、地球に危機が迫っていることを解き明かすのだ。


「なんとか、その侵略をやめさせなくちゃ」トースターはいいました。
「どうしたらいいかわからないけど、とにかくなんとかしないと」
「そのとおり」補聴器が答えました。
「そのためには、みんなで火星に行くしかない!」
(本文より)


と、盛り上がったところですかさず次の本を取り上げる。はやくはやく。
電気製品が火星に行くんなら、文房具にも宇宙に行ってもらおうじゃないか。


<テクスト>

「虚構船団」 筒井康隆


まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
(本文より)


この一行目だけで ある種の読み手を払拭し、そしてまた別種の読み手を呪縛するすごい書き出し。
日本SF界揺籃期の鬼っ子、鬼才・異才・天才の名をほしいままにする筒井康隆の大長編をエクステンションする。

宇宙の深奥を進む巨大船団。
「文具船」の乗組員はすべて文房具。そして全員が精神の平衡を失っている。


ここで輪ゴムが登場する。彼は気が狂っていた。操縦士だったが特に宇宙船を操縦している時は完全に気が狂った。
輪ゴムのゲシュタルトはもともと分裂・崩壊しやすかったらしいのだが文具船操縦士となってからは操縦していない時でさえしばしば分裂・崩壊した。

(本文より)


数を数える行為のみに固執するナンバリング、色情狂の糊、反社会性人格障害のホチキス(追い詰められるとココココと針を吐いて失神する)、天皇妄想の消しゴムなどを載せて宇宙船は進軍する。
兄弟憎悪の三角定規、殺人狂のパンチ、ナルシストの下敷き、船長なのにやっぱりおかしい赤鉛筆などの挿話が錯綜し、時にレトリックの罠で話をえらいところにすっ飛ばされたりしながらも、

本艦からの恐ろしい指令。鼬の惑星クォールを殲滅せよ、って、どうなるのー! 全部読みたいー! という魔力的なストーリーを振り切り
(もちろん全部読み通すことを推奨します。第一章は文具船の内部、第二章はクォールの全歴史、第三章は「神話」と呼ばれるすべての終結点となっております)

次の本へとつなげる一点を探す。

リンクポイントは、第一章の雲形定規のシーン。

雲形定規二十五兄弟は、それぞれの個を持たず、アイデンティティを共有している。二十五人が、だ。


さらに彼らは自分を他の二十四人に同一化するいわゆる異化的求心的同一化を行っていると同時にまた、他人を自分に同一化するいわゆる同化的遠心的同一化をも行っている。
このふたつの同一化の共存はもはや相互同一化とでも言う他ない複雑なものであり、これを前に述べた同一化の時期的考察とも考え合わせた場合、
集合無意識による同一化つまり彼ら二十五人は彼らが生まれる以前から相互に同一化していたとしか考えられないのである。
(本文より)


うわー、集合無意識、キターーーーー!

というわけで本はユングの最後の著作に移る。


<テクスト>

「人間と象徴」 C.G.ユング 他 (河合隼雄・監訳)

分析心理学の開祖、ユング。
その業績は偉大ながらも、フロイトのようには西欧の民衆になかなか浸透せず、理解の困難な専門的思想と考えられていた、そうでして、昔は。
そんなわけで、50年代の終わり。
もったいないことだ、ああもったいない、と、「もったいないオバケ」化した人々がユングにアクセスし、「専門家や哲学者向けじゃなくて、市井の人のための本を書いてください!」と懇願した結果、実現したのがこの著作だ。

多くの弟子たちとの共著となったこの本は、ユングの論文を読むと二行目ですやすや眠りについてしまうような低レベルのわたしにもわかりやすく、平易。
メインコンテンツである「無意識の接近」は、心理・象徴・夢・無意識にちょっとは興味ある人なら必読でっせ!

章は「象徴の役割」、非常にやさしく集合無意識に言及している場所にジャンプ。


遠い過去において、その根源的な心は人間の人格の全体であったからである。
人間が意識を発展させるにつれて、意識的な心はこの原始的な心のエネルギーのあるものとの接触を失っている。

(本文より)


ここから、ユング最後の仕事は無意識に触れ、象徴に触れ、それをないがしろにするために生じる病理に触れ、回復へのヒントをつづっていく。

そのまま最終章「断絶の治癒」まで読み進もう。無意識が活性化されてヌミノースな力がぶいぶい心を揺り動かし始めるかもしれない。


夢はその象徴を理解しようと苦労するものにとっては、最も興味深い情報を与えるものである。
(本文より)


夢だ、夢。夢だよ。つうことで、また飛ぶ。


<テクスト>

「月の骨」 ジョナサン・キャロル (浅羽莢子・訳)

キャロルは不思議な作家だ。ダーク・ファンタジー、というジャンル名は、この人のためだけにあるのかもしれない。

警句に満ちた文章、美男美女登場の洒脱なシチュエーション。ハーレクイン・ロマンスばりのストーリーに一瞬惑乱されているうちに、だしぬけに犬が喋り、死者が甦り、想像上の人物があたりまえに存在し始め、リアルな描写の中にぼろぼろ超自然現象が炸裂する。
そして血しぶきと業病、狂気、恐怖、カタストロフ。

ヘンな人じゃないとついてこない芸風のために、あまりブレイクしない作家。わたしは大すきだ。

「月の骨」も、ベタベタなラブロマ風に話が始まる。
ニューヨークで孤独を噛みしめている美女、カレンの前に最高に素敵な男性が現れる。結婚、そしてイタリアでの幸せな生活、妊娠。
そして奇妙な連続夢がやってくる。


夢は、見たことのない空港の上を旋回する飛行機の窓から外を覗く場面で始まった。
振り返って隣りに座っている子供を見たが、すぐに自分の息子だとわかった。名前はペプシ。

(本文より)


夢の中でロンデュアという謎の世界を旅し、月の骨と呼ばれるアイテムを探すカレンとペプシ。
それと並行して、現実生活は娘のメイが生まれ、アメリカに戻り、日々を送るカレン、の階下に住んでいた少年、アルヴィンがある日まさかりで母と姉を惨殺する。

アルヴィンに好かれていたカレンは、刑務所の彼との間で手紙のやりとりを行うが、その内容は次第に耐え難いものへとなっていく。


「ジェイムズの奥さん
(略)
『将軍』って本を読みました。日本やサムライっていう戦士たちのことが書いてあります。連中には全部わかってたみたいです。
連中の見方からいうと、正しい人生‐‐勇気や度胸で一杯のやつ‐‐を送ってる人間にとって、大切なのは名誉ある死にかただけなんです。
あの本には、指揮官のために死なせてくれと実際に頼む人間も登場します。指揮官が許してくれると(全員が許されたわけじゃありません。本当です!)、自分のことを運のいいやつだと思いながら外に出て、自殺したんです。」
(本文より)


サムライを引き合いに出して自分の家族惨殺を正当化するアルヴィン君は置いといて、ここでまた文章は別の本にジャンプする。


<テクスト>

「憂国」 三島由紀夫

そうだ切腹だ。
てことでミシマに飛びます飛びます。


二人の自刃のあと、人々はよくこの写真をとりだして眺めては、こうした申し分のない美しい男女の結びつきは不吉なものを含んでいがちなことを嘆いた。
事件のあとで見ると、心なしか金屏風の前の新郎新婦は、そのいずれ劣らぬ澄んだ瞳で、すぐ間近の死を透かし見ているように思われるのであった。

(本文より)


ごく短いテクストなのでぜひ丸ごと読んでいただきたい。アルヴィン君が読んだらパーフェクトゥ! とか言ってすぐさま軍服のコスプレを始めることであろう。

エロスとタナトスの拮抗、三島由紀夫の最期を予見する逸品、美意識の頂点。

二・二六事件に懊悩する青年中尉が、その美しい妻を前にして割腹自殺を遂げる。
その妻もまた烈婦よろしく死に様を見届け、自身も喉を突いて自害する。

死に至るまでの研ぎ澄まされた記述、に見せかけて、これは凄まじいラブ話なのだ。
一面曇りもない漆塗りのような、皇国への忠誠、の中に螺鈿みたいに蒔絵みたいに刻み込まれたエロス。


ありえようのない二つの共在を具現して、今自分が死のうとしているというこの感覚には、言い知れぬ甘美なものがあった。これこそは至福というものではあるまいかと思われる。
妻の美しい目に自分の死の刻々を看取られるのは、香りの高い微風に吹かれながら死に就くようなものである。そこでは何かが宥されている。
何かわからないが、余人の知らぬ境地で、ほかの誰にも許されない境地がゆるされている

(本文より)


おう、マーヴェラスゥ! とアホなガイジンっぽく叫びつつ、
ええと、二・ニ六事件って結果的に謀反になっちゃったけれど、いわゆるひとつの革命よね……、と思いつつ。ジャンプ。


<テクスト>

「吉里吉里人」 井上ひさし

革命だ。
日本SF大賞&読売文学賞受賞の、ジャンルなんかぶっ飛ばして文学の愉しみに、想像力の果てに、日本という国の有様に読者を投げ飛ばす超痛快大長編。

東北の寒村、吉里吉里が、突如ひとつの国家として日本国から分離独立を宣言した……。
ナメきって制圧にかかる日本と、グローバルな隠し玉をがんがん出して優勢に立つ吉里吉里国、の大騒動を、迷い込んだ三文作家の眼で、
そして「吉里吉里語」たるずうずう弁を駆使して、語りつくし笑いのめすものすごい展開。
これでもか、とてんこ盛りのギャグとパロディ、たくましい吉里吉里人のキャラも立って、文庫本にして上中下の分厚い三冊を一気に読まされてしまいます。サイコー。


「んだがらここは日本国じゃないねえのす」
「ここはハァ吉里吉里国なんだものねっす」
(中略)背広男はしきりに鼻を啜っていたがやがて胸のハンカチを引き抜いて何度も鼻をかんだ。
「おらだぢはとうとう日本国から分離独立したんでがすと」

(本文より)


おもしろすぎて死にそうになる大長編、未読のかたはぜひどうぞ。

さて、リンクポイントは下巻の中盤。

吉里吉里国の交通であり国会でもある木炭バスに、日本の自衛隊からの攻撃が仕掛けられる。
ヘリの編隊が花笠音頭を流しながら来襲、人間兵器である吉里吉里の「愚人会議」メンバーが「コカンホー」(股間砲……)で迎撃、
そのすさまじい戦闘の中で語り手の作家は、絶体絶命のピンチで懸命に詩を書きなぐる。


わ、わたしは午後に死にたくない/古、古、古橋健二

わ、わたしは午後に死にたくない
ご、ごご午後にはまずおやつが出るし
虹が、でで出るのも午後だし
散、散歩の帰りの日没は美しいし
そそれに夕刊、みみみ見るのも楽しみだ
だ、だから午後には死にたくない

わ、わたしは夜に死にたくない
よ、よよよ夜には晩酌があるし
バ、バ、バーで飲むのも悪くない
パブ、未亡人サロン、クラ、クラブ
トルコ、女が美しく見えるのは夜なのだ
だ、だから夜にも死にたくない

わ、わたしは夜中に死にたくない
だいいち夜中は寝にゃならんだろう
見たい夢だって、たたたくさんあるし
トト、トイレにもおきなきゃならんし
ひょっとして傍に女がいるかもしれん
だから夜中にゃ死にたくない

わ、わたわたしは朝に死にたくない
な、なんとしても朝刊を読みたいし
油揚げ味噌汁、ああたまらない
朝酒飲んで、またまた、またひと眠り
めめ、めざめた頃に郵便の声
だから朝にも死にたくない

こ、こんな具合に考えて行くと
わ、わたしは結局死にたくない
どんなときでも、死にたくない
戦場などでは、なおさらだ
それでも「死ねや」といわれたら
百を越しての、大往生

(本文より)


なんという素晴らしい生への執着をみっともなく正直につづった詩篇でありましょうか。
この詩は、ある別の本にもまるまる転載引用されている。ジャンプ。


<テクスト>

「政治的殺人 〜テロリズムの周辺〜」 長尾龍一

平成元年の出版だけれど、この「叢書・死の文化」って優れたシリーズの中の一冊。

こちらはテロルというものを人間性から、文学から、政治史から探ったとても興味深い本。
この冒頭に、上記の「午後に死にたくない」が引用されている。

そう、人はふつう死にたくない。
だけど死を厭わず、それを賭けて大儀のために自殺攻撃に出る者、それはテロリスト。

こまった話、わたしはごく幼少期からテロリストになりたいとごく自然に思ってしまっていた。

あっ。通報しないでくださーい!

人間社会の矛盾やら誤謬やらがやたら目につくおかしな子供だったので、なんで地球ってところは人間がこんなに威張っているのかと不思議でならなかったのだ。

どうして、動物を人間の利益のためにころすの?
と、自然に優しく人類に厳しい観点で世界を見てしまっていたため、勢いで大量殺人犯になりそうな思想を抱えていた。やな小学生だ。
ストレートに自然保護系の人にならなくてよかった。
なってたら、動物を守るために人類を殺傷するおそろしい人生歩んでいたと思う。

人間ていろいろ複雑でたいへん、てことがわかったため、テロルの道は歩んでいないが、
そうなる人の経緯や気持ちもわかるような気がしてしまう。

なので、つい惹かれて調べてしまうテロル関連の情報、学識、書籍よ。
この本はとてもそのあたりの真実に迫る、良質な文書なのだ。


長谷川昇氏の「博徒と自由民権」は、自由民権の蜂起と言われる明治十七(一八八四)年の名古屋事件と博徒の関係を、第一資料に基づいて再発掘したもので、自由党と博徒集団が連合して強盗行為に及んだ次第が詳細に書かれている。
「(中略)三十余名の壮士団が押しかけ、『矢野・尾崎に会わせろ』『立会い演説会を開け』などとわめき散らしたあげくのはて、
懇親会の席上に糞尿を詰めた樽を担ぎこみ、柄杓を振りまわして改進党員を追っかけまわし、秋琴楼の大広間一面に糞尿を撒き散らすという無茶をやってのけた」

(本文より)


糞尿ー!?
えらいテロルもあったもんだ。びっくり。
しかし糞尿。スカトロ。
わたしはつまらない下ネタは幼稚な所作として無視排斥する方向で生きているが、突き詰めてるんなら話は別です。
スカトロの大著、ゴー!


<テクスト>

「スカトロジア」 山田稔

たかがうんちおしっこと侮るなかれ。もはや学術。
古今東西のスカトロ文献を網羅し、「ラブレーから谷崎まで」きっちりロックオンした大変な業績なんである。

スカトロって小学生レベルで語れるから基本的につまらない。共通項でみんな笑うからいけてるギャグだと思って連呼するバカに世間は溢れてる。
へっ、つまんねーんだよー! もっと語りこんでみろっての。

そんなあなたに素敵なこの御本。スウィフトから、民俗学的考察から、食糞譚から、放屁考まで、クソ真面目に読み込んでしまいましょう。


また武田信玄は策戦を便所の中でめぐらしたという。「雪隠で恐ろしくなる人こころ」という川柳もあるくらいだから、スウィフトが描いているように便所のなかで国王暗殺の計をねる人間がいたとしても少しも不思議ではないのである。
もっとも一方では「雪隠で出るふんべつは屁のごとし」「雪隠を戻ればもとの物わすれ」といった句もあるのだから、安心できないのだが。

(本文より)


ためになるなあ。
で、尾篭満載の文章を読み進んでいき、「陽気な破壊者たち」の章。


二十世紀文学におけるこの種の傾向の一つとして、エロチスムの一変種としてのスカトロジーにも触れておかねばなるまい。
たとえばジョルジュ・バタイユのペンネームと考えられるピエール・アンジェリックの『眼球譚』(I'Histoire de I'oeil)のなかのスカトロジーは、あきらかにエロチスムの一変形として描かれている。

(本文より)


おお、バタイユ出てきた。ではジャンプ。


<テクスト>

「眼球譚」 ジョルジュ・バタイユ

「たいそう孤独な生い立ち」の十六歳の「私」と、海岸で出会った遠縁のシモーヌという娘が、ひたすらエロスを追及する。
いつでもどこでも何を使ってでも。尻も糞便も死体もまるだしであるがどういうわけか格調は高い。
バタイユの自伝的作品らしいのだがどうにもこうにも激しゅうございます。

引用しようとして、はたと迷ってしまった。
どこを抜き出しても、瞬時にこのコンテンツが18禁になってしまうではないか。
そういうわけで、一行だけでごまかす。


この頃からもう、シモーヌは尻で玉子を割る遊びに熱中するのだった

(本文より)


……かわいいSF童話ではじまったリミックスが、いつのまにかテロルやエロスやスカトロ方面の、とんでもなくモンドなテイストになってしまった。

やばいやばい。最後、なんとかかわいくまとめよう。

玉子、だから。


<テクスト>

「もりのへなそうる」 わたなべ しげお・さく やまわき ゆりこ・え


あるひ、てつたくんと、みつやくんは、くれよんでがようしに えをかいてあそびました。
てつたくんは、 まるいわをかいて
「これは、たまごです」と、いいました。
みつやくんも、まるいわをかいて
「これは、たがもです」と、いいました。
「た ま ご」と、てつたくんがいいました。
「あっ、た が も か」と、みつやくんがいいました。

(本文より)


三歳と五歳のなかよし兄弟が、空想力満載で森の中に遊びにいくおはなし。
赤と黄色のしましまの巨大なたまごをみつけ、ひみつにして隠す。
そこから生まれてきたのは、赤と黄色のしまもようの、まぬけ顔した恐竜のこども。


「へんな どうぶつだ!」と、てつたくんがいいました。
「へんな どうつぶだ!」と、みつやくんもいいました。
すると、そのへんなものが、ふたりのほうをみて、あきれたようにいいました。
「ぼか、へんなどうつぶだ じゃない」
「じゃあ なんていう どうぶつだい?」と、てつたくんがききました。
「ぼか、なんていうどうぶつだい、じゃない。ぼか、へなそうるのこどもだい」

(本文より)


へなそうる。
そのネーミングだけで、脱力〜。

兄弟はへなそうると仲良くなり、遊び、おにぎりやチューンガムをわけてあげる。
食いしん坊で、こわがりのへなそうる。
「かに」や「おたまじゃくし」を恐ろしい怪物と想像してびびるへなそうる。
しまいには、川の水面に映った自分を見て、腰抜かすほどたまげるへなそうる。

夢判断的には。
森の中にひそむのは、無意識に封じられた自らのシャドウ。抑圧された本音や本質、ネガティブな性質の、象徴的キャラクターだ。

それがこんなにノーテンキなあほの恐竜だったら、どうだろう。

やたら強がってる人ほど、無意識を覗き込んだとき、こんな無防備でマヌケな怪物が出てきてしまうような気がする。

て、それは、わたしか。
内面と本質は弱虫で食いしん坊でおっちょこちょい。

この話を「うふふふ」「あははは」と笑って読める人は、心のどこかにまるで育ってない幼児性をきっちり抱えたまま、オトナになってる人なのかもしれない。

わたしは自分の中の「へなそうる」を文章にして、この大マヌケなサイトで、あきれずに遊んでくれる、てつたくんやみつやくんを待ち構えているのでありましょうか。

リミックスしてきたら、自分の本体を発見してしまった。こまった。

SFだユングだオカルトだテロルだバイオレンスだエロスだキワモノ趣味だ、と言い散らしたあげく、
ほんとのわたしはマヌケなこども。
そういう本質を小出しに表現するために、わたしは文を書いているのかもしれないなあ、と床に倒れて平泳ぎ。

うーん、自分見つけしてる場合じゃない。リミックス、まとめるぜ。ゴー!


もっともっと あそびたかったのに、うちにかえらなければなりません。

「さよなら、また あそぼうぜ」と、てつたくんがいいました。
「さよなら、また あしょぼうぜ」と、みつやくんがいいました。

「さよなら、また おにぎり もってきてね。ぼか、おにぎり だあいすき」と、へなそうるがいいました。

てつたくんと みつやくんは、もりのいりぐちで へなそうるとわかれました。

ふたりは、てをつないで かえりました。

ふたりのせなかの りゅっくさっくが ゆうひで まっかにみえました。

(本文より)


・・・(魁BDJ塾・完)

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